2009年11月 9日 (月)

コロリオフのフランス組曲


Koroliov


Bach
French Suites BWV 812 - 817
Evgeni Koroliov, piano
TACET

CD 1
Suite I d - Moll BWV 812
Suite II c- Moll BWV 813
Suite III h - Moll BWV 814

CD 2
Suite IV Es - Dur BWV 815
Suite V G - Dur BWV 816
Suite VI E - Dur BWV 817

Recorded: Hannover / Germany
Instrument: Steinway D - 274
(C) (P) 2007 TACET
録音年不明

ヒューイットの《フランス組曲》に比べればテンポが遅く、チンタラした演奏に思える。しかし、左手の音がよく聞こえる。コロリオフはグールドの同作品の演奏を意識しているように思える。すなわち右手、左手のバランスの良さがある。

第1番はチンタラしていたが、第2番のクーラントはリズミック。第2番のクーラントは、ヒューイットのもリズム感が素晴らしかった。

この二人は、当然、デュナーミクにおいて違いが大きいが、比較的地味なフランス組曲を、デュナーミクで勝負しようとしている意図は共通している。その際、ヒューイットのほうが、癖が目立つ。コロリオフのほうも、耽美的で個性的。どちらの個性を好むかは、リスナーの嗜好に依存する(私は第2曲の「Air」第3曲の「Anglaise」が好きなのだが、それらのリズムはコロリオフのほうが良いと思う)。

この両者は、個性が違いすぎて比較するのが難しい(抽象的な言い方で悪いが、前者が知性で演奏しているの対し、後者は感性で演奏しているように思える。私は知性派のヒューイットのほうが好みに合うかも)。結局、チェンバロによるヴァルヒャか、グールドの演奏が恋しくなる・・・。

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2009年11月 7日 (土)

ヒューイットのフランス組曲


Hewitt


Bach
The French Suites
Angela Hewitt, piano
Recorded 1995
hyperion

DISC 1
Sonata in D minor BWV 964
French Suite No. 1 in D minor BWV 812
French Suite No. 2 in C minor BWV 813
French Suite No. 3 in B minor BWV 814
Six Little Preludes BWV 924 - 928, 930

DISC 2
Six Little Preludes BWV 933 - 938
Six Little Preludes BWV 939 - 943, 999
French Suite No. 4 in E flat major BWV 815
French Suite No. 5 in G major BWV 816
French Suite No. 6 in E major BWV 817
Prelude and Fugue in A minor BWV 894

以前、私は、ヒューイットの《フランス組曲》を貶した記憶があるが、久しぶりに聴いてみたら、良かった(彼女のフランス組曲は少し癖があるので誤解していたようだ)。第1番のサラバンドで、主旋律が最初は右手、次は左手で奏される、ヒューイットの演奏ではそのコントラストが生きていないような気がしていたが、よく聴いてみるとうまく弾いている(他の曲の演奏も私の好みに合うようだ)。私は、コロリオフのフランス組曲が、好きなのだが、もう一度よく聴き比べてみる必要があるようだ。

【追記】ヒューイットのフランス組曲第4番には短い Praeludium が付いています。Gavotte II も付いています。

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2009年11月 5日 (木)

ザ・シックスティーンのメサイア


Sixteen


Handel
Messiah
Carolyn Sampson, soprano
Catherine Wyn-Rogers, alto
Mark Padmore, tenor
Christopher Purves, Bass
Harry Christophers, conductor
The Sixteen
Recorded 2007
CORO

もったいぶった一本調子の演奏が面白くない。退屈する。疲れる。流れが悪い。

第6曲のアリア「But who may abide the day of his Coming? 彼が来る日を誰が耐えられようか?(いや、誰も耐えられない)」これは、メサイア(救世主)が来る時、人間は、その恐怖に耐えられないということを歌っている。しかも、メサイアつまりキリストさんは「a refiner's fire 精錬する者の火」まるで、火を吹くゴジラのように悪者たちを焼き殺す怖い人だと歌う。ところが、実際にやって来たキリストさんは、「こわい、こわい」と怖れられていたが、実はやさしい人だったというのがメサイア第1部の「落ち」である。つまり第6曲のアリア「But who may abide the day of his Coming? 彼が来る日を誰が耐えられようか?」は「キリストさんは怖い人かと思っていたらやさしい人だった」ということを強調するためのチャールズ・ジェネンズ(Charles Jennens、メサイアの台本を作った人)とヘンデルの演出だ。その演出は、この第6曲がシチリアーノ風の美しい歌であるがゆえになおさら効果的である(中間部は激しいが)。それを、キャサリン・ウィン=ロジャーズ(Catherine Wyn-Rogers、クリストファーズ指揮メサイアのアルト歌手)は、まるで棒読みで歌っている。

第7曲「And he shall purify」は荘厳な合唱。第8曲「受胎告知」はリズミックな3拍子だ。その後、すぐにキリストさんが生まれるかと思わせておきながら、第9, 10曲は短調で「闇の中の光」がものものしく歌われ、第11曲「For unto us a Child is born」でキリストさんが生まれる。

ハリー・クリストファーズの指揮はその第6 - 11曲が芝居じみていないのが気に食わない。つまりメサイアは少し芝居じみていないと面白くないというのが私の嗜好である。

第13曲、ルカ第2章第8 - 11節のキリスト誕生が天使たちによって羊飼いに伝えられるおめでたい情景へ至るまえに、第12曲「Pifa」が序として演奏されるが、それはオペラの間奏曲だ。オラトリオ《メサイア》は、短調、長調の曲【注】、美しい曲・激しい曲の交替が物語を盛り上げるまさに音楽劇であるはずだが、クリストファーズの指揮は、演劇的表現という視点から見て、私は味気なさを感じる。

The Sixteen の合唱はうまい。ソプラノのキャロライン・サンプソン(Carolyn Sampson)もうまい。彼女は "Rejoice greatly, O daughter of Zion" を非常にうまく歌っている。さもなければ、私は、ザ・シックスティーンの《メサイア》を売っぱらってしまっていただろう。

【注】私は、絶対音感がないからメサイアが、何調を中心に書かれているか分からないが。

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2009年11月 3日 (火)

ホグウッドのメサイア


Hogwood


ヘンデル
メサイア(1754年捨子養育院版)
ジュディス・ネルソン(ソプラノ1)
エマ・カークビー(ソプラノ2)
キャロライン・ワトキンソン(アルト)
ポール・エリオット(テノール)
デイヴィッド・トーマス(バス)
オックスフォード・クライスト・チャーチ聖歌隊
エンシェント室内管弦楽団
クリストファー・ホグウッド
1979年録音
ポリグラム株式会社

これは、ボーイソプラノの合唱が良い。

この演奏は、聴きやすいし、楽しめる。昔は、国内盤が、歌詞対訳付で2900円で売っていたのだが、いまは廃盤なのが残念。

これを聴くと、ヘンデルは、合唱のソプラノ・パートに、あまり難しい歌唱を要求していないようだ。"For unto us a Child is born" や ハレルヤコーラスを聴くと、そう思う。

ちなみに、ショルティ盤のオビには以下のような記述がある。


ショルティはヘンデルの生誕300年にあたる1985年に《メサイア》を発表することを決め、録音にとりかかった際、そのエディションの選択に関して非常に慎重な対応をとりました。何と、自分より30歳も年下のホグウッドにアドヴァイスを求めたほどです。結局、トービン版を採用するのですが、出来上がった演奏は意外なほどバロック様式を踏まえたものに仕上がっていました。

ホグウッドの音源は貴重だと思う。ショルティのメサイアは、バロックの専門家の演奏よりバロック音楽の楽しさを感じさせる。私がそう思う理由は、実は、Handel: Messiah Harry Christophers The Sixteenの演奏が面白くなかったからだ。それについてはまた後日書きます。

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ヤーコプスのメサイア


Jacobs


Handel
Messiah
1750 version (conducted by the composer)
Kerstin Avemo, soprano
Patricia Bardon, alto
Lawrence Zazzo, contre-ténor
Kobie van Rensburg, ténor
Neal Davies, Bass
The Choir of Clare College
Freiburger Barockorchester
René Jacobs
Recorded 2006
harmonia mundi

これは、メリハリがあってスピーディな演奏が良いのだが、オケは美しくない。合唱はうまい。

クラシック音楽愛好者は、ある演奏の一箇所が気に入れば、その演奏が気に入ったりするが、この演奏は、Kerstin Avemo, soprano のアリア「Rejoice greatly, O daughter of Zion シオンの娘よ 大いに喜べ」が気に入った・・・というか、独唱者は、みんなうまい。それから、カヴァーデザインが良い(Jan Provost, Allégorie du Christ, 1510)

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マッケラスのメサイア


Mackerras


Handel
Der Messias
bearbeitet von / arranged by Mozart
Edith Mathis, Sopran
Birgit Finnilä, Alt
Peter Schreier, Tenor
Theo Adam, Bass
Chor des Österreichischen Rundfunks (ORF) Wien
Symphonieorchester des Österreichischen Rundfunks (ORF)
Sir Charles Mackerras
Recorded 1974
ARCHIV

もう一つの私のお気に入りは、マッケラス指揮 モーツァルト編曲版。

録音は古いが、これも面白く楽しい。第15曲 アリア「Erwach zu Liedern der Wonne (Rejoice greatly, O daughter of Zion シオンの娘よ 大いに喜べ)」を、ペーター・シュライアーが歌っていて驚かされるが、この盤における、エディット・マティスが良い(エディット・マティスのファンである私にはうれしい録音)。

モーツァルト編曲なので、メサイアがますますオペラっぽく聞こえる。マッケラスの指揮は良い。

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ショルティのメサイア


Solti


メサイア全曲
キリ・テ・カナワ(ソプラノ)
アンヌ・ゲヴァング(アルト)
キース・ルイス(テノール)
グウィン・ハウエル(バス)
シカゴ交響合唱団(合唱指揮:マーガレット・ヒリス)
シカゴ交響楽団
ゲオルグ・ショルティ
1984年録音
DECCA

私は年末にメサイアを聴くことにしている。私が所有するメサイアは、下記の10種。その中、デジタル録音でおすすめなのは、ガーディナー、ピノック、アーノンクールよりも、ショルティだ。理由は、それがキビキビした音楽なので、聴いてて疲れない(これは大事なことです)。ショルティのメサイアが思い出させることは、オラトリオは本来演技のないオペラであること、つまりオラトリオは「インタレスティング」であらねばならない・・・それを、上記のバロック出身系の指揮者は、あるいは希薄にしてしまったのではあるまいか。(私はショルティのメサイアを初めて聴いたとき、第8曲「アリアと合唱 よきおとずれをシオンに伝える者よ "O thou that tellest good tiding"」の合唱が、まるでワルツに聞こえてびっくりしてしまった・・・いま聴くと普通の三拍子だが)

合唱指揮者のマーガレット・ヒリスの指揮はここでもうまい。つい一緒に歌ってしまう。

メサイア(1972年録音),リヒター,Lpo
メサイア(ドイツ語版、1974年),Charles Mackerras,オーストリア放送交響楽団&合唱団
メサイア(1979年),ホグウッド,エンシェント室内
メサイア(1982年),ガーディナー,EBS
メサイア(1985年),ショルティ,Cso
メサイア(1988年),ピノック,イングリッシュ・コンサート
メサイア(1996年),マクリーシュ,ガブリエリ・コンソート&プレイヤーズ
メサイア(2004年),Nikolaus Harnoncourt,CMW
メサイア(2006年),ヤーコプス,フライブルク・バロック
メサイア(2007年),Harry Christophers,The Sixteen

【HMVへのリンク】
ヘンデル:オラトリオ《メサイア》 サー・ゲオルグ・ショルティ

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2009年10月30日 (金)

ジェニー・リンのショスタコーヴィチ 作品87


Lin


Shostakovich
24 Preludes & Fugues, op. 87
Jenny Lin, piano
Recorded 2008
Hännsler

ショスタコーヴィチの「24の前奏曲とフーガ 作品87」

私はこの作品を、大昔、リヒテルによる抜粋盤(LP レコード)で聴いた。【注1】

私にとって、親しみ、想い出、思い入れがある作品87の全曲盤を、ニコラーエワ(1987年録音)、キース・ジャレット(1991年)、シチェルバコフ(1999年)、アシュケナージ(1996 - 1998年)の演奏で聴いたが、どれもピンと来なかった・・というか、途中で退屈する。そこで、米国アマゾンのカスタマーレビューで評判が良いジェニー・リン盤を買ってみたところ、これが良かった(米国アマゾンのカスタマーレビューは参考になることが多い)。

上記、ニコラーエワ、ジャレット、シチェルバコフ、アシュケナージを聴いた後、久しぶりに、リヒテルの作品87抜粋盤(LP レコード)を聴いてみると、リヒテルの演奏には民族性が聞こえるような気がした。そして私は、作品87に、ひたすら、リヒテルで聴いた素朴な民族性を求めた(私が、ニコラーエワ、シチェルバコフ、アシュケナージなどのロシア系のピアニストに民族性を感じなかったのは不思議だ)。

ジェニー・リンの演奏は「フーガ」がうまい。彼女のフーガにおける表現の豊かさは、最初、この作品の持つ民族性を、私に伝えるように思えた(だから気に入ったのだ)。だが、それは私の主観(あるいは間違い)だったのかも知れない。彼女の演奏を再度聴いてみると、私が求めていたロシア、ユダヤの民族性というものが、主観的・相対的なものに思えてきた。われわれ日本人が、ロシア、ユダヤの「深い民族性」を聴くのは難しいだろうし、また、ショスタコーヴィチが、この作品87において、どれほどの民族性を表したのかを知るのも難しいだろう。

それでも私は彼女の演奏が気に入っている。【注2】

なお、彼女の演奏において、第17番変イ長調のフーガの終わりのほうで(3分10秒あたり)、低音のテーマが消えかかるのは、彼女の演奏上のミスであろうか。あと、第24番ニ短調の大フーガのクライマックス(6分54秒あたり)で、この音盤は音が割れる。

【注1】リヒテルが演奏した作品87は、Richter the Master, Vol. 3: Scriabin, Prokofiev, Shostakovichに入っているが、Es-Dur, As-Dur, Des-Dur, e-Moll, gis-Moll, F-Dur の6曲のみ。おそらく、リヒテルは全曲録音をしていない。

【注2】キース・ジャレットのも悪くないが、20曲目あたりで退屈する。

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2009年10月28日 (水)

ジンマンのマーラー第1番


Zinman


Mahler
Sinfonie Nr. 1 D - Dur
1. Langsam. Schleppend. 15' 32
2. Kräftig bewegt 7' 40
3. Feierlich und gemessen 10' 55
4. Stürmisch bewegt. 20' 55
Blumine 6' 41
Tonhalle Orchestra Zurich
David Zinman
Recorded 2006
RCA

毎度、HMV.co.jp カスタマー・レビューから無断引用で悪いが、

・マーラー第5番ジンマン
「ようやく、ドロドロしたマーラーの表現になった。おめでとうございますジンマンさん。チューリッヒの方々も、ようやくつかんだ感じです。第9までにもうひと皮、化けてもらいたい。でないと第9は無理でしょう。」

私は、上記に同感。

もともと私が「ジンマンのマーラー第5番」を購入したきっかけは、HMV の「マルチバイ25%オフ」で他の商品注文のついでに注文。つまり、ついでに注文したものが当たったわけだ。ジンマンのマーラー第5番を購入しそれを聴いた後、期待して彼の第1番を購入し初めて聴いたとき、ジンマンのマーラー第1番は失敗作に思えた(まったく、クラシック音楽の CD は、期待したものが良くなくて、期待しなかったものが良いということが多い。それで期待しないものまで買わなければならない。お金がいくらあっても足りない)。

だが、当初あっさり系に聞こえたジンマンのマーラー1番は、何度か聴くうちに、少し粘っこくもあり、少しドロドロしているようにも聞こえる。それは主観の問題だと思う。

問題は、第4楽章だ。ジンマンの指揮では展開部の入りがどこであるか、よくわからない【注】。この楽章は、第1楽章が効果的に再現された自由なソナタ形式であり、その形式がうまく生かされた楽章だと思う。ジンマンのマーラー1番は、第4楽章のソナタ形式が明確に聞こえないのが私は気に食わない。

以下、渡辺純一さんのマーラー:交響曲第 1 番/ティルソン・トーマスから引用させて頂きます。

「一方、MTT やラトル、シノーポリのような細かいディティールにも拘りをみせる指揮者は、力点が分散してしまうためか、そういうプリミティブな感動がなかなか得られません。」

ジンマンの第1番第4楽章も力点が分散していると思う。

「ディティールに拘りつつも作品の弱さを感じさせないユニークな演奏にバーンスタイン/ACO があるのですが、短編小説のように展開が早くスリリングで巧妙な語り口は、なかなか真似できるものでは無いでしょう。」

バーンスタインのマーラー1番は、音楽の構造と感情移入・カタルシスが両立している代表的演奏だと思う(ただし私は、バーンスタイン&NYP のほうが好きだ)。私は、ジンマンに、それ(音楽の構造と感情移入・カタルシスが両立)を期待したわけだが、期待はずれだった。それでも、私は、M. T. トーマス盤より気に入っている。上記ページにあるように M. T. トーマスの第1番には「不安感や悲劇性」(私の言葉で言えば暗さ)があったが、ジンマン盤には無い。

【オマケ】
ジンマンのマーラー盤は、ジャケットのカヴァーが良い。
第1番は、Cuno Amiet: Die gelben Mädchen(黄色の少女たち)
第2番は、Böcklin: Der heilige Antonius predigt den Fischen(魚に説教する聖アントニウス)
第3番は、Arnold Böcklin: Venus genitrix(実りのヴィーナス)
第4番は、Giovanni Segantini(題名不明)
第5番は、Ferdinand Hodler: Jüngling vom Weib bewundert(女性に賛美される若者)

【注】第4楽章展開部の入りは、第254小節(練習番号22)再現部は、第553小節(練習番号45)だと思う。

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2009年10月15日 (木)

ジンマンのマーラー第5番(つづき)

私はジンマンの『復活』も購入しました。

HMV のマーラー:交響曲第2番『復活』 ジンマン&チューリヒ・トーンハレ管弦楽団のレビューに「SACDの一枚用ケースに二枚重ねでディスクを詰め込んでいます。まるで、安売りのCD−Rみたいでお粗末な印象。BMGには、もっとディスクを大切にしろ!と言いたい。」と書いてありますが、その写真を撮りました(下記)。

第5番(枚数は1枚)の CD ケースも同じ形をしていました(面白いね)。

Zinman_2_2

Zinman_2_3

『復活』のほうは、さすがに(私も)怖くて、2枚中1枚を別のケースに収納しています。

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ジンマンのマーラー第5番


Zinman_5


Mahler
Sinfonie Nr. 5 cis - Moll
1. Trauermarsch 13' 22
2. Stürmisch bewegt 15' 25
3. Scherzo 18' 44
4. Adagietto 10' 45
5. Rondo - Finale 15' 22
Tonhalle Orchestra Zurich
David Zinman
Recorded 2007
RCA

これは、気に入りました。まず、値段が安い。

次に、録音について。
HMV のレビューでは、録音秀逸とあるが、私の骨董スピーカでは、その録音の良さは、よくわからない。しかし、日頃、近所迷惑にならぬように、交響曲はヘッドフォンで聴いている私が、久しぶりに(このジンマンの5番を)スピーカで鳴らしたくなったのだから、録音は良いのだと思う。大太鼓が、雷鳴の地響きのように響く。ウチのスピーカ(および家屋の環境)は低音のキレが悪いときが多いが、この盤はキレが良かった。

ヴァイオリンは、対向配置だ。
シャイーのマーラー5番の対向配置は、すわりの悪さがあったが、ジンマン5番には、それを感じなかった。実は、スコアを見ながら聴かなければ、ジンマン盤が「ヴァイオリン対向配置であること」に気づかないような感じ。というのも、この演奏は、アンサンブルが雑、不安定というか・・・特殊だと思う。つまり、全体的に、楽器の発音がイレギュラのような気もする。そのためか、第2ヴァイオリンも目立たないような気がする。(いろんな楽器の音がよく聞こえる箇所もある。ウチのオーディオ環境ではよくわからん)

驚いたのは、演奏時間。
CD を挿入してみたら、演奏時間は、トータル 73分38秒。
私は、ジンマンの超高速演奏を期待していた。そして、もしかしたら、1時間以下で演奏しているのかと思ったら、73分以上で演奏している。これは、M. T. トーマス(73分17秒)とほぼ同じ。
HMV のレビューに「楽章が進むにつれ尻上がりに良くなる」とあるが、その通りだと思う。第1, 2楽章は、もたついてるようにも聞こえるが、第3楽章以降は良いと思う。

ジンマンの5番は、アプローチ、アンサンブルにおいて、M. T. トーマス盤より雑であり劣るかも知れないが、私は、ジンマン盤のほうが気に入った。この演奏にジンマン独特の緻密さを感じる人もあれば、「もたついている」と聞こえる人もあるだろう。また、オケの鳴らし方に癖があり、ごちゃごちゃしていて、しつこい、きたない、うるさい、騒がしいと感じる人もあるだろう。逆に、この演奏の「緻密さ」を心地よく思う人もあるだろう。賛否両論あると思う。

私の主観では、概して言うと、私が、シノーポリのマーラー第5番で書いた解釈を、ジンマンは、ほぼ実践していると思う。第5楽章の「ファンファーレ」への助走(助走、音楽用語ではなく例えです)は、あっさりしているが、全然気にならなかった。すなわち、クライマックスとフィニッシュをアッチェルランドで(あっさり)一気に行ってしまっているのが、むしろ気に入った。第5楽章のファンファーレは、第2楽章の、忠実な再現のように聞こえるのが良いと思う。

【HMVへのリンク】
マーラー:交響曲第5番 ジンマン&チューリヒ・トーンハレ管弦楽団

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2009年9月28日 (月)

ヘンデル:オペラ・アリア集 聴き比べ


Schafer


Handel
Alcina - Arias (Alcina & Morgana) & Suites
Christine Schäfer, soprano
Berliner Barock Solisten
Rainer Kussmaul, leader
Musical program, Bernhard Forck
Recorded 2008
Deutschlandradio

01 Overture / Sinfonia
02 Di', cor mio (Alcina)
03 Musette
04 Menuet
05 Ma quando tornerai (Alcina)
06 Sinfonia atto terzo
07 Numi, che intedo - Ah! Mio cor! (Alcina)
08 Gavotte - Sarabande - Gavotte da capo
09 Menuet
10 Gavotte
11 Tamburin
12 Ah! Ruggiero crudel (Alcina)
13 Ombre pallide (Alcina)
14 Entrée des Songes agréables
15 Si non quella (Alcina)
16 Entrée des Songes funestes
17 Entrée des Songes agréables effrayes et le combat des Songes
18 Mi restano le lagrime (Alcina)
19 Entrée
20 Credete a mio dolore (Morgana)


Kasarova


Handel
Sento Brillar
Arias for Carestini
Vesselina Kasarova, mezzo - soprano
Il Complesso Barocco
Alan Curtis, conductor
Recorded 2008
RCA

ヘンデル:オペラ・アリア集
ヴェッセリーナ・カサロヴァ(メッゾ・ソプラノ)
イル・コンプレッソ・バロッコ
指揮:アラン・カーティス
2008年録音

《ゲルマニア王オットーネ》HWV 15 より
01 どこにいるのか、わが人生の愛しき人よ!(オットーネ)
02 蔑まれた愛(オットーネ)

《クレタのアリアンナ》HWV 32 より
03 ああ、祖国よ!おお、市民たちよ!(レチタティーヴォ・アコンパニャート、テーゼオ)
04 死すべき人間の休息だけが(アリオーゾ、テーゼオ)
05 美しき人よ、希望が湧きます(テーゼオ)

《忠実な羊飼い》HWV 8c より
06 この心にきらめくのを感じる(ミルティッロ)
07 いとしい愛よ、ひと時でいいから(ミルティッロ)

《アリオダンテ》HWV 33 より
08 序曲
09 ああ!幸せなわが心!(レチタティーヴォ、アリオダンテ)
10 堅固な翼で(アリア、アリオダンテ)
11 わたしはまだ生きているのか?(レチタティーヴォ、アリオダンテ)
12 不実な女、戯れよ(レチタティーヴォ、アリオダンテ)
13 神々よ、わたしを生かしておくのは(シンフォニアとアリオーゾ、アリオダンテ)

《アルチーナ》HWV 34 より
14 甘い愛がわたしを魅する(ルッジェーロ)
15 緑の野、愛らしい森よ(ルッジェーロ)


Piau


Handel
Opera Seria
Sandrine Piau, soprano
Les Talens Lyriques
Christophe Rousset, conductor
Recorded 2004
naïve

01 Scipione 1726 Scoglio d'immota fronte
02 Orlando 1733 Verdi piante, erbette liete
03 & 04 Giulio Cesare in Egitto 1724 Che sento? oh Dio! Se pietà
05 Partenope 1730 L'amor ed il destin
06 Amadigi 1715 Ah spietato
07 Alessandro 1726 Brilla nell' alma un non inteso ancor
08 Rodelinda 1725 Ombre piante, ume funeste
09 Faramondo 1738 Combattuta da due venti
10 Tamerlano 1724 Cor di padre
11 Deidamia 1741 M'ai resa infelice
12 Arianna in Creta 1734 Son qual stanco pellegrino


Gauvin


HANDEL
ARIAS AND DANCES
Karina Gauvin, soprano
Tafelmusik Baroque Orchestra
Jeanne Lamon, Music Director
Recorded 1999
ANALEKTA

Alcina
01. Overture
02. Musette
03. Menuet
04. Aria "Di, cor mio" (Alcina)
05. Aria "Tornami" (Morgana)
06. Entrée
07. Menuet
08. Gavotte
09. Aria "Barbara" (Oberto)
10. Aria "Ombre pallide"
11. Entrée des songes agréables / Entrée des songes funestes / Entrée des songes agréables effrayés
12. Aria "Mi restano le lagrime" (Alcina)

Agrippina
13. Overture
14. Aria "Non hò cor che per amarti" (Agrippina)
15. Aria "Ogni vento" (Agrippina)
16. Gigue
17. Sarabande
18. Matelot
19. Aria "Vaghe perle" (Poppea)
20. Menuet
21. Bourrée I / II
22. Aria "Se giunge un dispetto" (Poppea)

結論から言うと、カリーナ・ゴーヴァン(Karina Gauvin、多分カナダ人)、ジャンヌ・ラモン(Jeanne Lamon)&ターフェルムジーク・バロック管弦楽団のが一番気に入った。

[カーティスの「アルチーナ」全曲盤]というキーで、グーグルを検索すると、あるブログに「(カーティスのアルティーナは)イントロを聴いただけで『ノリが悪〜〜い!』と思ってしまいます」と出て来る。私も、上記、カサロヴァ&アラン・カーティス盤を聴いて、カーティスの指揮は、なんとなく、ノリが悪いと感じた。それに対して、ジャンヌ・ラモンの指揮は、ノリ、キレともに良い。オケ(ターフェルムジーク・バロック管弦楽団、Tafelmusik Baroque Orchestra)も同様にキレが良い。ターフェルムジーク・バロック管弦楽団は、カナダの団体である。最近、カナダの演奏家が充実していると私は思うのだが、気のせいかな・・・(また、ANALEKTA というカナダのレーベルも良いような気がする。同レーベルのベルナール・ラガセ(Bernard Lagacé)のバッハ:オルガン全集は良かった)。

オケのノリの悪さは、シェーファー&ベルリン・バロック盤にも感じる。

ピオー、ルセ&レ・タラン・リリク盤は、個性が強すぎるので、ピオーとルセのファン以外には薦めない。

カサロヴァ&アラン・カーティス盤は、企画(カレスティーニというカストラートのレパートリーを取り上げたアリア集)が面白そうだったので、国内盤を買ったが、ちょっと、企画倒れのような気がする。カサロヴァの技巧・歌唱は充実しているので聴き応えあるが、指揮が悪いと思う。上記の4つのアルバムは、いずれも、ある種の企画物なのだが、企画物(コンセプトアルバム)というものは、指揮者のセンスや力量が、出来不出来を左右すると思う。その意味で、ゴーヴァン&ラモン盤が一番聴きやすかった。

シェーファー&ベルリン・バロック盤は面白くなかった。シェーファー&ベルリン・バロック盤は指揮者を設けていない。ベルリン・バロック・ゾリステンは、ベルリン・フィルのメンバーが作ったモダン・オケのようだが、ベルリン・フィル独特の不器用さと味気なさを感じる。そのために、シェーファーの歌唱もノリが悪く聞こえてしまう。

さて、私はヘンデルの「アルチーナ」全曲盤を買いたいと思っているのだが、歌詞対訳付きは、Archiv のカーティス盤しかない(しかも、高い)ので、困っている。

【おすすめリンク】
下記は、ヘンデルのオペラ、アリア集はもとより、様々な角度からヘンデルにアプローチ。内容・情報ともに大変充実したブログです。

ヘンデルを もっと楽しむ♪

2009 - 10 - 08更新

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2009年9月27日 (日)

マイスキー&アルゲリッチのバッハ


Maisky


Bach
Drei Sonaten für Violincello und Klavier
Mischa Maisky
Martha Argerich
録音:1985年頃

Sonata No. 1 G - dur BWV 1027
Sonata No. 2 D - dur BWV 1028
Sonata No. 3 g - moll BWV 1029

前の記事で、マイスキー&アルゲリッチの悪口を書いたので、今度は、この二人のコンビの良い演奏を紹介する。

マイスキー&アルゲリッチの「バッハ:チェロ・ソナタ集(BWV 1027 - 1029)」は、私のお気に入りである。アルゲリッチのバッハのスタジオ録音は、2枚しかないが、いずれも良い演奏だ。彼女はもともとバッハがうまい・・・というか、合っているのではないかと思う。

この演奏は、チェロとピアノの3声がよく聞こえる。落ちついた演奏で、心地よい。つまり、リラックスした演奏。特に、アルゲリッチの演奏する下記の部分が私は好きだ。


BWV 1028 第4楽章より(マイスキー&アルゲリッチの演奏で、2分30秒あたり、midi

Bwv_1028_3

(私が持ってる楽譜作成ソフトは安物なので上記の楽譜は記述が変です。悪しからずご了承下さい)


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2009年9月26日 (土)

ズイル・ベイリー&ディナースタインのベートーヴェン


Bailey


COMPLETE WORKS FOR PIANO AND CELLO
ZUILL BAILEY
SIMONE DINNERSTEIN
Recorded 2005, 2006
TELARC

DISC 1
Sonata No. 1 in F major, Op. 5 No. 1
Sonata No. 2 in G minor, Op. 5 No. 2
Sonata No. 3 in A major, Op. 69

DISC 2
12 Variations in G major on "See the conqu'ring hero comes" from Handel's Judas Maccabaeus, WoO 45
12 Variations in F major on "Ein Mädchen oder Weibchen" from Mozart's The Magic Flute, Op. 66
7 Variations in Eb major on "Bei Männern, welche Liebe fühlen" from Mozart's The Magic Flute, Op. 46
Sonata No. 4 in C major, Op. 102 No. 1
Sonata No. 5 in D major, Op. 102 No. 2


私は、ベートーヴェンの「チェロ・ソナタ全曲集」は、第5番第3楽章のフガートにしか興味ない。


第3楽章 アレグロ - アレグロ・フガート ニ長調 4分の3拍子。この楽章は、前第2楽章から休みなしにすぐに始まる。
 この楽章は、チェロ、ついでピアノで音階的に奏されるフーガ主題の断片で始まる。そして、それから初めて、フーガの主題(譜例6)が完全にチェロで示され、それをピアノの低音部が受け、こうして、4声部のフーガが繰り広げられてゆく。

Beethoven_1022_3_1
(譜例6、midi

そこでは、主題の回転も拡大もあり、力度も巧妙に変えながら、しだいに緊張感を高めてゆく。ff のクライマックスに達すると、チェロの保続音の上で、ピアノは崩れ落ちるようなアルペッジョで pp へとディミヌエンドし、フェルマータのある嬰ヘ音に落ちつく。すると今度はチェロが新しい第2の主題(譜例7)をだし、ピアノがこれに応える。

Beethoven_1022_3_2
(譜例7、midi

まもなく、これには譜例6の主題が加わり、壮大な2重フガートが展開される。しかし、このフガートはクレッシェンドして ff に達すると、ピアノの低音にトリルの長い保続音が現れて、この終楽章の結尾に接続する。結尾では、トリルの間断ない保続音上で、第1主題の音階風の動機がストレットで何回となく繰り返され、力度もそれにつれて波のように起伏し、全曲のクライマックスがきずかれる。そして、最後になると、2つの楽器は2拍子のようなリズムで大波のように動いて、歯切れよい力強い終止和音に達し、ここで全曲を結ぶ。(門馬直美)ベートーヴェン (作曲家別名曲解説ライブラリー)より

長い引用になったが、上記、門馬直美先生の解説どおりに演奏すれば、この第3楽章はうまくいくはずであるが、ロストロポーヴィチ&リヒテル(1961 - 63年録音)マイスキー&アルゲリッチ(1990, 92年)ジャクリーヌ・デュ・プレ EMI完全録音集(17枚組)に入っているデュ・プレ&コヴァセヴィチ(1965年)、デュ・プレ&バレンボイム(1970年ライヴ録音)のいずれも良くない。

カザルス&ゼルキン(1951 - 53年録音)のみが良い。

このズイル・ベイリー&ディナースタインの第5番第3楽章のフガートも、「程良い力加減」で、うまくまとめられていて、きれいなのだが、良くない。

なぜ、カザルス&ゼルキンの演奏だけが良いのか。

カザルスの、フラジオレット風の演奏は、なんだか、気合いが入っている。ゼルキンの「ピアノの低音にトリルの長い保続音」が「波のように起伏」に達するのが、効果的だと思う。

「波、大波(Woge)」はワーグナーが好んで使う言葉だが、このフーガもまたある種の大波であって(小さな波ではない)最後のトリルは、バッハのオルガン曲のフーガのクライマックスに聴かれるトリルのようであり、それは、おどろおどろしく気味悪いほど効果的であると思う。そのトリルが印象的なのは、カザルス&ゼルキンのみ。このフーガは、バッハのフーガ的巨匠性が求められると思う(抽象的で悪いが)。

音楽とは全然関係ないことだが、この CD の表表紙は味気ないが、中にズイル・ベイリー&ディナースタインのツーショット写真(下記)があって、ディナースタインの麗しい御姿が拝める。

ズイル・ベイリー&ディナースタインのベートーヴェン全曲集は、ディナースタインの麗しい御姿が拝めるし安いので買って損はしないと思う。演奏はマイスキー&アルゲリッチの乱暴な演奏とは違い「力加減」が程良い。

Bailey_1

Bailey_2

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2009年9月25日 (金)

HMVジャパン

HMVジャパン CD DVD

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2009年9月22日 (火)

キース・ジャレットのヘンデル


Jarrett


HÄNDEL
SUITES FOR KEYBOARD
KEITH JARRETT, piano

Suite HWV 452
Suite HWV 447
Suite HWV 440
Suite HWV 433
Suite HWV 427
Suite HWV 429
Suite HWV 426

Recorded 1993
ECM

これは、ヒューイットのヘンデルより良い。

ジャレットは、ジャズミュージシャンなので、クラシック音楽専門のピアニストと比較されても、良ければ良いで褒められて、悪ければ「そもそもジャズミュージシャンなのだから」と、大目に見られるという有利な立場にあるかも知れないが、そういう聴き方は本来的ではないであろう。しかし、ジャレットのジャズミュージシャンという肩書きは、彼の演奏を受け入れるときに、リスナーに、何も前提を与えないということはないであろう。

このヘンデルに関しても、ジャレットは自由に楽しみながら弾いているという感じがする。彼の立場では、演奏者が楽しく弾けて、リスナーもまた楽しめれば、それでよい。ところが、ヒューイットの場合、彼女の演奏には、楽しいだけの演奏以上のものが求められるのではなかろうか。それは何かというと・・・ひとつには、若いピアニストの模範(手本)になる演奏。逆から言えば、ジャレットの演奏は、若いピアニストの模範にはならないだろう。

ジャレットのヘンデルは「リズム」「声」「和声」いずれもよく弾きこなされている。しかし、即興的で行き当たりばったりの演奏に聞こえる。彼は、スコアを見ながら演奏しているとすれば「スコアの通り演奏しているうちに、思いがけない演奏になってしまった」という演奏に聞こえる。そういう即興性は、実は、ヘルムート・ヴァルヒャやバックハウスにも私は感じるのだが、ヴァルヒャやバックハウスの場合、例えば彼らの全集録音における統一感を私は感じるのに対して、ジャレットのヘンデルにはそれがないように思える。ヴァルヒャやバックハウスがバッハやベートーヴェンを無数に弾いてるうちに即興性を見いだしたのに対して、ジャレットはそうではない・・・ということではないかと思う。

とはいうものの、私は、このヘンデルはかなり気に入っている。これはジャレットのクラシック音楽の録音の中では、ベストではないかと思う。

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2009年9月12日 (土)

ヒューイットのヘンデルとハイドン


Hewitt


Handel
Chaconne (with 21 variations) in G major HWV 435 [7' 28]

Suite No. 2 in F major HWV 427 [10' 08]
Adagio [3' 08]
Allegro [2' 27]
Adagio [2' 15]
Allegro: Fugue [2' 16]

Suite No. 8 in F minor HWV 433 [12' 55]
Prelude: Agagio [2' 40]
Fugue Allegro [2' 44]
Allemande [2' 56]
Courante [2' 01]
Gigue [2' 33]

Haydn
Sonata 'Un piccolo divertimento' (Variations in F minor) Hob XVII: 6 [16' 39]
Piano Sonata in E flat major Hob XVI: 52 [20' 15]
Allegro moderato [7' 59]
Adagio [6' 22]
Finale: Presto [5' 52]
Angela Hewitt, piano
Recorded 2008 & 2009
Piano FAZIOLI

ヘンデルの3作品は、もっと積極的な演奏をしても、よかったのではなかろうか。たしかに、安定した技巧と、ヒューイットらしい教科書的手堅い演奏は、耳障りが良い。しかし、BGM にしか聞こえない。

HWV 435 を、グーグルで検索したら、なんと、子供が演奏した映像(YouTube、下記 URL)が最上位にヒットした。私は、ヒューイットよりむしろ、この子供の演奏の方が、HWV 435 の性格に合致した演奏のように思える。つまり、ヒューイットの演奏には活気がない。それは、HWV 427、HWV 433 についても言えると思う。

http://www.youtube.com/watch?v=VUyWLr_vHKM

この盤においては、ヘンデルよりハイドンの演奏の方が良いと思う。ヒューイットのハイドンにおける適度に攻撃的な演奏&美しさ、それらのバランスがよい。ヒューイットは、ヘンデルも攻撃的に弾いて欲しかった。

ピアノ・ソナタ Hob XVI: 52 は、グールドの「Haydn: The Six Last Sonatas」に入っているが、ヒューイットはグールドとなかなかいい勝負をしていると思う。

ソナタ Hob XVII: 6 も適度に攻撃的で美しい(これは、ヘ短調なので、おわりの部分が《熱情》を思い起こさせる)。

この音盤において、ファツィオリの音は、きれいに録られている。

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2009年9月 8日 (火)

ヒューイットのベートーヴェン


Hewitt


LUDWIG VAN BEETHOVEN
Piano Sonata No 7 in D major Op 10 No 3
Piano Sonata No 4 in E flat major Op 7
Piano Sonata No 23 in F minor 'Appassionata' Op 57
ANGELA HEWITT piano
Recorded in Das Kulturzentrum Grand Hotel, Dobbiaco, Italy, on 7 -10 September 2005
Piano FAZIOLI

モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲聴き比べ(8)で書いたとおり、モーツァルトのVn協奏曲集については、パメラ・フランクのが私にとって決定盤となった。そこで、次に、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集の決定盤を探した(ただし新しい録音すなわちデジタル録音であることという条件がつく)。

結論から言って、(まだ2枚しかリリースされてないが)アンジェラ・ヒューイットのベートーヴェン全集が完成すれば、それが私にとって決定盤となりそうだ。

ちなみに私が現在所有するベートーヴェンのPfソナタ全集デジタル録音盤は、アラウポミエ(Jean - Bernard Pommier)

以下、ヒューイットのベートーヴェン:ピアノ・ソナタ作品7(第4番)のみについて書く。なぜなら、上記「作品10-3(第7番)」は、おそらくベートーヴェンの《幻想曲風ソナタ》と題されたピアノ・ソナタ作品27-1(第13番)と作品27-2(14番月光)よりも前に書かれた作品(私はそれらをベートーヴェンの『前期ピアノ・ソナタ』と位置づける)の中では、作品13《悲愴》についでよく演奏されているであろう人気作品ではあるが、作品が複雑すぎるので、聴き比べ(比較)が面倒だ。そして、作品57《熱情》は私が嫌いな作品だからだ。

アラウの作品7は貫禄ある。そして、ベートーヴェン弾きの大家としての重みを感じさせる。しかし、やはり衰えは隠せない(1987年録音)。ちなみに、私はバックハウスの全集旧盤にも衰えを感じることがある。誰でもそうだろうが衰えは、聴きたくない。

ポミエのは、粗い。ポミエの演奏は、大味というより、私が大好きな作品7の味がない。

ヒューイットの作品7は、デュナーミクとテンポルバートがうまい。第4楽章ロンドのコーダ(midi)はうまいと思う。ヒューイットのベートーヴェンには、おそらく、このデュナーミクとテンポルバートが貫かれていると思う。

Beethoven_op_7_4

ヒューイットが弾いているピアノは例によって、ファツィオリ。

このピアノは、ベーゼドルファーと同じように、楽器全体が鳴るタイプなのだろう。ハンマーがピアノ線をたたく音(厳密に言えばハンマーがピアノ線をたたく音が共鳴板で共鳴する音)が、鼓膜を直撃しない(これも厳密に言えば、録音マイクを直撃しない)。音に間接音が混じる。上記のように、ヒューイットのこのベートーヴェンは、ホテルで録音されている。おそらく、その奇妙な空間の音響効果を利用して、ファツィオリの音を生かしたつもりだろう。こんな音は私は嫌いなのだが、藤原由紀乃の《ゴルトベルク》ほど、ひどくない。許容範囲である。

ベートーヴェンの作品7(第4番)のみについて触れたが、ヒューイットの作品10-3と《熱情》も私は気に入った。ヒューイットには、寄り道しないで、さっさとベートーヴェン全集を完成してもらいたい。

【追記】
ヒューイットのベートーヴェンのフレージングを気に入らない人は少なくないと思う。私も最初聴いた時、受け入れられなかった。しかし、何度か聴くと彼女がデュナーミクで勝負していることが分かると思う。「デュナーミクで勝負する」弾き方は、ベートーヴェン:ピアノ・ソナタの演奏において私が好む弾き方だ。

【HMV.co.jpへのリンク】
ピアノ・ソナタ第4, 7, 23番 ヒューイット

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2009年9月 6日 (日)

ヒューストン・オペラのポーギーとベス


Porgy


Porgy and Bess
George Gershwin
Houston Grand Opera
Music Director and Chorus Master
John DeMain
Production Directed by
Jack O'Brien
Recorded 1976

米国アマゾンのカスタマーレビューで、最も評価が高いプロダクションであるにもかかわらず、3時間の演奏時間は長くて聴くのが疲れる。

ポーギーは、大男のクラウンを惨殺することができたのに、なぜ、クラウンの検死死体を見ることができないのか。ベスは、クラウンと切れることができたのに、なぜ、スポーティングライフの誘惑に負けてニューヨークに行くのか分からん。

このオペラは、黒人を題材にしながら、ユダヤ人の問題を表したのではないか・・・という、うがった解釈をしたくなる。

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2009年8月30日 (日)

シモーネ・ヤングのブルックナー8番


Simone8


Anton Bruckner
Symphony No. 8 C minor
First version 1887
Simone Young
Philharmoniker Hamburg
Recorded live December 14 & 15, 2008, Laeishalle Hamburg

CD 1
1. Allegro moderato 16: 05
2. Scherzo 14: 37
CD 2
3. Adagio 27: 44
4. Finale 24: 10

Total 82: 36

同じ曲を集中的に聴いていると、感覚が麻痺するので、ブルックナー第8番を聴くのを私は中断していた。久しぶりに、シモーネ・ヤングのブルックナー第8番を私は聴いてみた。私の嗜好では、これが現在のベストだ。

ブルックナー第8番は初稿版が好きという私の嗜好からして、その条件でベスト盤を選ぶなら、選択肢は、インバル(1982年録音)、Georg Tintner(1996年)、Dennis Russell Davies(2004年)およびヤング盤しかない。

Georg Tintner のは聴くのが疲れる。Dennis Russell Davies は期待しなかった割に良かったが可もなく不可もない。インバルは、録音が古い・・・という主観的印象が消去法的にヤング盤へと私を導いた。そして、改めてヤング盤を聴いてみた。彼女は第3, 4楽章(それぞれ329小節、771小節もある)を巧くまとめ上げているので、気に入った。

シモーネ・ヤングのブルックナー第8番第3楽章は、もう少し速いテンポで指揮しても良かったのではないかと思うが、彼女の第4楽章は、改訂稿よりはるかに長いこの楽章を巧くまとめていると思うし、聴き惚れさせられる。

やっぱり、第4楽章は、第7番の音楽で終わらせられていると私は思う(再現部の第3主題の再現のあと第1楽章の第1主題が回想され、木管でカッコーみたいな音形が出て来るところ・・・ここは第7番に似ているようでありそうでないようでもあり微妙・・・)。そのことを、彼女は意識して指揮しているように聞こえる。

ヤングの指揮は、アンサンブルが問題。というかはっきり言ってこのアンサンブル、良いのか悪いのか判断できなかった(オケの問題か、録音の問題か、指揮者の力量の問題か)。しかし、ブルックナー第8番の初稿版を、演奏会で聴いたら「多分こういう音がするだろう」と私は感じた。そしてヤングは、ウィーン・フィルやベルリン・フィルを指揮しても、おそらく、こういう音を出すだろうと私は思う。

ブルックナー第8番の初稿版のスコアを見たヘルマン・レーヴィ(Hermann Levi, 言わずもがなですがパルジファルの初演をした人)が以下のように言っているのは、うなずけるような気がする。


そして私をことのほか驚かせたのは、第七番との類似性であり、形式のほとんど型どおりである点です。第一楽章の開始は素晴らしいですが、展開部については私はどう扱ったらよいかわかりません。そして、最後の楽章。これは私には閉ざされた書物です・・・【注】

レーヴィは、第4楽章について否定的見解をもらしているが、第8番の第4楽章が第7番と類似性を持つことを彼が否定しているとは、私は考えない。

【注】作曲家 人と作品 ブルックナー(121ページより)

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2009年8月29日 (土)

ヒューイットのバッハ:パルティータ集


Hewitt


Johann Sebastian Bach
The Six Partitas
Angela Hewitt, piano

CD 1 [70' 49]
Partita No. 1 in B flat major BWV 825
Partita No. 2 in C minor BWV 826
Partita No. 4 in D major BWV 828
CD 2 [72' 33]
Partita No. 3 in A minor BWV 827
Partita No. 5 in G major BWV 829
Partita No. 6 in E minor BWV 830
Recorded in the Beethovensaal, Hannover, on 24 - 26 June 1996 (CD 1) and 6 - 8 January 1997 (CD 2)
Piano STEINWAY

ヒューイットのバッハをもう一度聴き直してみようと思い、彼女のパルティータ集を久しぶりに聴いてみた。

私は、この録音が非常に気に入っている。

ヒューイットのパルティータ第2番は、アルゲリッチのパルティータ第2番の次に私は気に入っている。

この盤は、録音が良い。スタインウェイの音が耳に心地よい。この人は、ファツィオリではなく、スタインウェイを弾く方が良いのではないかと思う。

このパルティータ集におけるヒューイットの演奏の特徴は、第3番イ短調の第1曲「ファンタジア」に現れていると思う。それは「声」がうまく処理されわかりやすい演奏だと思う(私は、ヒューイットのパルティータ3番を聴いて、3番は良い曲だなあと思った。グールドの同曲の演奏ではピンと来なかった)。ヒューイットという人は意外に癖のあるピアニストだが、このパルティータ集には癖がない。

この癖のある作品群を、ヒューイットの癖のない弾き方で聴くと、且つまた、「声」の美しさを引き出すことに重きを置いたヒューイットの演奏で聴くと、私は次のように言いたくなる、すなわち・・・バッハは、この作品群を「Klavier Übung (クラヴィーア練習曲または単にクラヴィーア曲)、作品1」として出版したのであるから「あまりトリッキーな演奏はやめましょう」と。

私には、ヒューイットのパルティータ集は、まったく傷がないように聞こえる。というのも、この作品群は、リズムに多様性と特異性があるが、それらはむしろ強調されない方が強調されるような気がする。そしてむしろ技巧的でないヒューイットのパルティータ集の演奏(ただしヒューイットのパルティータ第6番だけは若干技巧的に聞こえる)は、バッハのパルティータ全6曲の特徴がよくわかる。

【Amazon.co.jpへのリンク】
Bach: The Six Partitas Angela Hewitt

【おまけ】
もう一つの私のお気に入りは、私が人間国宝とあがめるユゲット・ドレフュス(Huguette Dreyfus)のパルティータ全曲(廃盤、下の写真です)

Dreyfus

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2009年8月21日 (金)

シノーポリのマーラー第5番(3)

この曲は、第1楽章のテーマが、第1番交響曲の第4楽章の第1主題と同じ音形(譜例1、midi)を持っているので、この作品自体(第1, 2楽章あたりは)、第1番の応用かと持った。

Mahler_1_4_1
譜例1

しかし、譜例2(midi)の強烈さは、言うまでもなく、第1番よりすごい。


Mahler_5_1_7_2
譜例2

だが、決定的に、第1番と違う私に思わせるのは、譜例3(midi)の慰めるような旋律。
これが、第4楽章の主題へと発展するのではないかと思う。

Mahler_5_1_8
譜例3

それから、この作品の第1楽章には《亡き子》の「いま太陽は晴れやかに昇る(譜例4、midi)」が引用されているが、その引用がはっきり聞こえるのは、やっぱり、シノーポリ盤だけのような気がする(私はよっぽどシノーポリの5番が気に入っているのだろう)。

Kindertotenlieder
譜例4

この作品は、第3楽章の展開部あたりから、「どっちに行こうか」迷っているような感じがする(譜例5、midi)。

Mahler_5_3_1
譜例5

そして、第3楽章の最終小節で、それがやっと、吹っ切れるという感じ。

第4楽章は、完全に吹っ切れた音楽であり、それが、第5楽章の大団円を用意するという筋書きになっているのではないかと思う。

あと、この作品は、ソナタ形式を持つ楽章がないのが特徴だと思う。


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シノーポリのマーラー第5番(2)

フィナーレにおける2度目のエピソードが終わる辺りで、下記のような下降旋律が現れる(譜例1、midi)。これは、ブリュンヒルデがヴォータンに眠らされるときの音楽(魔の眠りの音楽、譜例2、midi)に少し似ている。

Mahler_5_5_38
譜例1

Brunhildes_schlaf
譜例2

マーラーの交響曲第5番は、大きな流れとして(楽典的に正確な言い方はできないが)半音階的下降旋律から全音階的上昇旋律へと収束する音楽のように思える。

譜例1は、第1楽章のコーダの前で音楽が瓦解する(なだれ落ちる)ように聞こえる音楽と結びつけても良いのではないかと思う(譜例3、midi)。そしてマーラーは、そういう半音階的下降音形を他でも使っていると思う(第4交響曲)。そしてそれらを、あえてワーグナーのライトモチーフに例を求めれば、ワーグナーの下降音階的音形、旋律(愛の断念の動機、契約またはヴォータンの槍の動機、神々の危急の動機)であり、それらは否定的な意味を持つ。他方、ワーグナーの全音階的跳躍的モチーフ(例えばノートゥングのモチーフ)は肯定的な意味を持つ。その両者はマーラーに存在すると思う(両者の対比が存在すると思う)。したがって、マーラー第5番の全楽章は、悲痛な半音階的下降音形から、歓びに満ちた全音階的ワーグナー的音形への収束・解決という構図でとらえても、大きく間違えているとは言えないと思う。そういうとらえ方は(たとえマーラーの音楽の的外れなとらえ方であったとしても)ワグネリアンである私にとって、とらえやすいし、わかりやすい。すなわち、マーラーの交響曲は第5番以降、複雑化し難解になるので、私は解釈を思い切って簡単化した(というか、この作品は一部ワーグナー的に聞こえるときがある)。

Mahler_5_1_9
譜例3

Minne_maecht_entsagt
愛の断念の動機(midi

Wotans_speer
契約またはヴォータンの槍の動機(midi

Goetter_gefahr
神々の危急の動機(midi

Notung
ノートゥングの動機(midi

私は、シノーポリの指揮するマーラー第5番フィナーレは、テンポが遅いと書いたが、実は、遅くない。シャイーのと比較すれば、シノーポリのフィナーレは、15分10秒であり、シャイーのは15分27秒である。にもかかわらず、シノーポリの方が、遅い演奏に聞こえるのは、彼の指揮が緻密であるからであろう。たとえば、「Rondo - Finale」の最初のエピソードのフーガの演奏について、シノーポリ盤とシャイー盤を聴き比べれば、そこで、両者の勝負がついていると思う(実は最終楽章の第1小節目で勝負がついていると思うのだが、それは言い過ぎか(笑)。

さらに、ダメを押せば、

マーラー第5番フィナーレは、2回ほどクライマックスに行きかけて、なかなか行かない。このフィナーレはクライマックスをお膳立てする最後のエピソードとして、第4交響曲的楽想を回想していると思うのだが(譜例4、midi)、その部分も、シノーポリ盤のほうが、よく聞こえると思う。

シノーポリのマーラー5番は、この作品が持つ緻密さの最も理想的な具現の一つだと思う。(つづく)

Mahler_5_5_39
譜例4

【Amazon.co.jpへのリンク】
マーラー:交響曲第5番/シノーポリ&フィルハーモニア管弦楽団

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2009年8月20日 (木)

シノーポリのマーラー第5番(1)

シノーポリのマーラー第5番のフィナーレは、すごい演奏だと思う。オルガンや、チェンバロ、ピアノならいざ知らず、オーケストラで、これだけ複雑なポリフォニーを完璧に表現できるとは、すごい。彼は、このフィナーレを、うめき声を上げながら少し遅めのテンポで指揮しているが、それはマーラー第2番の最終楽章の合唱が出てくる前の行進曲(シノーポリはこれを遅めのテンポで指揮している)の遅めのテンポを私に思い出させる。私には、それらの遅めのテンポがむしろ快感である。そして、シノーポリはそれらの演奏において何かと格闘しているように思える。

マーラー第5番フィナーレについて
フィナーレのクライマックスのファンファーレは第2楽章の再現であるが、この「ファンファーレ」がマーラー第5交響曲の「言いたいこと」であろう。下記に譜例を示す(譜例1、midi)。

Mahler_5_5_18
譜例1

譜例1は、最終楽章の冒頭からとっている(譜例2の青線の部分、midi

Mahler_5_5_1
譜例2

譜例2の様々な音形が最終楽章で、極めて複雑にポリフォニックに扱われるわけだが、譜例2は《少年の不思議な角笛》の「Lob des hohen Verstandes (高い知性を賛える)」と関連がある(譜例3、midi)。

Mahler_lob_des_hohen_2
譜例3

第5交響曲のフィナーレもまた、第2, 3, 4交響曲と同様、素材を《角笛》からとっている(第1楽章は「死せる鼓手」「少年鼓手」に似ている)。したがって、この第5交響曲もまた歌曲集《角笛》と関係がある。そのことからして、私は「第 2 - 4 交響曲を『角笛交響曲』としてひとまとめにしているが、それに第5番を含めてもいいのではないかと私は思う」と以前に書いた。が、それは間違いだった。この交響曲は、第6, 7番に通じる高度な作曲技法が用いられた作品であり、内容的にも、マーラーの交響曲第5番は、第1, 2楽章が「これでもか、これでもか」というほど悲痛な音楽であるのに最終楽章はこれまた「これでもか、これでもか」というほどの歓びの音楽である点、そして、複雑でありながら完璧な構造を持つという意味で、第5番には、マーラーの深化が見られ、やはり、第5, 6, 7番を、いわゆる「トリロジー」と見るべきだ。・・・というわけで・・・マーラー第5番をスコアを見ながら聴いて私の認識は変化した。

フィナーレで「これでもか、これでもか」というほどの歓びを表す音楽は、第4楽章の中間部(譜例4、midi)である。そして、第4楽章のこの旋律が、フィナーレをクライマックス(譜例1)へと導く。

Mahler_5_4_28
譜例4

譜例4のねじれの音形(青線)は、マイスタージンガーに出て来るねじれの音形(譜例5、midi)に少し似ているような気がする。実は、私は、このマーラー第5交響曲のフィナーレはマイスタージンガーの音楽に収束しているのではないかと思っている。

Meistersinger_twisted

下記、譜例5の音形(midi)は、第4楽章から導かれているような気もするが、これも、マイスタージンガーの動機に似ていると思う。そして、ここに強調されているのはマイスタージンガー的上昇音形ではないかと思う。

Mahler_5_meister_2
譜例5

Mahler_5_meister_1
譜例6

譜例6(midi)の音形も上昇音形であり突き上げるように突進的で、私は好きだ。譜例6は「Rondo - Finale」のエピソードである二重フーガ(譜例7、midi)の終わりの所にでて来る音形である。

Mahler_5_5_36
譜例7

この壮大なフーガも、フィナーレに大きな推進力を与えていることは言うまでもない。

私の主張を述べる。マーラー第5番フィナーレは、譜例4、すなわち、第4楽章中間部の官能的歓びのテーマの反復よりも、譜例5と譜例6のマイスタージンガー的前進的上昇音形の反復によって、クライマックスのカタルシスに達するように指揮するのが効果的ではないかということ。すなわち、フィナーレは最後にはロンドのテーマ(4度の下降)で締められるが、その4度の下降は(音形は違うが)ファンファーレの終止形でもある。しかし、それらの4度の下降形を導くためには、むしろ反対の上昇音形(譜例5と譜例6)、すなわちマイスタージンガーの音形に音楽が収束して行くように指揮するのが良いと思う。その点において、シノーポリのフィナーレは成功していると思う。

マーラーは、第5交響曲を、マイスタージンガーに収束させたように聞こえる。(つづく)

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2009年8月16日 (日)

ショルティのマタイ受難曲


Solti


マタイ受難曲
シカゴ交響楽団、同合唱団(合唱指揮:マーガレット・ヒリス)
ゲオルグ・ショルティ

Hans Peter Blochwitz: Evengelista
Olaf Bär: Jesus
Kiri Te Kanawa: Soprano Arias, Uxor Pilati
Anne Sophie von Otter: Alto Arias, Testis I
Anthony Rolfe-Johnson: Tenor Arias
Tom Krause: Bass Arias, Judas, Pilatus, Hohepriester
Richard Cohn: Petrus
Patrice Michaels: Ancilla I
Debra Austin: Ancilla II
William Watson: Testis II
Chicago Symphony Chorus (Chorus Director: Margaret Hillis)
Chicago Symphony Orchestra
Sir Georg Solti
録音:1987年、シカゴ、オーケストラ・ホール

ショルティのマタイ受難曲は、デジタル録音のマタイの中では、私が気に入ってる数少ないものの一つである。

この演奏の解説は、@TOWER.JP に良い解説が書いてあるので、私は、3点だけ書く。

1. 第62番のコラール、すなわち、イエスが絶命した直後に歌われる有名なコラールは私の胸にジーンと来る。マタイ受難曲は演奏時間が長い。正直言って、退屈させられる演奏が多い。しかし、ショルティのマタイは違う。

2. 第12曲のソプラノ・レツィタティーフ
Wiewohl mein Herz in Tränen schwimmt,
(私の心は涙の中に浮かんでいます)
Daß Jesus von mir Abschied nimmt,
(なぜならイエスが私に別れの挨拶をするからです)
So macht mich doch sein Testament erfreut:
(ですが彼の契約が私を喜ばせます)
Sein Fleisch und Blut, o Kostbarkeit,
(彼の肉と血 ああ 尊い物を)
Vermacht er mir in meine Hände.
(彼は 私の手に遺してくれるからです)
Wie er es auf der Welt mit denen Seinen
(彼は この世にあって 弟子たちに)
Nicht böse können meinen,(完了形, hatの省略)
(悪意を持つことができなかったように)
So liebt er sie bis an das Ende.
(終わりのときまで 弟子たちを愛するのです)

第6行目の「denen Seinen」の「denen」は指示代名詞なので「弟子」を指すと考えても良いのではないだろうか。つまり「denen Seinen」=「12使徒」

ちなみに専門家の訳では「denen Seinen」は「おのが者ら(杉山好訳)」「従う者たち(礒山雅訳)」と訳されている。杉山、礒山訳では「denen Seinen」は(ニュアンスとして)不特定多数を指すことになる。杉山、礒山訳もたしかに、「12使徒」を含めてイエスに従った者たち、イエスを信じた者たちというニュアンスになると思う(それは誤訳ではない)。しかし、ショルティ盤のテ・カナワは、「denen」を強調して歌っている。ドイツ語は特定の語を強く発音すると意味が変わる。「denen」は「それらの」の意味である。「Seinen」は「彼の家族、味方、部下」の意味がある。したがって「denen Seinen」の「denen」を強く発音すれば、「それらの」が強調され、意味としては「『それらの』イエスに従った者たち」のニュアンスになると思う。

このレツィタティーフが、ぶどう酒とパンによる新しい契約(新約)がなされる場面(マタイによる福音書 第26章 第26節)を受けていることからしても、「イエスに従ったそれらの者たち」は、イエスが最初に新しい契約を結んだ「これらの者たち」すなわち「12使徒(ユダをのぞけば11使徒)」を指すと考えても良いと思う。そして、テ・カナワに、そのように歌わせているのは、ショルティであると思う。とにかく、ショルティのマタイは言葉が聴く者にストンストンと入ってくるような気がする。だから退屈しないのであろう。

比較するために同じ箇所(denen Seinen)をガーディナー盤で聴いてみたら、同じように「denen」を強調していた。しかし、ガーディナー盤を含め(ショルティ盤以外の)どの演奏を聴いても、上記のことに気づかなかった。その理由は、やはり、ショルティが、言葉(ドイツ語)を重視した指揮をしているからだ...というのが、私の主観的意見である(私はマタイ受難曲を19種類持っており、かなり聞き込んでいるつもり)。

歌手は、テ・カナワとフォン・オッターが意外に(?)よい。男性歌手たちも健闘している。それから、合唱と合唱指揮者も上手い...といいたいところだが...

3. 録音が悪い?
せっかくのオケと合唱の名演なのに、この音盤は多分録音悪いかも...。少数精鋭の古楽と比較するのは酷だが、やはり、マタイ受難曲という音響的にすぐれた作品の録音としては(新しい録音のわりには)サウンド的に良くないと思う。ただし、独唱の音はよく録れている。


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2009年8月13日 (木)

ルチア・ポップ EMI録音集(7CD)

Popp

ルチア・ポップ EMI録音集(7CD)の発売を記念して、その中の『リヒャルト・シュトラウス歌曲集』計21曲を訳しました。よかったら参考にして下さい。

リヒャルト・シュトラウス歌曲集日本語歌詞対訳


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2009年8月10日 (月)

トン・コープマンのバッハ:オルガン作品全集

Koopman_1
画像1

Koopman_2
画像2

私は、1980年代に、コープマンが演奏したバッハ:オルガン作品集(画像1)が好きだったので、「バッハ:オルガン作品全集 コープマン/16CD/1994 -99年録音(画像2)」を購入した。ところが、前者に比べると後者は面白くないような気がする。たとえば、超有名曲「パッサカリア BWV 582」の新録音を聴いたとき「アレッ!」と思ってしまった。私は、バッハのオルガン曲は苦手なので、どう違うかを説明できないが、両者(パッサカリア BWV 582、1983年録音および1994年録音)を比較した場合、後者は前者よりなんとなく緊張感で劣り、しかもうるさいような気がする。私の主観では「オルガン作品全集 コープマン/16CD(画像2)」はおすすめできない。

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2009年8月 5日 (水)

煮ても焼いても食えない作品 テューレックのゴルトベルク


Tureck


Bach
DISC 1
Goldberg Variations, BWV 988
DISC 2
Goldberg Variations, BWV 988 (cont. )
Aria and Ten Variations in the Italian Style BWV 989
Applicato in C Major, BWV 994
Chorale - Joy & Peace, BWV 512
Musette in D Major, BWV Anh. 126
Minuet in G Major, BWV Anh. 116
Minuet in G Major, BWV Anh. 115
March in D Major, BWV Anh. 122
March in E - flat Major, BWV Anh. 127
Polonaise in F Major, BWV Anh. 127
Invention in C Major, BWV 772a (1723 Version)
Invention in C Major, BWV 772 (1723 Version)
Fantasia in G Minor, BWV 917
Prelude & Fugue in A minor, BWV 895
Suite in F Minor, BWV 823
Italian Concerto in F Major, BWV 971
Rosalyn Tureck, harpsichord (CD 1, CD 2 tracks 1 - 17) / piano CD 2 track 18 - 36)
Recorded March 15, 16, 17, 23, 24 & 27, 1978 (CD 1, CD 2 tracks 1 - 17)
January 9th - 11th 1979 & April 13th - 16th 1981 (CD 2, tracks 18 - 36)
New York City
Performed on harpsichord by William Dowd, Boston
SONY

煮ても焼いても食えないゴルトベルク変奏曲が、食えた。

そもそも、私が、ゴルトベルク変奏曲を「煮ても焼いても食えない作品」とする理由は、ゴルトベルクを聴くとき途中で必ず退屈するからだ。必ず、全曲聞き終わるまえに疲労を感じ苦痛を感じる。緊張が切れる。途中で、用を足すか、煙草を吸うために(室内禁煙なので)部屋を出たくなる。音楽を中断したくなる。ところが、テューレックのゴルトベルクは、そうならない。汚い話だが、私は、テューレックのゴルトベルクを初めて聴いた時、DISC 1 を聴いている途中で、用を足したくなった。が、結局、最後まで、もれそうなのを我慢して聴いてしまった。エキサイトして、おしっこどころではなかった。

私の考えでは、バッハのゴルトベルク変奏曲は、32小節のテーマをもとに、32小節の変奏を30変奏もやるということに無理があると思う。その制約はバッハのスタイルにあわないと思うし、バッハを殺していると思う。ゴルトベルク変奏曲のいいたいことは、第30変奏のクオドリベトだと思う。しかし、私は第9変奏(3度のカノン)を聴くと「これはクオドリベトと同じ音楽じゃないか」と思ってしまう(勿論両者は違う音楽である)。その瞬間「ここで(ゴルトベルクは)終わっている。あとはもういらない」と思ってしまって、退屈する。

32小節のテーマをもとに、32小節の変奏を30変奏もやるということ。それはバッハを殺していると思うが、テューレックのゴルトベルク変奏曲の演奏では、音楽が死ぬ瞬間に、卵がかえり、ひよこが生まれる。第9変奏(3度のカノン)のあと、かすかな間(ま)が入る。その間に卵がかえる。第10変奏は、生まれたばかりのひよこである。そのような瞬間が随所にある。そういうトリックが、他の箇所にも聴ける(どこがそうであるかは、あえて書かない。タネ明かしになるからである)。彼女のゴルトベルクは、必ず退屈になりそうな音楽のあとに卵がかえる。そして、音楽が、ぴよぴよ鳴きだす。かと思えば、鶏がまた卵を産む。それをゆで卵にして食べてるうちにまた、鶏がまた卵を産む。その卵がかえり、またひよこがぴよぴよ鳴きだす。

私には、テューレック自身が「ゴルトベルクは退屈な作品だ」と言っているかのように思える。そして、それを彼女が回避しているかのように聞こえる。

テューレックのゴルトベルクは、卵と鶏が同時に食べられる親子丼だ。そしてテューレックのゴルトベルクのトリックは「見える」。したがってそれは、実はトリックではない。それは、ある種のごまかしである。しかし、ごまかしであろうと、親子丼であろうとレバニラ炒めであろうと、彼女のゴルトベルクは「食える」。私は、つい最近まで、グールドの1955年盤の良さがわからなかった。しかし、いまはわかった。退屈させないゴルトベルクの弾き方は、グールドの1955年盤と上記テューレックのゴルトベルクしかないと思う。だから、もうこの曲は2度と買わないと思う。ちなみに私が購入したゴルトベルクは下記のとおり。

ゴルトベルク変奏曲(1955年),グールド (piano)
ゴルトベルク変奏曲(1961年),ヴァルヒャ (cembalo)
ゴルトベルク変奏曲(1976年),レオンハルト (cembalo)
ゴルトベルク変奏曲(1978年),Rosalyn Tureck (cembalo)
ゴルトベルク変奏曲(1981年),グールド (piano)
ゴルトベルク変奏曲(1988年),Huguette Dreyfus (cembalo)
ゴルトベルク変奏曲(1989年),Keith Jarrett (cembalo)
ゴルトベルク変奏曲(1989年),Lars Ulrik Mortensen (cembalo)
ゴルトベルク変奏曲(1991年),Vladimir Feltsman (piano)
ゴルトベルク変奏曲(1992年),Pierre Hantai (cembalo)
ゴルトベルク変奏曲(1998年),曽根麻矢子 (cembalo)
ゴルトベルク変奏曲(1999年),Angela Hewitt (piano)
ゴルトベルク変奏曲(1999年),Evgeni Koroliov (piano)
ゴルトベルク変奏曲(2003年),Pierre Hantai (cembalo)
ゴルトベルク変奏曲(2003年),Martin Stadtfeld (piano)
ゴルトベルク変奏曲(2004年),イサカーゼ Irma Issakadze
ゴルトベルク変奏曲(2005年),Richard Egarr (cembalo)
ゴルトベルク変奏曲(2005年),Simone Dinnerstein (piano)
ゴルトベルク変奏曲(2007年),藤原由紀乃 (piano)

テューレックのゴルトベルクを教えてくれた猫大好きさんに感謝します。どうもありがとうございました。

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2009年8月 3日 (月)

大西順子のサマータイム


Cruisin


クルージン
大西順子


ジャズ喫茶で「サマータイム」は、「マイナー・シックスで始まっているのが良い」という話が盛り上がったので、実際、ピアノで弾いてみると、非常に違和感のある和音であった。もともと、この曲は、ガーシュインの「ポーギーとベス」の挿入歌であり、その「ポーギーとベス」という作品自体気味の悪いオペラなので、ガーシュインは、あえて(危険な)マイナー・シックスという和音を使ったのかと思ったりした。また、この曲は「あち〜、あち〜」という雰囲気を持つ曲だが、その雰囲気をかもし出しているのが、マイナー・シックスなのかな〜などと思ったりした。

いずれにしても、私はこのマイナー・シックスという和音が非常に気になり、Wikipedia で調べてみると、どうも、この和音は「ハーフ・ディミニッシュト」「トリスタン和音」と同じ(和声学的にいうと違うだろうが)であるらしいことが分かった(ヘ(F)、ロ(B)、嬰ニ(D♯)、嬰ト(G♯))。そういう和音を曲の冒頭で使うのは、危険ではないかと思い、大西順子の演奏を聴いてみると、やはり、音楽の冒頭に、長いベースソロを入れて演奏している。お陰でスッキリ。

【追記】
マイナー・シックスというのは、ジャズではよく使うのだろうか? 私はビートルズの名曲 Yesterday(弦を2度緩めてGで弾く)をギターで弾いたことがあるが、その曲のサビの部分は、B7sus4, B7, Em, D, C, Em, Am6, D7, G である。

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2009年7月31日 (金)

大地の歌 聴き比べ(2)

まず『トロンボーン吹きによるクラシックの嗜好』にすぐれた解説があるので、そちらを先にお読みになったほうがいいと思います。

マーラー:大地の歌/大植英次 [RR]
マーラー:大地の歌/ブーレーズ [DG]
マーラー:大地の歌/マイケル・ティルソン・トーマス [SFS Media]


Klemperer


オットー・クレンペラー
クリスタ・ルートヴィヒ(メゾ・ソプラノ)
フリッツ・ヴンダーリヒ(テノール)
Philharmonia Orchestra, New Philharmonia Orchestra
1964-66年録音

ヴンダーリヒは、数ある大地の歌のテノールパート歌唱のベストだと思う。第1楽章、高音域にいっても発声において声質が変化しない。分かりやすくいって高音がうわずらない。どの音域も均等な発声に聞こえる。激しく歌っているがまったく無理を感じさせない。おそるべき歌唱力。そういう歌い方は、第1楽章の激情と達観の両義性にピッタリあっている。それからドイツ語の発音が美しい。本当にこの人の歌唱は「達観」という言葉はピッタリであり、ドイツ語が良く伝わる。それに比べ、ルートヴィヒの歌唱は面白くない。細いヴィブラートが耳障り。それはシュワルツコップの歌い方に似ているが、それはシュワルツコップがやるからいいのであって、ルートヴィヒが真似をしても意味ないと思う。どうせ真似をするなら、そっくりさんと思えるぐらい真似をしたほうがましだったと思う。クレンペラーの指揮は、言及すべきことは特に無し。


Oue


大植英次
Michelle DeYoung(mezzo-soprano)
Jon Villars(tenor)
Minnesota Orchestra
1999年

私はこの演奏が一番好きだ。「トロンボーン吹きによるクラシックの嗜好」にもあるとおり、テノールのヴィラースの歌唱はリズムが狂っているような感じがある。デヤングはドイツ語の発声がイマイチで、意味がダイレクトに伝わってこない。そういう欠点を補っても余ある大植の指揮は、表情豊かだが、なんとなく座りの良い演奏であり、盛り上がる。第6楽章を聴き終えたあとは「ああ、いい歌を聴かせてもらった」としみじみ音楽に浸りきった快感を感じる。それは、客観的データからも分かる。大植の演奏はテンポの遅いクレンペラーの演奏より長いのだが(前者が66分37秒、後者が64分5秒)短く感じる。実は私が「大地の歌聴き比べ」をするきっかけになったのは、この大植の演奏と、その演奏についての「トロンボーン吹きによるクラシックの嗜好」の解説文だった。そして「大植を超える演奏はあるか」という探求が目的だった。が、それは結局見つからなかった。ただし、それは、私の好みに照らしてであり、大植の大地の歌が決定盤であることを意味しない。


Boulez


ブーレーズ
ヴィオレッタ・ウルマーナ(メゾ・ソプラノ)
ミヒャエル・シャーデ(テノール)
Vpo
1999年

私は、ヴィオレッタ・ウルマーナが非常に気に入った。私はこの人の歌唱を聴いたとき、彼女はドイツ語圏の出身なのかどうかわからなかった。というのは、ドイツ語の発声はうまいのだが、ドイツ人の発音には聞こえなかったからだ。この人は、リトアニア出身だった。ブーレーズが彼女の歌唱をもり立てていると言うべきだろうが、私は逆に、ウルマーナが、ブーレーズの指揮をもり立てているという感じがする(第6楽章)。彼女の歌唱は、非常に落ち着いている。第6楽章で、もう音楽が終わったかと思うところで、最後の"ewig"が弱く歌われる。最後の"ewig"は美しいというより、この作品の命であり意味であろう。ウルマーナはそれを、おそらく偶然の産物ではなく、頭で理解して歌った(ただし断言できない)。ところで、くだんの第4楽章の早口で歌われるところは、私も何を歌っているのか聴き取れないので、下に訳してみた。

Das Roß des einen wiehert fröhlich auf,
Und scheut, und saust dahin,
Über Blumen, Gräser wanken hin die Hufe,
Sie zerstampfen jäh im Sturm die hingesunk'nen Blüten,
Hei! Wie flattern im Taumel seine Mähnen,
Dampfen heiß die Nüstern!

一頭の馬が陽気にいななく
(多分騎手の一蹴りに)おそれて暴れ そしてドンドン駆けて行く
ひづめは花々や草々の上をよろめく(多分後ろ足だけで立ったりして)
ひづめは花々を踏みつぶす その急な嵐に花々は地に落ちる
ハイ!(酔いしれたように)よろめく中 たてがみがはためく
熱い息をだす馬の鼻よ!(多分息を切らせた)

上は全部馬の描写であった。(私の印象では)一頭の馬が急に走り出し、そして息が切れたので止まった。その一瞬一瞬の馬の動作の描写。その短い時間を一気に描写しているので、マーラーの音楽もテンポが速いのだろう。「dampfen」には「湯気を出す」という意味があるが、この詩は(花が咲いている季節なので)真冬ではない。したがって、馬の鼻息が湯気のように見えるのではなく、ただ熱いということだろう。


Thomas


マイケル・ティルソン・トーマス
Thomas Hampson(baritone)
Stuart Skelton(tenor)
San Francisco Symphony Orchestra
2007年ライヴ録音

まず始めに言っておくが、21世紀のわれわれが聴くフィッシャー=ディースカウの大地の歌における表現は大袈裟過ぎるし古臭い。それにもかかわらず、私は男性歌手が歌った偶数楽章の歌唱としては、ディースカウがベストだと思う。ディースカウが歌うリートは上手すぎて、鼻につくものが多いが、大地の歌はなんだかんだ言っても上手いと思うし、それはディースカウの数少ない成功例だと思う。それに比べると、トーマス・ハンプソンは弱い気がする。どこが弱いかは、後日書く。なぜなら、私は、ティルソン・トーマスのマーラー:交響曲全般に対し疑問を抱いているからである。彼のマーラーは、大地の歌のほか第1, 4, 5番しか私は持たない。いまティルソン・トーマスの第7番を注文しているので、それを得てからティルソン・トーマスのマーラー解釈をさらにじっくりと研究したい。


Nagano


ケント・ナガノ
Christian Gerhaher(baritone)
Klaus Florian Vogt(tenor)
Orchestre Symphonique de Montréal
2009年ライヴ録音

結論から言うと、これは良いと思う。

ただこの CD は変である。一応、ソニーの商品のようだが、OSM(Orchestre Symphonique de Montréal)のロゴも入っているので共同制作かも知れない。このCD盤は半分 OSM が自主制作したナガノのお披露目公演(ではなくお披露目CD盤かな?)かも知れない。ところがその辺りのいきさつが、ライナーノートに書いてない。それから、ジャケットのデザインが悪い。見開きにすると、ナガノの顔写真が2枚並ぶのが、うっとうしい(下図)。それぐらいなら、まあ普通の手抜きだが、もっと変なことがある。このリーフレットには、大地の歌のドイツ語テキストとその対訳(輸入盤なので英語対訳)が付いてない(もしかして付け忘れ?)。これを買った英語圏、フランス語圏の人は、何を歌っているのか分からずに、この演奏を聴くことになる(ただし各曲についての解説は付いている)。さらに、もっと変なことがある。この録音は下記のとおりライヴとスタジオ録音の合体なのである。いや、ライヴ録音とスタジオ録音の合体ということ自体は構わない(というかこの音源は、そんなことは気にならない出来だと思う)。しかし、そのいきさつがライナーに書いてない。

Recording dates:
13 (live), 14 (live) and 15 (studio) January 2009; 15 February 2009 (overdub with Klaus Florian Vogt)

Recording venue:
Salle Wilfrid-Palletier, Place des Arts, Montréal (January) and BavariaMusikStudio, München (February)

以上色々ケチをつけたが、それらは、この商品を評価する時、本質的なことではない。一番気になるのは、録音つまり音質である。例によって私のオーディオ装置は骨董品なのでよくわかないが、どうなんだろう。この録音はひどく悪くはないが、ナガノの音を伝えているのかどうかはわからない。

この盤は、Gerhaher(ゲルハーエル、ゲルハーヘル、ゲルハーアー)の美声が気に入った。聴きやすい演奏である。そのかわり聴き応えはない。にもかかわらず、私がこの演奏を推すのは、この演奏がグールドの下記の言葉(有名なコンサート・ドロップアウト・インタビューから)に、真っ向から対抗する演奏であると思うからである(ナガノの演奏は聴き応えないが、やっぱり大地の歌は名作だと思わせる)。グールドは西洋的ポリフォニー(および対位法)しか知らなかったようである。東洋音楽にもポリフォニーはある。日本の音楽もポリフォニーを持つ(小唄、端唄でさえ歌と三味線はまったく違う旋律を同時に演奏する)。


I happen to be a bit of a connoisseur where the Mahler 2nd and the Mahler 8th are concern, I think they’re quite the best of Mahler, I think that Mahler was at his best contrapuntally bombastic, and at his worse being influenced by Chinese poetry, I don't think really think that aaam, the thinness of Mahler as represented by Das Lied and Kindertotenlieder in the 4th Symphony shows what he really could do, not only orchestra but as a contrapuntal craftsman aaa I think that that great glorious mass of texture that we aa saturate ourselves with in the 2nd and 8th symphony, is what Mahler was all about

マーラーの2番と8番に関しては私はちょっとしたマーラー通なんですから。この2曲はまったくマーラーの傑作だと思っています。私は、マーラーが対位法的に大言壮語する場合がマーラーの最高とみなし、中国の詩の影響を受けた場合が最低だと思っています。私には「大地の歌」や第4交響曲の「亡き子を偲ぶ歌」(「子供の不思議な角笛」の思い違いか --- 訳注)の希薄さが、オーケストラの処理ばかりでなく対位法の名匠としてのマーラーの本領を示すものであるとは、とても考えられません。われわれが第2および第8交響曲で夢中になる、あのテクスチュアの偉大な輝くばかりの塊(かたまり)こそマーラーのすべてだと思います。

Nagano2

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2009年7月30日 (木)

大地の歌 聴き比べ(1)

大地の歌、下記を聴き比べた。


Bruno Walter/Kerstin Thorborg(conralto)/Charles Kullman(tenor)/Vpo/1936年ライヴ録音


Bruno Walter/Kathleen Ferrier(conralto)/Julius Patzak(tenor)/Vpo/1952年


Bruno Walter/Mildred Miller(mezzo-soprano)/Ernst Haefliger(tenor)/NYP/1960年


Otto Klemperer/Christa Ludwig(mezzo-soprano)/Fritz Wunderlich(tenor)/PO/1964-66年


Leonard Bernstein/Dietrich Fischer-Dieskau(bariton)/James King(tenor)/Vpo/1966年


Eliahu Inbal/Jard van Nes(mezzo-soprano)/Peter Schreier(tenor)/Frankfurt Radio Symphony Orchestra/1988年


Sinopoli/Iris Vermillion(conralto)/Keith Lewis(tenor)/SKD/1996年


大植英次/Michelle DeYoung(mezzo-soprano)/Jon Villars(tenor)/Minnesota Orchestra/1999年


Boulez/Violeta Urmana(mezzo-soprano)/Michael Schade(tenor)/Vpo/1999年


Michael Tilson Thomas/Thomas Hampson(baritone)/Stuart Skelton(tenor)/San Francisco Symphony Orchestra/2007年ライヴ録音


Kent Nagano/Christian Gerhaher(baritone)/Klaus Florian Vogt(tenor)/Orchestre Symphnique de Montréal/2009年ライヴ録音

聴き比べた結果、私の思ったことは、大地の歌は、マーラーの遺言ではなく、マーラーのヨーロッパ文明への(批判、反抗を含めた)決別宣言として聴くのがよいのではないかということであった。

まず、歌詞を見ていこう。

第1楽章《世の悲しみについての酒歌 Das Trinklied von Jammer der Erde》

Schon winkt der Wein im gold'nen Pokale
(すでに ウインクしている ワインが 黄金の杯の中で)
Doch trinkt noch nicht, erst sing' ich Euch ein Lied!
(だが まだ飲むなかれ まず私が一曲の歌を歌おう)

この詩の主人公はおそらくいつも変なことをやっているので、周囲の人間に変人と見られているのかも知れないが、酒宴の席で酒が回っていよいよ「酒を飲む」という時になって「まだ飲むな」と乾杯を制され、8分もかかる歌を歌われたら、はたの人は迷惑するだろう。原詩の漢詩も、そうなっているのだろうかと私は思い、下記のページを見てみた。

大地の歌にまつわる7つの唐詩(一)

Das Lied von der Erde

(上記のページはリンクについて何もうたってなかったので、勝手にリンクさせていただきました)

悲来乎 悲しみ来たるか
悲来乎 悲しみ来たるか
主人有酒且莫斟 主人酒有るも且(しばら)く斟(く)む莫(なか)れ
聽我一曲悲來吟 我が一曲悲来の吟を聴け

李白の詩(偽作説もある)では酒が杯につがれてはいないが、この人(李白の詩の主人公)も、やはり主人に「酒を酌むな。その前に我が一曲を聴け」と言っている。この人は、酒を飲む前に(つまり、しらふの状態で)歌を聴いて欲しかったのだろう。酒がまわって酔っぱらってしまったら、いつものばか騒ぎになってしまう。ばか騒ぎになってしまったら、この人の歌は、酒宴の参加者に受け入れられないだろう...と彼は思ったのだろう。つまり、いつもの享楽の酒宴に、今日は、一興、さらにおいしい酒を飲むために「私の歌を、飲酒前に聴いて欲しい」と彼は言っているのだろう。

李白の詩は、比較的穏やかだが、マーラーの音楽は激しい。この第1楽章の出だしは、マーラーの交響曲の出だしの中で最も激しいものではないだろうか【注1】。交響曲第2, 6番の出だしも激しいが、それらはソナタ形式の序奏であり、その序奏よりさらに激しい主題を導くためのものであると思う(第8番の開始は大地の歌のそれと似てる。しかしそれはすぐに心地よい驚嘆に変わる)。それに対し(大地の歌の第1楽章もソナタ形式的だが)この楽章の最初の音形(4度上がって4度下がる)は、歌の区切りと締めくくりに現れる(Dunkel ist das Leben, ist der Tod. のあとに現れる)。この音形がこの楽章のクライマックスの一部であるならば、この交響曲の第1楽章は、いきなりクライマックスから始まると言ってよかろう。ではなぜ、マーラーは、こんなに激しい音楽を第1楽章に置いたのだろうか。東洋的無常観を強調するためか。それもあろう。しかし、第1楽章の詩には、自嘲的な要素もある。

Das Lied vom Kummer soll euch in die Seele
(この悲しみの詩は 君らの魂に)
Auflachend klingen!
(笑いながら響け!)

この人も、半分、苦笑とともに歌っていると私は解釈する。つまり、第1楽章は、激しい悲嘆を歌うだけでなく、苦笑を伴う(あるいは誘う)アイロニー、またはクールさ(ニヒルさ)で歌われ演奏されて良いと私は思う。

第1楽章の詩には、お猿さんが出てくる。この歌は、お猿さんが現れたあと「Jetzt nehmt den Wein! さあワインをとりたまえ」に行ってすぐ終わる。私はこのお猿さんが(滑稽と言えば言い過ぎだが)少し可笑しい。

Seht dort hinab! Im Mondschein auf den Gräbern
(あそこを見下ろしたまえ! 月明かりの中に 墓場に)
hockt eine wild gespenstische Gestalt.
(野生の幽霊のような姿がしゃがんでいる)
Ein Affe ist’s! Hört ihr, wie sein Heulen
(あれは猿だ! その遠吠えが聞こえるか?)
Hinausgellt in den süßen Duft des Abends?
(夕暮れの甘い香りに 金切り声を出しているのが)

この節では、この詩が歌われた時刻が夕暮れであり、月明かりのもとでの酒宴であることが分かる。おそらく、第1行目のワインも月明かりに照らされ「さあ飲んでくれ」といわんばかりにウインクしている(月の光が酒の面に反射しウインクしている)。また、この人たちは、墓場を見下ろしてるのだから、高台で飲んでいる。面白いのは、ここで出て来るお猿さんである。このお猿さんは元気がない。猿はしゃがんでいる、またはうずくまっている(hocken この動詞はこの作品によく出て来る)。「heulen」には「メソメソ泣く」という意味もあるから、猿はうずくまってメソメソ泣いているのかも知れない。したがって、この猿は、私たちが動物園で見るような叫び声をあげながら木の枝を跳び回る元気さがない。月に向かって咆哮する獣の野生性、孤高性がない。この詩が言いたいのは「猿でさえ人の墓場で(猿は墓を作らないからこの墓場は猿の墓場ではない)人の死を悼んで泣いているのだ。いわんや人はなおさら人の死を悲しむべきじゃないか」ということであろう。

少し、茶化して書いたが、私が言いたいのは《大地の歌》の詩は情景描写、自然描写が豊かであり、それが情感を盛り上げていること。それらの詩は大地についての詩であるとともに浮世についての詩であること。すなわち、die Erde wird lange fest steh'n und aufblüh'n im Lenz.(大地はゆるぎなく存在し、春には花を咲かせるだろう)と、Nicht hundert Jahre darfst du dich ergötzen, an all dem morschen Tande dieser Erde! (浮世のもろいがらくたに興じる時は百年と続かない)のところで、前者では「Erde」に「大地」の意味を持たせ、後者では「Erde」に「浮世」の意味を持たせている。大袈裟に言えば後者の「浮世」「現世」という概念がこの作品のキーであると私は思う。いわば「あの世における救済の希求とこの世における救済の希求」の対峙。「永遠性や救済はあの世にあるのかこの世にあるのか」「あの世とこの世とどっちが大事か」に対する解答がこの作品の意義であり、この詩が歌っているのは20世紀の実存主義が重んじる日常性の重視であり、それは反プラトン主義、反イデア論、反キリスト教的救済、反ドイツ観念論哲学であり、そして、それらは時代の先取りでもあるが、東洋人にとっては当たり前の無常観であった。ショーペンハウエルやニーチェが西洋文明・思想の終焉を宣言したが、ショーペンハウエルやニーチェの思想は東洋にはすでに1000年以上も前に存在していた。そのことが笑えるということではないだろうか。第1楽章には悲嘆と自嘲の両義性があると思う。

長くなったが、私が、以上のように、大地の歌の歌詞にこだわる理由は、この作品は(詩も音楽も)情景描写が多く、そして、その情景描写がリスナーに、より豊かに、よりリアルに、よりダイレクトに伝わる演奏が、良い演奏だと思うからだ。

もう一つ、私が「大地の歌は、マーラーの遺言ではなく、ヨーロッパ文明への(批判、反抗を含めた)決別宣言」と考える理由は、マーラーの伝記的事実による。マーラーは、この作品の作曲中にアメリカに渡っている(1907年)。1908年9月19日には、プラハで第7番をみずからの手で初演している。もしかしたら、マーラーは大地の歌も、機会があれば、みずからの手で初演することを考えていたかも知れない。さらに、マーラーは大地の歌の完成後、第9番を完成し、さらに、あともう少しのところで第10番をも完成させるところまでいった。したがって、それら旺盛な創作意欲と精力的な活躍のなかで書かれた大地の歌は、最後の「遺言」とみなさないほうが適当であろう。

さらにもう一つ、この作品の第3, 4, 5楽章は、第1, 6楽章の厭世主義的テーマとは無縁である(第5楽章はスケルツォの性格を持つかも知れない)。明るい三つの楽章(第3, 4, 5楽章)を作品に挿入する余裕。

彼が「この世」に「あばよ!」と別れを告げたのは、見せかけであり、実は、第6楽章の「告別」は、この世にではなくヨーロッパに「あばよ!」と言ってるように私には思えるのだが。

第2楽章《孤独者 秋にて Der Einsame im Herbst》
この楽章の歌詞についての言及は都合により後回し。

第3楽章《青春について Von der Jugend》
この詩で、Pavillon aus grünem / Und aus weissem Porzellan(緑と白の陶器でできたあずまや)は誤訳であり、原詩では「陶」という名字の人のあずまやである。いくら、西洋人が、8世紀中国の事情に疎く、ベートゲの訳詩に異国情緒を求めたとしても、陶器でできたあずまやの実在を前提に、この詩を読んだと考えるのは、奇妙に思える。これは私の勝手な解釈だが、マーラーはベートゲの詩から「陶器でできたあずまや」をイメージしたのではく「陶器に描かれたあずまや」をイメージし作曲したのではないかと思う。

第4楽章《美について Von der Schönhheit》も「陶器に描かれた絵を見ている」というシチュエーションがイメージできると思う(19世紀、中国の陶磁器はヨーロッパの収集家のために沢山ヨーロッパに輸出された)。それらの陶器は、お茶碗のような小さいものではなく、壷のようなものであり、その壷は2つある。一つには乙女たちの絵が描かれてあり、もう一つには、馬に乗った少年が描かれてある。マーラーは、頭の中で二つの絵を交互に見ている。後者(馬に乗った少年)が唐突に出て来るのは、二つ目の絵に目をやった瞬間であろう。そして再び一つ目の絵(乙女たちの絵)に目を移し曲が終わる。

第2楽章《孤独者 秋にて Der Einsame im Herbst》
この孤独者は、原詩では女性である(ベートゲの詩では Der Einsame が男性形なので男性である)。
私はこの詩の最初の2節には、傷があると思う。

Herbstnebel wallen bläulich überm See,
(秋の霧は沸き立っている(沸騰している) 青く 湖面に)
Vom Reif bezogen stehen alle Gräser;
(霜におおわれ すべての草々は立っている)

1行目、霧が沸騰している。さながら、冬場の露天風呂の熱湯の湯気が沸き立ってるように...。そしてその霧は、多分、湖面に停滞している。であれば、なぜ「すべての草々は霜におおわれている」のが見えるのだろうか。つまり、石原裕次郎の歌ではないが『夜霧よ今夜もありがとう』のように(原詩では夜である)霧で視界が遮られ、あたりは見えないはずだ。少なくとも、遠くのほうは見えないはず。近くは見えるとしても...。なのに「すべての」草々が見えるのは変だ。

Man meint, ein Künstler habe Staub von Jade
(人は思う 一人の芸術家が ヒスイのちりを)
Über die feinen Blüten ausgestreut.
(かよわい花々に まき散らしたかのように)

私は「ヒスイのちり(Staub von Jade)」というのを見てみたい。ヒスイをすり鉢ですりつぶして粉にしたようなものであろうか。繰り返すが「すべての草々をおおう霜が 花々にまき散らされたヒスイのちりのように見える」。非常にシュールな光景・・・。というか、この描写にも無理があるように思う。深い霧のなかに上記光景(ヒスイのちりをまき散らしたかのように云々)が視覚されるというのもイメージの一人歩きのように思える。そこで考えたのだが、これもまた、陶器に描かれた絵ではなかろうか。その絵は大きな陶器の複数の場所に描かれてある。一つの場所には「霧に沸き立つ湖面」一つの場所には「霜に被われた花のように輝く草々」すなわち、それらは別々の像ではないだろうか。

Der süße Duft der Blumen ist verflogen;(花々の甘いかおりは 飛び去り)以下も同様に無理がある。

Ein kalter Wind beugt ihre Stengel nieder.
(冷たい風が それらの花々の茎を打ちひしぐ)

「花々の茎を打ちひしぐ」ほど強い風が吹いているのなら、霧は晴れているはずである。【注2】

もっともこの詩の第1節と第2節は、第3節(Mein Herz ist müde. 私のこころは疲れている)以降の心理描写の「まくら」であり、第3節以降を盛り上げるためのイメージである。したがって、少々の無理や傷は見過ごすことにします。

第6楽章《告別 Der Abschied》
これも面白い。この楽章は、ご承知のように、二つの詩をミックスしたものである。そのために主客の転倒がある。
この詩のストーリーは以下の通り。

前半でAさん(私)が、Bさん(友)の(旅立ちの)別れの時を待っている。Bさんはなかなか来ない。Aさんは20分も待たされる。そしてやっとBさんが現れる。が、大したことは言わないでさっさと行ってしまう。Bさんの言葉はここで直接話法つまり一人称(ich 私が主語)になっている。それによって第6楽章の詩はコンテクストの上で主客転倒が起きている(前半ではAさんが私、後半ではBさんが私)。

思うに実は別れを告げられるAさんも別れを告げるBさんも、マーラー自身ではないのだろうか。Aさんの「Ich wandle auf und nieder mit meiner Laute 私は琴を持って あちこち歩いた(23行目あたり)」という言葉と、Bさんの「Ich wandle nach der Heimat, meiner Stätte! 私は故郷へと歩いて行く 私の居場所へと(最後から6行目あたり)【注3】」。前者と後者は文章表現が似ているが、両者の詩句が歌われるときに奏される音楽もまた似ているような気がする。

というわけで、私の考えは以下である。

マーラーは、Bさんである。Bさんはヨーロッパに別れを告げる人。Aさんは、別れを告げられる人。Aさんは、ヨーロッパに残される人。

しかし、マーラーは別れを告げる人の立場だけでなく、別れを告げられる身になってこの楽章を書いていると思う。第6楽章ではAさんの描写のほうが長い。Bさんは長いことAさんを待たせたくせに、別れの言葉は比較的あっさりしている。行き先も連絡手段も言わない。勿論、この別れが、今生の別れであれば行き先も連絡手段も告げる必要はない。しかし、そうであるなら、なぜBさんは、Aさんを長く待たせるのだろうか。

Bさんはさっさと行ってしまう。それは中島みゆきの『別れうた』の「立ち去るものだけが美しい」という詩句を私に思い出させる。大地の歌の第6楽章は旅立つ者の「引き際のよさ」「いさぎよさ」「かっこよさ」を歌っているのではないだろうか。

マーラーは、過去に(誰かから)別れを告げられた経験を、この楽章で追想しているのではないだろうか。そして今度は、ついに、みずから別れを告げる番になった。その立場の逆転をこの楽章に書いたのではないだろうか。(つづく)

【注1】もし大地の歌がバイロイト祝祭劇場で初演されたとしたら聴衆は第1楽章の激しさにびっくりしただろう。バイロイトでは、指揮者もオケも聴衆に見えない。オーケストラピットの明かりも見えない。暗闇の中、大地の歌の第1楽章が奏されたら、おどろきのあまり聴衆はざわめくかも知れない。

【注2】第2節は、Bald werden die verwelkten, gold'nen Blätter / Der Lotosblüten auf dem Wasser zieh'n.(やがてしおれた金色の蓮の葉は水面に流る)という美しい詩句で締められるので、私の主観では、冒頭はむしろ「秋の霧は晴れわたり」のほうがいいかもしれない。ちなみに原詩に霧は出てこない。

【注3】馬に乗っているのに「歩いて行く」というのは変だと思うのだがそれはこだわり過ぎでしょうね。

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2009年7月28日 (火)

大西順子 楽興の時

私は、ジャズも聴く。


Onishi


大西順子
楽興の時
2009 Somethin' Else Record, a division of EMI Music Japan Inc.

01. Hat and beard (Eric Dolphy) 5:29
02. I gotta right to sing the blues (Ted Koehler - Harold Arlen) 3:39
03. Back in the days (Junko Onishi) 7:21
04. Bittersweet (Junko Onishi) 6:17
05. Ill wind (Ted Koehler - Harold Arlen) 5:34
06. Musical moments (Junko Onishi) 8:11
07. Something sweet, something tender (Eric Dolphy) 4:37
08. G. W. (Eric Dolphy) 4:36
09. Smoke gets in your eyes (Otto Harbach-Jerome Kern) 3:05
Juonko Onishi : Piano
Yousuke Inoue : bass
Gene Jackson : drums
以上スタジオ録音
Bonus track
10. So long Eric - Mood indigo - Do nothin’ till you hear from me
(Charles Mingus) (Irving Mills - Duke Ellington - Barney Bigard) (Bob Russell - Duke Ellington)
16:19
Juonko Onishi : Piano
Reginald Veal : bass
Herlin Riley : drums
2008年9月14日、青山ブルーノート東京、ライヴ録音

まず驚いたのは、ボーナストラックに、1994年のヴィレッジ・ヴァンガード・ライヴで取り上げた "So long Eric" が、しかも同じメンバーによる演奏で収録されていること。まるで「聴き比べて下さい」と言わんばかり。実際聴き比べてみると、1994年のほうが安定していると思う。今回の2008年の演奏は、ヨーロッパライブ「Play, piano, play」の演奏に似ている感じがある。

<01> <07> <08> にドルフィーを持ってきている。彼女は過去に、ドルフィーを取り上げたことはないと思う。アルバムの第1曲目にドルフィーの「Out to Lunch」の第1曲目を持ってきたのは、アルバムのコンセプトをむしろ曖昧にしているような気がするが、その印象は私の主観に過ぎない。<2> が、ビリー・ホリデイのコモドア・レコーディングに入っている有名ブルース。<9> が、プラターズのヒット曲。余裕かまして遊んでいるのか。

<2> <5> <9> はピアノソロ。<2> <5> は同じ作曲者によるナンバー。
<3> <4> <6> はオリジナル曲。とくにタイトルナンバー <6> は作曲、演奏ともに充実している。

総じて言って、大西は完全復活したと思う。彼女のテクニックが衰えていないのは、彼女が活動休止期間も練習を怠っていなかった証であると思う。

大西がカムバックしたのは、ジャズ界にとって大きな喜びであり、またショッキングな出来事でもあろう。というのも、黒人音楽をまともに演奏できるピアニストが、いまの日本のジャズ界にはほとんど存在しないからである。大西には今後もコンスタントに活動を継続して欲しい。

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2009年7月26日 (日)

バッハ:アリア集 聴き比べ


Kozena


バッハ:アリア集
マグダレーナ・コジェナー

Bach Arias
Magdalena Kozena, mezzo - soprano
Musica Florea
Marek Stryncl
01 "Et exsultavit spiritus meus" Magnificat BWV 243
02 "Schafe können sicher weiden" Hunting Cantata BWV 208
03 "Ich esse mit Freuden mein weniges Brot" Cantata BWV 84
04 "Erbarme dich" St. Matthew Passion BWV 244
05 "Wie starb die Heldin so vergnügt" Mourning Ode BWV 198
06 "Verstummt, verstummt, ihr holden Saiten" Mourning Ode BWV 198
07 "Wohl euch, ihr auserwählten Seelen" Cantata BWV 34
08 "Komm, komm, mein Herze steht dir offen" Cantata BWV 74
09 "Zerfließe, mein Herz, in Fluten der Zähren" St. John Passion BWV 245
10 "Kommt, ihr angefocht'nen Sünder" Cantata BWV 30
11 "Laudamus te" Mass in B minor BWV 232
Recorded 1996
ARCHIV

いや〜、渋い。選曲も歌唱も渋い。まるで渋柿をほおばったような味がする。
しかも、歌詞が難しい曲が多い。
私は、2年以上前に下記キルヒシュラーガーの「バッハ:アリア集」と一緒にこれを購入した。あるサイトに、その2枚が良いと紹介されていたからである。購入当初「キルヒシュラーガーよりもコジェナーのほうがいいなぁ」という印象を持ったが、コジェナーのほうは、2〜3回聴いて、その後、1度も聴いてなかった。久しぶりに聴いてみて思うに・・・
私が漠然と感じていた「良さ」は「渋さ」だったのだろう。

上記、選曲を見て下さい。

マニフィカト、受難曲、ロ短調ミサ以外で有名なカンタータは《狩りのカンタータ BWV 208》とカンタータ第198番《侯妃よ、さらに一条の光を》ぐらいじゃないだろうか。ただし、カンタータ第198番(BWV 198)は、教会カンタータではなく、私人のために書かれた追悼カンタータであるし、長い曲なので、人気ない作品かも知れない(いい曲なので人気あるかも知れん)。その BWV 198 から、2曲セレクトしている。
美しい旋律の曲ばかり選曲しているし、伴奏もうまい。しかし、コジェナーの歌唱はすこし、いや、かなり渋いと思う。実力ある歌手なので、渋くなって当然か。
あるいは、私の思い過ごしかも知れない。
この CD は現在、国内では多分入手困難であろう(ということは、レアな音盤であり、買っておいて良かった ... と思うのであった)。


Kirchschlager


バッハ:アリア集
アンゲリカ・キルヒシュラーガー

Angelika Kirchschlager, mezzo - soprano
Giuliano Carmignola, baroque violin
Venice Baroque Orchestra
Andrea Marcon
01 "Erfreute Zeit" Cantata "Erfreute Zeit im neuen Bunde" BWV 83
02 "Vergnügte Ruh" Cantata "Vergnügte Ruh, beliebte Seelenlust" BWV 170
03 "Schlummert ein, ihr matten Augen" Cantata "Ich habe genug" BWV 82
04 "Nichts kann mich erretten" Cantata " Wer mich liebet, der wird mein Wort halten" BWV 74
05 "Wo zwei und drei versammlet sind" Catanta "Am Abend aber desselbigen Sabbats" BWV 42
06 "Herr, was du willt" Cantata "Ich steh mit einem Fuss im Grabe" BWV 156
07 "Erbarme dich" St. Mathew Passion, BWV 244
08 "Widerstehe doch der Sünde" Cantata "Widerstehe doch der Sünde" BWV 54
09 "Laudamus te" Mass in B minor BWV 232
10 Sinfonia Cantata "Ich steh mit einem Fuss im Grabe" BWV 156
11 "Bereite dich Zion" Christmas Oratorio BWV 248
12 "Wie soll ich dich empfangen" Christmas Oratorio BWV 248
Recorded 2002
SONY

これは、軽すぎる。華やかな曲が多く、難しくない曲ばかり選曲している。
ゲストとして、カルミニョーラが参加している。指揮は、アンドレア・マルコンだが、彼はカルミニョーラと「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ BWV1014-19」を録音しているので、カルミニョーラとはお仲間である。

このアルバムは、ヴェニス・バロック・オーケストラがサポートしたキルヒシュラーガーのリサイタルように聞こえる。一方、ヴェニス・バロック・オーケストラの器楽のパフォーマンスが目立つ。第1, 4, 6曲目は協奏曲的である。

このアルバムは、キルヒシュラーガーの歌唱力、表現力、実力からすれば、コンセプトが弱いと思う。まさかこのバッハ・アリア集は商業的成功を優先したのか ...(仮にそうではないとしても、自己の個性を最大限生かすというモチベーションがキルヒシュラーガーにあったか疑問である)。すなわち、彼女の声と歌唱は明るく聴きやすく癖がないが、退屈する。キルヒシュラーガーにはもっと冒険して欲しかった。彼女の個性を強烈にアピールして欲しかった。

選曲は、ほとんどの曲が長調だ。短調の曲はマタイから "Erbarme dich" および、クリスマス・オラトリオからの2曲、計3曲のみ。クリスマス・オラトリオはもともとおめでたい作品であるので歌詞に深刻さはなく短調の重苦しさはない。

コジェナーのアルバムとダブるのは、07 "Erbarme dich" と 09 "Laudamus te" である。"Erbarme dich" はマタイ全曲の中の非常に重要な場面で歌われるアリアなのでマタイ全曲の中で歌われたものを比較しなければならないだろう。というわけで、単体で歌われているコジェナーとキルヒシュラーガーの "Erbarme dich" を比較するのはどうかと思ったが、あえて比較すればコジェナーのほうに陰影がある。"Laudamus te" は、ロ短調ミサの中で独立的に歌われるアリアなので比較してもかまわんかも知れん。そこで二人の "Laudamus te" の歌唱を比べると、やはりコジェナーの歌唱に「ロ短調ミサ」にふさわしい貫禄があるように感じた。


Otter


バッハ:アリア集
アンネ・ゾフィー・フォン・オッター

Anne Sofie von Otter, mezzo - soprano
Concerto Copenhagen
Lars Ulrik Mortensen
01 "Widerstehe doch der Sünde" Cantata "Widerstehe doch der Sünde" BWV 54
02 "Schläfert allen Sorgen Kummer" Cantata "Gott ist unsere Zuversicht" BWV 197
03 Duetto "Wenn des Kreuzes Bitterkeiten" Cantata "Was Gott tut, das ist wohlgetan" BWV 99
04 "Erbarme dich" St. Mathew Passion BWV 244
05 "Kommt, ihr angefocht'nen Sünder" Cantata "Freue dich, erlöste Schar" BWV 30
06 Sinfonia Cantata "Geist und Seele wird verwirret" BWV 35
07 "Nichts kann mich erretten" Cantata "Wer mich liebet, der wird mein Wort halten" BWV 74
08 Sinfonia Cantata "Weinen, Klagen, Sorgen, Zagen" BWV 12
09 Agnus Dei Mass In B minor BWV 232
10 Duetto "Et misericordia" Magnificat BWV 243
11 Duetto "O Ewigkeit, du Donnerwort" Cantata BWV 60
12 Coro "Sei Lob und Ehr dem höchsten Gut" Cantata, BWV 117
Recorded 2008
ARCHIV

コジェナー盤と "Kommt, ihr angefocht'nen Sünder" が、キルヒシュラーガー盤と "Widerstehe doch der Sünde", "Nichts kann mich erretten" などがダブっている。

オッターが参加したバッハの声楽曲のアルバムは多いので、読者の皆さんは、彼女がバッハをどう歌うかをご存知であろう。予想に反せず、いい意味でも悪い意味でも、オッターの歌い方は従来どおりの癖、個性が、このアルバムでも聴かれる。

このアルバムは、ある種のコンセプトアルバムになっている。

"Wenn des Kreuzes Bitterkeiten" はソプラノとのデュエット。"Et misericordia", "O Ewigkeit, du Donnerwort" はテノールとのデュエット。"Sei Lob und Ehr dem höchsten Gut" はソプラノ、テノール、バスを加えた合唱曲。そして器楽のみの演奏が2曲(BWV 35, 12)。

それらを仕切っているのは、指揮とオルガンを担当するモーテンセン(Lars Ulrik Mortensen)である(私は、モーテンセンというアーティストが気に入ったので彼の《ゴルトベルク》を購入したが、それは面白いコルトベルクであり、良い演奏だと思う)。
オッターの歌唱は、ところどころ光るが、特に名唱はないと思う。

結局、3つのアルバムの中では、コジェナーが一番よかった。

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2009年7月24日 (金)

ナタリー・デセイのバッハ


Bach_dessay


Bach
Cantatas BWV 51, 82a, 199
Natalie Dassay
Emmanuelle Haïm
Le Concert d'Astrée
Recorded 2008
VIRGIN CLASSICS

私のレビューは辛辣なのが多いが、これも辛辣に書く。
デセイのバッハは「イマイチ」である。
Amazon.com のカスタマーレビューにもあったが、ドイツ語の発音が悪い。それと、デセイは楽譜を見ながら歌っているのではないかと思ったが、レコーディング風景を撮った動画があったので見てみたら、やっぱりそうだった。彼女の声は空に向かって飛んでいないような気がする。BWV 51 は《すべての地にて神に歓呼せよ! Jauchzet Gott in allen Landen! 》なのだから歌が下を向いて聞こえるのは良くない。指揮者(エマヌエル・アイム Emmanuelle Haïm)とオケはうまい。BWV 51 の有名なアレルヤは急にテンポを速めているが、これは良い。ところで、指揮者は美女(下記)である。私のレビューは「美女演奏家の紹介が多い」というご指摘があったが、そうではなくて、購入したらたまたま演奏者が美女なのだ(ほとんど言い訳)。

では、BWV 51 は誰のがいいかというと、

グルベローヴァ(録音年不明。書いてない)
これも「イマイチ」
グルベローヴァは、BWV 51 をオペラのように歌っているが、それは良いと思う。BWV 51 は、カストラート(オペラ歌手と言っていいだろう)のために書かれた作品なので、オペラのように歌ってかまわないと思う。グルベローヴァのドイツ語の発音は良いので安心して聴ける。ただ指揮者(Helmut Winschermann)があまり上手くないと思う(というかグルベローヴァの歌唱はリズムが狂っているような気がする)。歌手と指揮の掛け合いというものが、デセイ盤にはあるが、グルベローヴァ盤はそれに欠けると思う。

シュターダー(1959年録音)
定盤だが、シュターダーの歌唱もリヒターの指揮も、いまとなっては古いと思う。

シェーファー(1999年録音)
これは、ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハによる編曲版なので、とても騒がしいが、軽快なテンポ、しかも力強い。シェーファーの歌唱は安定している。私の好みに合う。

デセイ盤は、BWV 82 のソプラノ版(これは珍しいと思う)が入っているので買っても損はしないかも知れない。デセイの歌唱は、BWV 82 と BWV 199 で次第に良くなるように聞こえる(耳が慣れるせいであろうか)。ただし、デセイのファン以外の人にはすすめない。

Haim3

Haim2


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2009年7月23日 (木)

煮ても焼いても食えない作品 コンヴィチュニーのブルックナー8番


Konwitschny


Anton Bruckner
Sinfonie Nr. 8 c-Moll (Originalfassung)
Rundfunk-Sinfonieorchester Berlin
Franz Konwitschny
18, 19, 21/Dezember/1959 Funkhaus Nalepastraße Saal 1 Berlin
WELTBLICK SSS0012-2
MONO

1. Allegro moderato 15' 23
2. Scherzo 13' 57
3. Adagio 27' 11
4. Finale 24' 42

Total 81' 24

ブルックナー8番は、1887年版の方が改訂版よりよい。ブルックナー8番の1887年版と改訂版は、映画のディレクターズカット版と劇場公開版のような関係ではないと思う。改訂版は、たとえば海外ドラマを時間的制約のためカットして放送したもののように思える。1887年版は第1楽章をハ長調で終わらせていること、第3楽章のクライマックスがハ長調(改訂版では変ホ長調)であることは、第4楽章への伏線として効いていると思う。1887年版を聞き慣れてしまうと、改訂版は、ある箇所で唐突に音楽が進んでしまうように聞こえる。ブルックナーが改訂でカットした箇所は、この作品の全体を俯瞰した場合、全曲の統一性を図るために「必要」な箇所だったのではないだろうか。エレガントな改訂版は、第3楽章の耽美性が第3楽章の独立性(全曲の不統一性)を招いているような気もする。ブルックナーは全曲を、よりすっきりとまとめようとして逆に統一性を弱くしたと思う。私は、1887年版のスコアを取り寄せて、スコアを見ながらシモーネ・ヤング盤を聴いてみたが、この作品は意外に全楽章に共通の音形、旋律、音楽的素材を持つように思えた(具体的に指摘できないが)。

上記、フランツ・コンビチュニー指揮ベルリン放送交響楽団盤は、モノラル録音だが、ステレオ録音の下手なリマスタリングより聞きやすいと思う(3日にわたるスタジオ・セッションなので安心して聴ける)。ノイズが少ないし、低音も比較的(まあまあ)よく録れてる。この演奏は、ライプチヒ・ゲヴァントハウスの古色はなく、ベルリン放送交響楽団のスキのない実力が聞けると思う。こういうスキのない演奏を聞くと「改訂版のスキ」も見えなくなるような気がする。カラヤンやヴァントは、独自の美でブル8を振ってブル8を美化したと思う。その美は「いくらでも美しくできる美」であり、マイスター的伝統と現代のハイテク技術により制作された教会オルガンの美に似た美であると思う(ブル8は教会で録音されることが多いし残響など音響効果に凝った録音が多い...)。私は長くブルックナーの8番になじめなかった。やっと、ブル8に目ざめたのは、ヴァントのブルックナーの美に触れたのがきっかけだった。

ブルックナーの8番にはブルックナーの野生性や素朴さがあると思う(スケルツォはドイツの野人であり、第4楽章の第1主題はコサックの進軍である)。第7番の完成後、ブルックナーはすぐに第8番の作曲に取りかかっている。しかし、ブルックナーが、いかにすぐれた作曲家であったとしても、交響曲というジャンルにおいて、たて続けに大作を書くのはきつかっただろうと思う。第7番という大作完成後、ひと休みもできなかったことは、ベートーヴェンが第9番を書くのに10年の余裕を持てたのに比して「余裕のなさ」を感じる。さらに8番完成後すぐに(1887年に)9番に着手しているのは驚異的。ブルックナーはすでに60才を過ぎ、残された時間が少なかったことを自覚していたのか...。第7番が「ワーグナーへの敬意と追憶」というモチベーションを持つのに比べ、第8番は内面的でプラベートなモチベーションとテーマ性を感じさせる。それは彼の「野生性・素朴さ」の直接的現れであり、そしてそれらは彼が生来持っていた性格・パーソナリティかも知れない。あるいは「余裕のない老人の衰え」だったのかも知れない。余裕のない作家が創作の素材とできるものは「最も身近なもの」すなわち「自我」である。

とはいえ、老年ブルックナーの旺盛な創作意欲。第8番を完成させたブルックナーは偉い!

コンヴィチュニーの第8番のストレートなパフォーマンスを聴いて改めてそう思う。

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2009年7月21日 (火)

煮ても焼いても食えない作品 シモーネ・ヤングのブルックナー8番


Simone8


Anton Bruckner
Symphony No. 8 C minor
First version 1887
Simone Young
Philharmoniker Hamburg
Recorded live December 14 & 15, 2008, Laeishalle Hamburg
OEHMS CLASSICS

CD 1
1. Allegro moderato 16: 05
2. Scherzo 14: 37
CD 2
3. Adagio 27: 44
4. Finale 24: 10

Total 82: 36

ブルックナーの交響曲第8番を、32種類(下記)も買ってしまったが、私の結論は「ブルックナーの第8番は1887年版のままで良かったのではないか」ということ。さらに「ブルックナーは、第8番を改訂せずに、さっさと第9番を書き上げれば良かったと思うこと」である。今後、1887年版が演奏される機会が多くなれば、ブルックナーのファンが、彼の最後の交響曲が未完に終わったことを惜しみ悔しむ気持ちは増すかも知れない(私の意見に共感してくれるブルックナーファンが増えるかも知れない)。なぜなら、私の考えでは、第8番から第9番への進歩は、第7番から第8番へのそれより大きく、第9番こそブルックナーの交響曲の最高峰だと思うからだ。

私がこだわるのは第8番の第4楽章である。たしかに、この交響曲は、スケルツォを第2楽章に持ち、巨大な第3楽章を持つ点で、ベートーヴェンの第9番を模範にしていると思う。しかし第8番の第4楽章は、結局、第1主題と第7番の第1楽章に収束してしまうと思う(再現部前と再現部の第1主題の再現に第7番の第1楽章が回想されるから)。第8番の第4楽章の手法は第7番の最終楽章の延長線上にある手法だと思う。というのもこの楽章は比較的(提示部に)忠実な再現部を持つが大きなコーダを持つことなく(一応全楽章を回想するがこれも形式的に思える)あっさり終わってしまうからだ。それは、ソナタ形式を大きく逸脱しないという点で第7番の第4楽章に類似していると思う。さらに、この楽章は休止が多くコラール風の旋律が多い。その点もベートーヴェンの第九を模倣したのかも知れない。休止とコラールはカンタータやオラトリオを思わせる。ブルックナーは、第九の終楽章のカンタータを真似したのかも知れない。しかし、それも形式的な模倣に過ぎず中途半端に思える。

これは彼女の第4番でも指摘したが、シモーネ・ヤングのブルックナー8番は粗いと思う。この演奏は、ブルックナーをよく研究していることをうかがわせるし、その点、細心な演奏である反面、アンサンブルの悪さバランスの悪さを合わせ持つ(木管が聞こえない)。美しいブルックナーを求める人はこの商品は買わない方が良いと思う。しかし、仮に彼女がこの作品に、あえて美しさや重々しさを与えず、研究成果だけを表したとしたら、彼女はしたたかだと思う。なぜなら、この作品がブルックナーの交響曲の通過点に過ぎないことをリスナーに認識させてくれるかも知れないからである。

交響曲第8番(1955年録音)2. Fassung 1888/90 Edition Schalk/von Oberleithner (1892),Knappertsbusch,バイエルン国立,LIVE
交響曲第8番(1955年),Eduard von Beinum,RCO,LIVE
交響曲第8番(1959年)Originalfassung,Franz Konwitschny,ベルリン放送,STUDIO
交響曲第8番(1963年)改訂版,Knappertsbusch,ミュンヘン・フィル,STUDIO
交響曲第8番(1963年)1890年版,Carl Schuricht,Vpo,STUDIO
交響曲第8番(1964年)1887-90 Nowak,ヨッフム,Bpo,STUDIO
交響曲第8番(1966年)ノーヴァク版,ショルティ,Vpo,STUDIO
交響曲第8番(1971年)2nd Version,ベーム,バイエルン放送,LIVE
交響曲第8番(1975年),Herbert Kegel,RSOL,STUDIO
交響曲第8番(1976年)ノーヴァク版1889-90,ベーム,Vpo,STUDIO
交響曲第8番(1976年)ノーヴァク版1890,ヨッフム,SKD,STUDIO
交響曲第8番(1982年)1887年第1稿,Eliahu Inbal,RSOF,STUDIO
交響曲第8番(1982年)1890年ノーヴァク版,テンシュテット,Lpo,STUDIO
交響曲第8番(1984年)1890年ノーヴァク版,Carlo Maria Giulini,Vpo,STUDIO
交響曲第8番(1985年)Originalfassung,Heinz Rogner,ベルリン放送,STUDIO
交響曲第8番(1988年)ハース版,カラヤン,Vpo,STUDIO
交響曲第8番(1989年),マゼール,Bpo,STUDIO
交響曲第8番(1990年)1890年ノーヴァク版,ショルティ,Cso,LIVE
交響曲第8番(1993年)1890年ノーヴァク版,Sergiu Celibidache,ミュンヘン・フィル,LIVE
交響曲第8番(1993年)1890年ノーヴァク版,Jesus Lopez-Cobos,Cincinnati Symphony,STUDIO
交響曲第8番(1994年)1890年ノーヴァク版,シノーポリ,SKD,STUDIO
交響曲第8番(1996年)1887年ノーヴァク版,Georg Tintner,National Symphony Orchestra of Ireland,STUDIO
交響曲第8番(1996年)ハース版,ブーレーズ,Vpo,LIVE
交響曲第8番(1999年)ノーヴァク版,Riccardo Chailly,RCO,STUDIO
交響曲第8番(2000年)ハース版,ヴァント,ミュンヘン・フィル,LIVE
交響曲第8番(2000年)ノーヴァク版,Nikolaus Harnoncourt,Bpo,LIVE
交響曲第8番(2001年)ハース版,ヴァント,Bpo,LIVE
交響曲第8番(2003年)ハース版,Marcus R. Bosch,sinfonieorchester Aachen,LIVE
交響曲第8番(2004年)Version 1884-1887,Dennis Russell Davies,Bruckner Orchester Linz,LIVE
交響曲第8番(2005年)ハース版,大植英次,大阪フィル,LIVE
交響曲第8番(2005年)ハース版,Herbert Blomstedt,GOL,LIVE
交響曲第8番(2008年)First version 1887,Simone Young,Philharmoniker Hamburg,LIVE

【Amazon.co.jp】へのリンク
ブルックナー:交響曲第8番[1887年第1稿(ノーヴァク版)]

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2009年7月 6日 (月)

シャイーのマーラー:交響曲全集(3)

Ursula
聖ウルズラ
Cecilia
聖セシリア


MAHLER
THE SYMPHONIES
RICCARDO CHAILLY
ROYAL CONCERTGEBOUW ORCHESTRA
Symphonies No. 1 - 9
RADIO - SYMPHONIE - ORCHESTRA BERLIN
Symphony No. 10

CD 4
交響曲第4番ト長調
2. 第1楽章 18' 11
3. 第2楽章 9' 39
4. 第3楽章 20' 43
5. 第4楽章 9' 42
バーバラ・ボニー(ソプラノ)
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
1999年9月録音

第1楽章
再現部の第2主題が主調(ト長調)で再現されるところは、あまり強いカタルシスを感じさせない。多分、バーンスタインやティルソン・トーマスではもっと効果的だったと思う。

第4楽章
Kein Musik ist ja nicht auf Erden, die unser verglichen kann werden.
私たちの音楽に比べられる音楽が地上にあろうか。

の前のところで、第1楽章のイントロが強奏されるところが効果的でなく、不自然である。

ところで、私はシノーポリのマーラー:交響曲全集(4)で、

聖ウルズラは一万一千人の乙女とともに殺された聖女。聖チェチリアとその一族もまた残酷に殺された殉教者。そういう聖女たちが天国では楽しくに暮らしているはいいのですが、やはり彼女らの残酷な最期を知ると、その落差に不気味さを感じます。

と書いたが、聖チェチリア(聖セシリア)のほうは、殉教者ではあるが、それほどひどい殺され方をした人ではないようだ。wikipedia に「音楽家と盲人の守護聖人」とある。私は「あの世では喜びを与える聖人が、この世では地獄のような殺され方をした。あの世は天国だが、この世は地獄」という対比、皮肉、厭世主義を、マーラーは、この第4交響曲で歌ったと捕らえていたが、必ずしもそうではないような気がしてきた。しかし、仮にそのような気味の悪い題材ではないと捕らえたとしても、この第4交響曲の第4楽章は演奏するのが難しいと思う。

シャイーのマーラー:交響曲第4番。その第1 - 3 楽章はシノーポリのより良く、第4楽章はシノーポリに負けると思う。

あと、この第4交響曲をスコアを見ながら聞いてみて思ったが、これは、第5交響曲につながり深いと思った。第 2 - 4 交響曲を『角笛交響曲』としてひとまとめにしているが、それに第5番を含めてもいいのではないかと私は思う。その点については、また後日書くことにする。

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2009年7月 5日 (日)

ラズモフスキー弦楽四重奏団のショスタコーヴィチ全集


Shostakovich


SHOSTAKOVICH
COMPLETE STRING QUARTETS
RASUMOWSKY QUARTETT
Dora Bratchkova, 1st violin
Ewgenia Grandjean, 2nd violin
Gerhard Müller, viola
Alina Kudelevic, cello
Recorded June - December, 2005
OEHMS CLASSICS

CD 1
1st Quartet in C major op. 49 (1938)
2nd Quartet in A major op. 68 (1944)
3rd Quartet in F major op. 73 (1946)

CD 2
4th Quartet in D major op. 83 (1949)
5th Quartet in B - flat major op. 92 (1952)
6th Quartet in Gmajor op. 101 (1956)

CD 3
7th Quartet in F - sharp minor op. 108 (1960)
8th Quartet in C minor op. 110 (1960)
9th Quartet in E - flat major op. 117 (1964)
11th Quartet in F minor op. 122 (1966)

CD 4
10th Quattet in A - flat major op. 118 (1964)
12th Quartet in D - flat major op. 133 (1968)
13th Quartet in B - flat minor op. 138 (1970)
Two Pieces op. 36
Adagio
"Elegy in F - sharp minor", transcription of the aria from the opera "Lady Macbeth of Mzensk"
Allegretto
Polka from the ballet "The Golden Age"

CD 5
14th Quartet in F - sharp major op. 142(1973)
15th Quartet in E - flat minor op. 144 (1974)

この全集は、技巧、表現力、アンサンブルは秀でてないし没個性であり、もう少しで破綻しそうな演奏のように思える(破綻する前にかろうじて曲が終わってしまうので破綻しないのかも...)。それでも、この全集は、私のようなショスタコーヴィチ入門者には、ボロディンQの新旧盤やエマーソンQのより聞きやすい全集だと思った。その理由を説明しようと思って、色々文章を考えてみたが結局、リーフレットにある下記の文章が私の印象を表してるようだ。


About this recording of the complete works

Even more important than the notation are the questions of choice of tempo and the temporelations. The musicians have kept strictly to the demands of the composer resulting in the slow movements no longer appearing so heavy and pathetic. On the other hand, the waltz in the Second Quartet and the last movement of Quartet No. 9 are now interpreted in their original tempo, to a breathtaking effect. Not least, these recordings come from an understanding of Shostakovich, which questions common ways of interpretation from the historic distance.

ラズモフスキー弦楽四重奏団のショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全集について

(前略)記譜法よりさらに重要なことは、テンポの選び方とテンポの相関性の問題である。演奏者は厳密に作曲者の要求にこたえているので、遅い楽章は、もはやヘビーでもパセティックでもない。他方、第2番のワルツと第9番の終楽章は彼らのオリジナルのテンポであり、はっとさせられる解釈だ。もとよりこの録音は、ショスタコーヴィチの一般的作品解釈を、歴史的隔たりから探り理解するという発想でなされている。

私もこの演奏を聴いて「ショスタコーヴィチももはや古典だ」と主張しているように思った。

ついでに、マキシム・ショスタコーヴィチのコメント。


The new recording of all the quartets by Dmitri Shostakovich by the Rasumowsky Quartet has left the very deepest impression with me. The creative sensuous penetration into the world of Shostakovich’s music, the individual caftsmanship and talent of each member of this excellent ensemble make it possible to count this recording amongst the best interpretations of the music of my father’s altogether. I congratulate sincerely all the members of this wonderful quartet on the magnificent artistic performance and am convinced these CDs will provide the lovers of Shostakovich's music with very great joy.

Maxim Shostakovich, May 2006

このラズモフスキー弦楽四重奏団によるショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全集の新録音は、私に非常に深い印象を残した。彼らのショスタコーヴィチの音楽への創造的で感覚的な浸透、このエクセレントなアンサンブルの各メンバーが持つ個々の傑出した才能、それらがこのレコーディングを、私の父の全音楽の最良の解釈の一つとして数えられることを可能にする。私はこの堂々たる芸術的演奏を為した素晴らしい弦楽四重奏団の全メンバーを祝し、これらの CD がショスタコーヴィチの音楽の愛好者に非常に大きい喜びを提供すると確信している。

マキシム・ショスタコーヴィチ 2006年5月

【追記】上記メンバーの名前を見れば分かるとおり、ラズモフスキー弦楽四重奏団はヴィオラ奏者以外は女性です。

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2009年7月 2日 (木)

ヒラリー・ハーンを追っかける(7)ショスタコーヴィチ


Photo_4


Felix Mendelssohn
Concerto for Violin and Orchestra in E minor, Op. 64
I. Allegro 12' 01
II. Andante 8' 11
III. Allegretto - Allegro 5' 56
Dmitri Shostakovich
Concerto for Violin and Orchestra No. 1 in A minor, Op. 77 *
I. Nocturne 12' 35
II. Scherzo 5' 36
III. Passacaglia 9' 24 - Cadenza 5' 20
IV. Burlesque 4' 36
Hilary Hahn, violin
Oslo Philharmonic Orchestra
Hugh Wolff, Marek Janowski *, conductor
Recorded 2002
SONY

ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲について、渡辺純一さんのショスタコーヴィチ/プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番/チャン/ラトル [EMI]をお読みになってから、私の感想をお読みになることをお進めします。渡辺さんは、サラ・チャン盤について書いてますが、私は、ハーン盤について書きます。

まずメンデルスゾーンのほうだが、これはよくわかないからノーコメント。

英語で書かれたハーン自身のライナーノートに、上の2作品は「どちらも作曲者の脂の乗り切った年齢に書かれた作品であることに共通性がある(だから、両者をカップリングしたと言いたいのだろう)」みたいなことが書いてるが、私はそうは思わない。

結論をいうと、第5作でハーンは初めてこけたと思う。いくら、クールさが持ち味のハーンでも、彼女の弾くショスタコーヴィチの第1楽章は味気ない。この楽章は、息の長いフレーズで始まる。第1楽章は「ノクターン」と題されてはいるが、ショパンのノクターンのような情緒はない。これは本当にノクターンなのだろうか。ヴァイオリンの長いフレーズはハーンので5分4秒も続く(ちなみに、オイストラフのは4分36秒、サラ・チャンのは4分50秒ぐらい)。この息の長いフレーズをもしオーボエで吹いたら、どこで息継ぎしたらいいのだろうと、私は思わせられる。オイストラフのでさえ息詰る演奏に聞こえる。ただ、オイストラフの演奏では最初の息の長い旋律の次の旋律、弱音機をつけた旋律が、前の息の長い旋律とのコントラスト(?)において前者を生かしているようにきこえるが、ハーンの演奏にはそれがない(私は、最初、ハーンは弱音気をつけずに演奏しているのではないかと思った)。

これを言ったらおしまいだが、ショスタコ1番は(作曲者がオイストラフが演奏することを前提にして書いた作品であるという意味で、もっといえばオイストラフのためだけに書いた作品であるという意味で)ショスタコーヴィチとオイストラフの共同作品ではないかと思う。オイストラフ&ムラヴィンスキー(1956年)を超える演奏は出ないとあきらめた方がいいと思う。

ハーンは、ライナーノートの中で、ショスタコーヴィチのこの Vn 協奏曲のことや、作曲者の事情を良く知っているような文章を書いている。しかしどういうわけか(つまり作曲者を知ってるはずなのに)ショスタコの D - Es - C - H 音型【注】や、その他ショスタコーヴィチに特有な旋律をあまり重要視していないように聞こえる。それらを軽く扱っているように思える。それは彼女のショスタコ解釈の欠点だと思う。なぜなら、この作品は、ユダヤ音楽の影響(と、池辺晋一郎さんが N 響アワーで言っていた)民族性があり、また前後するが、それらの旋律を作曲者の伝記的側面や作品成立史また当然のことながら作曲者へのシンパシー、作曲家への深い理解をもってフレージングしないと、(作品が)死ぬんじゃないかと思うのだが、私の主観ではハーンの演奏にはそれらが薄い。ハーンの演奏はショスタコーヴィチへの思い入れのなさを感じさせる。取り扱い方が雑というかクールというか、重要フレーズを特別視してないように聞こえる(特別視しなくてもいいが、クールなだけでは良くない気がする)。繰り返すが、ハーンはライナーノートにちゃんと作曲者への研究をうかがわせる記述をしているのに ...。

高い技巧による迫力ある演奏だが、私は、ハーンのショスタコーヴィチに満足できないし、この作品の新しい代表的録音だとは思わない。

あと指揮者が悪いのかも...。

【注】言わずもがなですが、Dmitri Shostakovich のイニシャル。ドイツ語風にすると、D - S - C - H。

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2009年6月30日 (火)

シャイーのマーラー:交響曲全集(2)


MAHLER
THE SYMPHONIES
RICCARDO CHAILLY
ROYAL CONCERTGEBOUW ORCHESTRA
Symphonies No. 1 - 9
RADIO - SYMPHONIE - ORCHESTRA BERLIN
Symphony No. 10

CD 6
交響曲第6番イ短調
1. 第1楽章 25' 35 提示部繰り返し有り
2. 第2楽章 13' 20 スケルツォ
3. 第3楽章 14' 47
CD 7
1. 第4楽章 31' 00

ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
1989年10月録音

マーラーの6番は、私にとって、もともとわけの分からない作品なので、シャイーのわけの分からないマーラー6番は好きになった。第1楽章の冒頭から驚いたのはテンポの遅さ。さらに提示部を繰り返しているので演奏が長い。しかし、私のようなマーラー勉強中の者には、シャイーの丁寧な演奏は合うかも知れない。

第2楽章に、スケルツォを持ってきているのは、普通の楽章の順番とは違うと思って、「マーラー (作曲家別名曲解説ライブラリー)」を見てみたら、この順番が普通でした(<恥ずかしながらそんなことも知らない私であった)。

第1楽章の展開部の終わりあたりで、第5交響曲のアダジエットの音形や第2交響曲の音形などが聞こえる。マーラーという人は、過去の作品の引用が好きな作曲家であるということがわかる(それはブルックナーやショスタコも同様なので今更驚かなくていいですね)。

(シャイー指揮の)第1楽章のコーダは音楽が未整理であるように感じる。そのような欠点が、シャイーのマーラーへの低い評価につながっているのかも...。(シャイーのマーラーにおいて、音楽がうまく整理できていない点は、後日、第5番の感想を書くときに書きます。)

シャイーの第6番は、そのスケールの大きさにおいて、彼の第9番よりも良いと思う。

【追記】マーラー6番のスケルツォの中間あたり(シャイーのでは 10' 26 あたり)で歌劇《カルメン》のパロディのように聞こえる部分があると私は以前から思っていたのだが間違いだろうか。

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2009年6月26日 (金)

シャイーのマーラー:交響曲全集(1)


Chailly


MAHLER
THE SYMPHONIES
RICCARDO CHAILLY
ROYAL CONCERTGEBOUW ORCHESTRA
Symphonies No. 1 - 9
RADIO - SYMPHONIE - ORCHESTRA BERLIN
Symphony No. 10

CD 1
交響曲第1番ニ長調
1. 第1楽章 16' 35
2. 第2楽章 8' 30
3. 第3楽章 11' 02
4. 第4楽章 21' 01

ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
1995年5月録音

シャイーのブルックナー全集がよかったので、マーラー全集も買ってみた。シャイーのマーラー全集はブルックナー全集ほどよくないと、HMV.co.jp のレビューにあった。そこでまず試しに第2番をバラで購入してみたらよかったので、全集を購入した。

結論から言うと、第1番は、第2番ほどよくないと思う。現在のところまだ第1, 2番と第4番の3曲しか聴いてないので早計だが、シャイーのマーラーはブルックナーほどよくないかもかも知れない。

それでも、録音が比較的よく、オケがよいし、ヴァイオリン対向配置などサウンド的には面白いので、この全集は、買って損をしたとは思わない。

もともと、私は、マーラーの第5番以降のシンフォニーは苦手だ。シノーポリの第5番(およびドレスデン・シュターツカペレとの9番)がすごい演奏であることは分かるのだが、マーラー5番については第1, 2楽章の音楽的構造が正直言って私にはまだ理解できていない。それは、いずれスコアを買って勉強しなければならない。

シャイーのマーラー全集は勉強用の教材として、活用できそうだ。この全集は、私のような初心者向きかも知れない。というのもこの全集は、演奏の良し悪しは別にして、バーンスタインやシノーポリ(のようなヘビー(?)な演奏)に比べて、比較的聴きやすい全集かも知れない ... というのが私の第一印象だからだ。私がそう思った理由は、

交響曲第1番第4楽章のテーマの半分以上(あるいはほとんど)は第1楽章によっていることを、シャイーの演奏を聴いて再認識させられたこと。

そのことは、シャイーの演奏が、ある意味見通しよくて、あっさりしていることから来るのかも知れない。

マーラーの交響曲第1番の作曲技術は、彼の第2番以降に比べると弱いと指摘されるが、私は、この交響曲における「第1楽章と第4楽章の密接な関係」を聴くのは大好きだし、第4楽章はかなり巧く書かれていると思う。マーラーの交響曲は第2番であたかも一気に交響曲というジャンルの頂点に上り詰めたが如き印象ゆえに、その(第1番から第2番への)飛躍が、第1番を「過小評価」させていると私は思わくもない。

さてシャイーのマーラー第1番の第4楽章について

せっかく展開部までは、弦のグリッサンドなど適度にねちっこく聴き応えある演奏をしていると思うのだが、16分30秒あたり第533小節(練習番号45番だと思う)の再現部の開始とおぼしきところからフィニッシュまでが、あっさりしているところが弱いと思う【注】。バーンスタイン盤(旧盤)では、この再現部の開始の部分はあたかも指揮者がオケに「ここから再現部だ」と指示しているかのように聞こえるのに対し、シャイーは無造作に最後まで突っ走っているのがよくないし、惜しいと思う。そこがよくないことは、実際にのバーンスタイン旧盤と聴き比べてみるとよくわかると思う。逆から言えば、そこだけがシャイーのマーラー1番の欠点だと言えよう。

ところで、マーラー1番、私のベスト盤として推薦するのは上述のバーンスタイン旧盤(NYP, 1966年録音)だ。ただこれは、全集に入ってるものは、ノイジーで、聞き苦しかった。そしてその全集を私は手放した。現在私が所有するバーンスタイン指揮ニューヨークフィルのマーラー1番は、国内盤(SRCR 2649)である。これにはノイズがない。この盤はよく見ると、DSD Mastering とある。ソニーさんは、US 盤のバーンスタイン指揮マーラー旧全集を性懲りもなくまた安く出しているが、それもまた、多分音質悪いと思うから私は買わない。ソニーさんはバーンスタイン指揮マーラー旧盤(SACD)国内盤を高い値段で出している(商売うまい)。私は第1番以外もその国内盤をそろえたい。なぜなら、それらでないとバーンスタインのマーラー旧盤のよさは聴けないと思うからである。

【注】以前にも書いたが、M. T. トーマスのも、その部分(トーマス盤では、16分12秒)からフィニッシュまでが、面白くないと思う。

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2009年6月18日 (木)

スティーヴン・コヴァセヴィチのベートーヴェン


Kovacevich


Beethoven Piano Sonatas
CD 1
Sonata No. 8 in C minor Op. 13 "Pathétique"
Sonata No. 14 in C sharp minor Op. 27 No. 2 "Moonlight"
Sonata No. 15 in D major Op. 28 "Pastral"
Sonata No. 31 in A major Op. 110
CD 2
Sonata No. 21 in C major Op. 53 "Waldstein"
Sonata No. 23 in F minor Op. 57 "Appassionata"
Sonata No. 32 in C minor Op. 111
CD 3
Sonata No. 17 in D minor Op. 31 No. 2 "Tempest"
Sonata No. 26 in E flat major Op. 81a "Les Adieux"
Sonata No. 29 in B flat major Op. 106 "Hammerklavier"
Stephen Kovacevich
Recorded: 1992 - 2003
EMI

誠に申し訳ないが、HMV.co.jp のユーザーレビューを引用させてもらう。


2008年12月30日
基本的に音楽に対しては真面目な人だと思うが、自らを過去の巨匠達と個別化するのに苦労しているような印象だ。部分部分では主張のあるフレージングをしているのだがよく言えば感性の閃き、悪く言えば思いつきの域を出ていない。また規模の大きな作品になればなるほど(ストコフスキーに絶賛されたという)ペダルワークの違和感が強くなる。彼のやりたいことが最も良く表現されているのはこの中ではOp.111だろう。録音の質は並以下。

上記の評価で間違いないと思う。

たとえば、第15番作品28"Pastral"(田園)の第1楽章提示部の盛り上がる際(第1主題から第2主題への経過と第2主題の後あたり)に「感性の閃き」が聴かれ、ハッとさせられる。再現部の第1主題の盛り上りの部分にもハッとさせられる瞬間はある。しかし、それらの瞬間はベートーヴェンの論理的なソナタ形式を数限りなく弾いた結果生まれた果実ではなく「消去法」の結果生まれた産物に思える。その証拠に、第15番作品28の第1楽章に繰り返し奏されるテーマは「またか」と思わせられるように味気ない【注1】。第2楽章の速めのテンポは、その散漫さを打ち消すためでしかない。これもまた「消去法」である(奏するうちにそうなっちゃったという感じ<洒落です)。

この人の演奏は、全曲聴かなくても、ネタが知れてる。私は上記 CD を購入後、全部聴いたつもりが、第17番《テンペスト》を聴き忘れていた。そこで、最後に第17番を聴いてみたが、聴く前の予想どおりの演奏だった。

スティーヴン・コヴァセヴィチというピアニストを私は生で聴いたことがある。それは、アルゲリッチとのデュオだった。アルゲリッチのピアノは音量が弱くてよく聞こえなかった。コヴァセヴィチのは音がはっきり聞こえた。思うにスティーヴン・コヴァセヴィチというピアニストは、スタインウェイというピアノの音を鳴らす技を持つが、それ以上のピアニストではないという気がする【注2】。デジタル録音によるベートーヴェン全集を探していた私にとって、この商品は、期待してなかったが、やはり期待しなかったことが裏切られることはなかった。

【注1】というか、この人の演奏は、いまどこを演奏しているのか分からなくなる。

【注2】ただし録音が悪いためか、演奏が粗いためかどちらか分からないが、音は汚い。

Amazon.co.jp へのリンク
Beethoven: Favourite Piano Sonatas Stephen Kovacevich

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2009年6月17日 (水)

煮ても焼いても食えない作品 予告編

「煮ても焼いても食えない作品」が3つある。
「煮ても焼いても食えない」とは、良い意味では「その作品に非常な魅力を感じるが(そして多くの演奏を聴き比べするが)その魅力の正体が分からない作品」の意であり、悪い意味では「そもそも、その作品は失敗作ではないかという疑念を抱かされる作品」の意である。それらの作品は下記の共通点を持つ。

1. 長い
2. 最初のテーマが最後に再現される
3. 2. に関連するが「(音楽が)最後に最初のテーマへと回帰するため最初から答えが見えるか、あるいは最初から答えが見える構造になっているので何度も聴いているうちに面白くなくなる」あるいは逆に「言いたいこと(答え)が分からなくなる」

もったいぶらずに書くが、その3作品とは、

1. ゴルトベルク変奏曲
2. 楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー》
3. ブルックナー作曲交響曲第8番ハ短調

これらの作品の共通点は上記3つ以外にもう一つある。

4. 決定盤が見つからない。

ただし、ブルックナーの8番については、決定盤の目星はついている。また、ブル8は、少なくとも失敗作ではないことも分かってきたし、また、その魅力を素直に受け入れることができるようになってきた。そして、あと、もう少しのところでその作品の良さを言葉で言い表せそうである。

それぞれの作品の演奏の聴き比べについては下記のとおり。

1. ゴルトベルク変奏曲(18種類)
私は、ディナースタインイサカーザの演奏が良いと褒めたが、その後、作品に対する考えが変わって、その二つが決定盤であることを確信できなくなった。

2. 楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー》(13種類)
1937年のトスカニーニ以外はどれも良くない。そしてそもそもトスカニーニ盤もまた録音が古すぎて(音質が悪すぎて)、評価不能であると言わざるを得ない。

3. ブルックナー作曲交響曲第8番ハ短調(30種類)
ブル8は良い演奏が多いと思う。むしろこの作品は聴いても聴いても聴き尽くせない。良い意味で、食い尽くせない作品だと思う。(つづく)

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2009年6月15日 (月)

パメラ・フランクのベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ全集


Beethoven_frank_2


Beethoven
The 10 Sonatas for Violin and Piano
Pamela Frank, Violin
Claude Frank, Piano
CD 1
Sonata No. 9 Op. 47 ("Kreutzer")
Sonata No. 1 Op. 12, No. 1
Recorded January, August 1992 New York
CD 2
Sonata No. 6 Op. 30, No. 1
Sonata No. 7 Op. 30, No. 2
Sonata No. 8 Op. 30, No. 3
Recorded August 1992, June 1995 New York
CD 3
Sonata No. 2 Op. 12, No. 2
Sonata No. 3 Op. 12, No. 3
Sonata No. 4 Op. 23
Recorded December 1995 New York
CD 4
Sonata No. 10 Op. 96
Sonata No. 5 Op. 44 ("Spring")
Recorded December 1995 New York
2004 Music & Arts USA

この父娘は、CD 1 の《クロイツェル》を最初に録音したのだと思うが、そのテンションが他の作品に保たれていると思う。《クロイツェル》では、クロード・フランクのピアノが良い。その他の曲も「ヴァイオリン伴奏付きソナタ」のようなスタイルのもの(Nos. 1 - 3)は良い演奏だと思う。《春》も良い。Nos. 6 - 8 も悪くない(ということはほとんどの曲は良い)。ただ、第10番作品96は《クロイツェル》ほどは良くない。すなわち、作品96はパメラ・フランクの力不足が感じられる(作品96は、ベートーヴェンの Vn ソナタの中で私が一番好きな曲なのに、良い演奏になかなかお目にかかれない。いま思い浮かぶ良い演奏は私の記憶でオイストラフのみ)。

パメラ・フランクとクロード・フランクのベートーヴェン:Vn ソナタ全集の良さは、ありきたりな表現で言えば「奇をてらわない演奏であること」だと思う。ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集(1971)を録音した実績を持つクロードはさすがに巧い。そして、この演奏の良いところは第一に父クロード娘パメラの息が合っていること。「息が合う」という言い方もありきたりだが、それは本当に聴いていて非常に心地よいほど息が合っている。もし「この二人が父娘であることを知らない人」がこの録音を聴いたと仮定した場合、二人が親子であることを見破るんじゃないかと思わせるほどだ。

ベートーヴェンの音楽は、楽譜のとおりに演奏すること自体難しいが、楽譜に書いてないことを演奏することを要求されることを、私は最近ベートーヴェンのピアノ・ソナタを弾いてみて気づいた。クロードの演奏は、まさにそのことを感じさせてくれる「ベートーヴェン弾き」の技だ思う。だがこの全集において、パメラの技巧と表現力の不足をクロードが補ったにしても、それは当然限界がある。しかし、アルゲリッチとクレーメルでさえ、良い演奏をできなかったし ... ムターのはゲテモノ ... シェリング&ヘブラーの名コンビでも面白くない ... それらのベートーヴェン:Vn ソナタ全集を私はあまり聴きたいと思わないのに対し、パメラのは「繰り返し聞きたくなる」「随所に巧いと思わせる」瞬間が存在することは、完成度の不足を何かが補っていると思う。この演奏の特徴は、しつこいがありきたりに言って(異論もあると思うが)自然体だ。すなわち、

Amazon.co.jp におけるムターの「ベートーヴェン:Vn ソナタ全集」のでかだんさんのレヴューを私は大変気に入っているが、パメラ&クロード・フランクのベートーヴェンはムターの正反対の演奏だと考えて間違いないと私は思っている【注】。でかだんさんには悪いが、非常に良いレヴューなので全文引用させてもらいます。m(._.)mお許しを…


たしかに今日、ベートーヴェンを演奏するのは難しいことである。ここに並んでいる10曲のソナタのどれもが、これまで数え切れないほどの演奏家によって録音され、聴かれてきた。現代の演奏家は、そうした耳ダコの旋律の退屈さから、何とかして逃れようとする。ムター氏のテンポは激しく加速と減速を繰り返し、また、誰も予想だにしなかったところでアクセントをつけてみせる。たしかにそんな演奏は今までなかった。しかしただひたすらビザールな斬新さに逃避した演奏の後に残るのは、漠としたむなしさである。それは何故なのか。多くの演奏家たちに、このCDを聴いて考えてもらいたい。

【注】パメラ・フランクにも癖や個性がないわけではない。あとは好みの問題 ... というか、この父娘の演奏は、父クロードの好サポートがなければ成り立たなかっただろう。


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2009年6月12日 (金)

2009年前半に購入したCDベスト10

自分のコレクションを整理するために、2009年前半に私が購入したCDのうち、ベスト6を選んでみました(順位なし)。ただし、録音または発売が比較的新しいものからです。

J.S.バッハ,"ヴァイオリン協奏曲BWV1041-43、オーボエとヴァイオリンのための協奏曲BWV1060(2008年録音)",Julia Fischer,Andrey Rubtsov,Academy of St Martin in the Fields

J.S.バッハ,アリア集(2008年),オッター,Concerto Copenhagen,Lars Ulrik Mortensen

J.S.バッハ,"無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ(2007,08年)",ムローヴァ

ベートーヴェン,"ピアノ・ソナタNos.4,7,23(2005年)",Angela Hewitt

シューベルト,歌曲集「冬の旅」(2003年),シェーファー,Eric Schneider

マーラー,交響曲No.2(2006年),David Zinman,Tonhalle Orchestra Zurich


その他(録音が新しくないもの)
マーラー,交響曲No.9(1997年)死と変容(2001年),シノーポリ,SKD

J.S.バッハ,平均律クラヴィーア曲集 第1巻(1998-99年),Evgeni Koroliov

モーツァルト,"ヴァイオリン協奏曲Nos.1-5、From the Serenade K.250(1997,99年)",Pamela Frank,David Zinman,Tonhalle Orchestra Zurich

Martha Argerich, The Collection, Vol. 1: The Solo Recordings


以上を見て我思うこと
従来購入したものと同じ作曲家、作品であること。新しい分野を開拓できない。代り映えしない。

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2009年5月29日 (金)

クナッパーツブッシュの《バラの騎士》


Rosenkavalier


RICHARD STRAUSS
DER ROSENKAVALIER
Hans Knappertsbusch
Wiener Staatsoper
Die Feldmarschallin: Maria Reining
Der Baron Ochs: Kurt Böhme
Octavian: Sena Jurinac
Faninal: Alfred Poell
Sophie: Hilde Güden
Recorded on 16 November 1955
RCA

いまはもうないが、以前《バラの騎士》の音源について詳しく比較し論じたサイトが存在した。そのサイトで、クナッパーツブッシュの《バラの騎士》が絶賛されていた。私は随分前にクナの《バラの騎士》を聴いたときに、第2幕で、ゾフィーがオックスからいじめられて、べそをかいている場面や、幕切れでオックスが酔いつぶれている場面が、リアルで味があるという印象しかなかったが、久しぶりに聴き直してみると、この《バラの騎士》はポイント高いと思う。

Wikipedia に、うそかまことか下記の記述がある


「クナッパーツブッシュは大変な練習嫌いで通っていたが、たとえ練習なしの本番でも、自分の意のままにオーケストラを操ることができる類稀なる指揮者であった。(中略)1955年に再建されたウィーン国立歌劇場の再開記念公演で、リヒャルト・シュトラウスの楽劇『薔薇の騎士』を上演することになった時には、練習場所のアン・デア・ウィーン劇場でメンバーに向かって「あなたがたはこの作品をよく知っています。私もよく知っています。それでは何のために練習しますか」と言って帰ってしまった。この本番のライヴ録音はCD化されているが、『薔薇の騎士』の名盤の一つに数えられている。」


この録音が、一発録りの無編集録音だとすれば、クナッパーツブッシュという人は、劇場という空間、環境のみならず、本当に「演劇」を「よく知っていた」人だと思う。《バラの騎士》は、多様な解釈を許す演劇だと思う。たとえば、マルシャリンの夫は性的不能者だったのではないか...とか、それとも反対に夫が精力絶倫だったがゆえに、彼女はセックスの下手なオクタヴィアンをつばめにしているのかな...とか...マルシャリンの夫はもしかして(いまの年齢で言えば)80才ぐらいのご老人...とか、その他諸々...。クナの《バラの騎士》のスタイルは、そんな、自由な解釈を許す演奏だと思う。そして、それは彼の人柄のあらわれだろう。その点にこの録音の価値があると思う。

【HMV.co.jpへのリンク】
Der Rosenkavalier: Knappertsbusch / Vienna State Opera('55.11.16)

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2009年5月25日 (月)

クリスティーネ・シェーファーの冬の旅


FRANZ SCHUBERT
WINTERREISE D911
CHRISTINE SCHÄFER soprano
ERIC SCHNEIDER piano
7 - 9 / 11 / 2003
Onyx

クリスティーネ・シェーファーという歌手は、前から好きだったので、彼女が《冬の旅》を、どういうふうに歌っているか興味があって購入してみたが、これは、とても気に入ってしまった。先入観を与えないように、簡単に書くが、これは本来、男性歌手が歌う歌詞を女性が歌っているわけだが、言葉や詩の意味を少し比喩的に捕らえ直すことができてよかった。そして、おそらくシェーファーが意図したのとは違って「人生旅のごとし」「行きつくところは死」というテーマがぼやけて「明日のことは明日考えよう」という楽天的な気分にさせてくれた。つまり、彼女の歌唱は本来、この歌曲の持つ暗さを和らげていると思う。あと、F. ディースカウのは、途中で退屈するが、シェーファーのは、後半が良くて最後まで退屈しないのが良い。

ERIC SCHNEIDER のピアノ伴奏はうまいし、シェーファーの歌唱によくあっている。

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2009年5月14日 (木)

モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲聴き比べ(8)


Frank

"協奏交響曲K364、ヴァイオリン協奏曲Nos.1-5、アダージョK261、ロンドK373(1961,62,64,67年)",Arthur Grumiaux,コリン・デイヴィス

"協奏交響曲K364、ヴァイオリン協奏曲Nos.1-5、アダージョK261、ロンドK373、2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネ ハ長調K190(1961-76年)",スターン,ジョージ・セルほか

"ヴァイオリン協奏曲Nos.1-5、アダージョK261、ロンドK269,373(1968年)",シュナイダーハン,Bpo

"ヴァイオリン協奏曲Nos.1-5、ロンドK373(1970-71年)",オイストラフ,Bpo

"協奏交響曲K364、ヴァイオリン協奏曲Nos.1-7、アダージョK261、ロンドK269,373、2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネ ハ長調K190(1972-73年)",スーク,プラハ室内

"ヴァイオリン協奏曲Nos.1-5、アダージョK261、ロンドK269,373(1982,85年)",パールマン,レヴァイン,Vpo

"協奏交響曲K364、ヴァイオリン協奏曲Nos.1-5(1983,84,87年)",クレーメル,Nikolaus Harnoncourt,Vpo

"ヴァイオリン協奏曲Nos.1-5、アダージョK261、ロンドK269,373(1997年)",Giuliano Carmignola,Carlo de Martini,Il Quartettone

"ヴァイオリン協奏曲Nos.1-5、From the Serenade K.250(1997,99年)",Pamela Frank,David Zinman,Tonhalle Orchestra Zurich

"協奏交響曲K364、ヴァイオリン協奏曲Nos.1-5(2000-05年)",Thomas Zehetmair,Frans Brüggen,Orchestra of the Eighteenth Century

"協奏交響曲K364、ヴァイオリン協奏曲Nos.1-5(2005年)",ムター,Lpo

"協奏交響曲K364、ヴァイオリン協奏曲Nos.1-5(2007年)",Giuliano Carmignola,Abbado,Orchestra Mozart

モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲聴き比べ(5)で私は、

「1番はスターン、スーク、クレーメル。2番はムター。3番はスターン、パールマン。4番はムター、スターン。5番はデュメイがよい。平均的にはグリュミオーがよい。したがって今回聴き比べた11種の中でお薦めは、無難なグリュミオー。新しい録音では、ムター盤を薦めることができる(ただし、第3番に違和感を感じなければ)」

という中途半端な結論しか出せなかったので、さらに、

Pamela Frank,David Zinman,Tonhalle Orchestra Zurich
Thomas Zehetmair,Frans Brüggen,Orchestra of the Eighteenth Century
Giuliano Carmignola,Abbado,Orchestra Mozart

の3種類を買い、聴き比べ、上記12種類のモーツァルト:ヴァイオリン協奏曲全曲集の BEST を見つけようとしたところ、

Pamela Frank,David Zinman & Tonhalle Orchestra Zurich

が一番良かった。

Pamela Frank,David Zinman のどこが良いかというと、それはもう「安いので買って聴いて下さい」としか言いようがない。かようなコメントはまったく無意味であり、読者に「こんなブログ、二度と読むか!」と叱られそう。だが私は、パメラの良さを、スコアを示しながら指摘しようとしたが、できなかったのだ。すなわち彼女の演奏は、これまで聴いたモーツァルトのなかで最も私の嗜好に合っているし、すべからく私の嗜好に合っているのに、それをうまく説明できないのだ。

この人は技巧は持たない。美音も持たない。HMV のレビューにあるとおり「線はやや細目ですが厚い化粧に頼らずさわやかな演奏」

パメラとジンマンの間には、ある種の緊張感があると思う。これは私の憶測(というより半ば創作)だが、二人の間に以下のような取引があったのではなかろうか。

パメラ・フランクというヴァイオリニストは、意外に個性的だ。ジンマンは、このじゃじゃ馬をうまく馴らしていると思う。すなわち二人の個性は違う方向を向いていると思う。この二人は互いに譲歩しあっていると思う。ジンマンは、自らのカデンツァを弾いてもらう代わりに、全面的に音楽的にパメラのモーツァルトの解釈を受け入れ、あるいはそれに合わせた。他方パメラは、ジンマンが書いたカデンツァを演奏することで、ジンマンのペースに、うまく乗せられているという気がする(モーツァルトのVn協奏曲において、カデンツァは極めて重要であり作品を支配する)。

パメラが、カデンツァを弾く間、オケが沈黙する。その沈黙は、単なる休止ではなく、パメラに「音楽の流れを壊すなよ」と、無言の圧力に思える。Tonhalle Orchestra にとっては、ジンマンとパメラの取引は、指揮者と独奏者の勝手な取引であり「我関せず」と、この二人の取引の結果が、うまく行こうが行くまいが責任ない。Tonhalle Orchestra の演奏は「そんな取引は勝手にやってくれ、おれたちも勝手にやる」という演奏に聞こえる。Tonhalle Orchestra の演奏に、ジンマンの個性が聴けない。ところが、Tonhalle Orchestra は、もしかしたら自主的に、主体的に、パメラに、合わせている。Tonhalle Orchestra は、ジンマンよりも、パメラに指揮(?)されている...とも思える。

パメラのカンタービレの美しさ、間の取り方、おかずの入れ方【注】は、Tonhalle の演奏と絶妙に調和している。それは「完璧である」とは断言できないが私には心地よい。

誰が誰を操っているのかわからない。指揮者、独奏者、オーケストラの隠された駆け引きが、この演奏の魅力だと思う。

それに対し、Giuliano Carmignola,Abbado,Orchestra Mozart の演奏には、上記の緊張感はまったくない。あろうはずがない。アバドが創設しカルミニョーラをコンサートマスターに置くユースオーケストラに、上記のような見えない駆け引きなど聴けようはずがない。すでに指摘したことだが、モーツァルトのVn協奏曲全5曲は(モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲聴き比べ(1)で指摘したとおり)集中的に書かれた作品群であるにもかかわらず、それぞれの個性が際立ち、各曲のオーケストレーションに深化が見える。それなのに、カルミニョーラ&アバド盤では、オケの主体性は存在しない。オケの弱さは、モーツァルトのVn協奏曲を演奏する際、致命的だ。

【注】一箇所スコアを示し指摘する。第5番(K219)第1楽章、ヴァイオリンソロによる提示部の序奏(midi)終わりのパメラの弾き方に注意。

K219_1_2

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2009年4月16日 (木)

SACD の利点

「ヒューイットの平均律新盤」で書いたように、当該CDや、ディナースタインのゴルトベルク第29変奏で、私のSACDプレーヤはノイズを拾う。そのノイズは同じ性質のものであり、原因は音盤にあると思う。同様のノイズは、バーンスタインのマーラー全集旧盤輸入盤(NYP)でも聞かれた。

ようやく気がついたことは、SACD盤では、その手のノイズにお目にかかったことはないということ。そしていま、SACD の利点はそこにあると感じる。

ちなみに、私の環境では、SACD Hybrid 盤を「marantz sa - 11s1」および「sa - 7s1」の「SACDモード」と「CDモード」とで聴き比べた場合、その差異を私は認識できない(ヘッドフォンアンプ 東京サウンド Valve X SE、AKG K-501)。その理由は、私の耳が悪いためなのか、環境のせいなのか、わからないが、論理的に言って、もし、SACD Hybrid 盤の「SACDモード」と「CDモード」の音質に差異がないと前提すれば、SACD盤を、SACD プレーヤで聴く利点はなにかと考えた時、その利点は、さしあたって上記ノイズがない音を聴けることだと思う。

繰り返すが、SACD 層には、固有の音質の優秀性が存在するなら、SACD Hybrid 盤において「SACDモード」と「CDモード」の差異が明らかなはず。ところが、私にはそれが分からない。もともと、SACD Hybrid 盤に記録されている音は、録音自体が優秀なのではないかと思う(original DSD Recording)。そして、その音盤を、SACDプレーヤではない(普通の)CDプレーヤで聴いたとしても、その音は(余程耳が良い人でないとわからないほど)SACDプレーヤ再生音並に良いのではないかと思う。

よって、ノイズの有無が、SACD の利点。

【まとめ】
下記2点を前提すれば、

1. SACD Hybrid 盤を「SACDモード」と「CDモード」で聴き比べて差異がない。
2. SACD Hybrid 盤を、SACDプレーヤの「CDモード」で聴くことと(普通の)CDプレーヤで聴くのは同じことである。

下記のことが言えると思う。

「SACD Hybrid 盤をSACDプレーヤで聴く利点」は無し。(つまり、SACD Hybrid 盤は普通のCDプレーヤで聴いても音質は劣らない。ただし、5.1チャンネルについてはノーコメント)

【追記】
SACD 盤に「ヒューイットの平均律新盤」のようなノイズが発生するものがあれば、話は別だが....。
そういう音盤を発見したときはまた報告します。

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2009年4月 9日 (木)

トスカニーニのマイスタージンガー


Toscanini


Hans Sachs: Hans Hermann Nissen
Walter von Stolzing: Henk Noort
Eva: Maria Reining
Sixtus Beckmesser: Herman Wiedemann
Veit Pogner: Herbert Alsen
David: Richard Sallaba
Magdalene: Kerstin Thorborg
Chor der Wiener Staatsoper, Wiener Philharmoniker
Arturo Toscanini, conductor
Recorded at the Salzburg Festival, August 1937
(C) 2004 Membran International GmbH

1937年録音なので、確かに聞き苦しいが、なんとか鑑賞にたえる。それよりも、こんな録音が保存されていたことに驚かされる。しかも、フルトヴェングラー盤のような欠落もなし。

トスカニーニの指揮は、1930年代ウィーンの演奏様式をよく伝える。弦はビブラートひかえ気味で、弦、管、歌唱、いずれも輪郭がはっきりしている。それと、トスカニーニという人は、意外にテンポ・ルバートしていたことが分かる。

上記歌手陣の充実も聞き物である。とくに、ザックス役のハンス・ヘルマン・ニッセンは、のちの名だたる歌手たちも超えることができなかったのではないかと思えるほど良い。あと、マリア・ライニングも良い。

トスカニーニは、さすがにオペラ指揮者出身だけあって、音楽の進め方・運び方・作り方・歌手の歌唱のさせ方がうまいと思う。録音が良ければ、これは、決定的《マイスタージンガー》になっていたかも知れない。

【HMV.co.jpへのリンク】
『ニュルンベルクのマイスタージンガー』 Toscanini&ウィーン・フィル、Nissen、Noort、Reining

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2009年4月 3日 (金)

ヒューイットの平均律新盤


Hewitt


BACH
THE WELL - TEMPERED CLAVIER
ANGELA HEWITT
Recorded in Jesus - Christus - Kirche, Berlin, on 8 - 16 September 2008

まだ、第2巻しか聴いてないが、旧盤(1997 - 99年録音)の方が良かったと思う。

まず、私が買ったプレスにはノイズがある。

私のプレーヤ(marantz sa - 11s1 および sa - 7s1)はよくノイズを拾うので、これは(ノイズの原因は)不良品であるからではないと思う(たとえば、ディナースタインのゴルトベルク第29変奏にもノイズが聞こえる)。

ヒューイットの第2巻旧盤には、聞いても聞いても聞き尽くせない自然体があったが、この新盤は、変なアーティキュレーションなど、癖があるのが気に入らない。

FAZIOLI を弾いているのではなく、弾かれているという感じがする。たったの9日間で平均律全巻を録音したのは、やっぱり無理だったと思う。

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2009年4月 1日 (水)

ムローヴァの無伴奏新盤


Mullova


BACH
6 SOLO SONATAS & PARTITAS
VIKTORIA MULLOVA
(1750 G. B.GUADAGNINI, GUT STRINGS; BAROQUE BOW W. BARBIERO) A=415
RECORDED 2007/8
ONYX

ヒラリー・ハーンを追っかける(5)でも書いた通り、私は、バッハの「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ」をあまり好まない。だいたい、この作品の日本における呼称が気に入らない。上記のムローヴァのジャケットに書いてあるように「ヴァイオリン・ソロのためのソナタと組曲、計6つ」でよい。「無伴奏」だの「パルティータ」だのという言葉が、この作品に難解なイメージを与えていると思う(無伴奏チェロ組曲も6チェロ組曲でいい。ついでに、平均律クラヴィーア曲集も「ちゃんと調律されたクラヴィーアのための24の前奏曲とフーガ」でよかろうに、平均律という難解な言葉が使われる。そのような難しい言い回しや呼称は、バッハのみならずクラシック音楽全般への親しみにくさ、また「クラシック音楽愛好家はお高くとまり排他的で特権階級の意識がある」という悪イメージにつながりかねない...考え過ぎか...)。

ムローヴァの 6 SOLO SONATAS & PARTITAS は、私にとって、とうとう見つけた決定盤だ。彼女の演奏は、私にとって SOLO SONATAS & PARTITAS 計6曲を一気に聴ける唯一の演奏だ。

彼女の 6 SOLO SONATAS & PARTITAS は、ヴァイオリンの起源を考えさせるほどの名演奏だと思う。そもそも、私がヴァイオリンという楽器を好きな理由は、たった4本の弦で、モダンピアノに劣らぬ表現力を持つこと(私は、20世紀最大のヴァイオリニストは、ダヴィッド・オイストラフだと思っているが、彼の演奏はヴァイオリンという楽器の表現力の極限だと思っている)。ヴァイオリンの弦が4本しかないというのは、弦の数が三味線より多くギターより少ないということしか意味しない。すなわち「弦が4本」は、むしろ「ヴァイオリンはちょうどいい弦の本数の楽器」と言えるだけかも知れない。しかしもうひとつ、私が驚嘆すること、私が昔から思っていたこと。それは、G より低い音が出せない楽器という大きな制限。それは、モダンピアノの音域に比すると、とてつもない制限だと思う。たとえヴァイオリンは高音域の美しさで、その音域の狭さをカバーしてるとしても、制限された音域というのは、聴く者に同じ音域を行ったり来たりしているという(単調で退屈な)印象を与えかねない。特にバッハの(使いたくない呼称だが)《無伴奏》の演奏に私はそれを感じる。

そのかわり、ヴァイオリンは音を持続させることができる。弓が無限に長ければ、無限に持続させることができる。ピアノ、チェンバロは、鍵盤を押している間は音を持続するが、発音後の音の物理量は減衰する。オルガンは、音の減衰はないが、発音した音を変化させることはできない。ピアノ、チェンバロも単純に考えて(原則的に)発音した音を変化させることはできない。すなわち、ピアノ、チェンバロ、オルガンは、鍵盤というスイッチを押すことで(操作することで)音を表現する楽器(ピアノの場合、それに打楽器的物理的効果が付加する)であるが、ヴァイオリンは違う。ヴァイオリンは発音後も鍵盤楽器より相対的に複雑な音の変化をさせることができる楽器だと思う。

話が面白くなくなってきた。

要は、ムローヴァの 6 SOLO SONATAS & PARTITAS は、むしろ「発音した音を変化させない」ことによって成功しているように私は思う。私は、バッハの《無伴奏》という作品を好まないので、どの曲のどの部分がそうであるかを指摘できないが、ムローヴァは音が発音された瞬間において勝負しているという感じがする。バロック奏法は、ヴィブラートしない。さらに、重音(和音)の効果もモダンヴァイオリンより弱く感じる。「弱い」というより「目立たない」「自然」と言う方が良いかも知れない(バロックヴァイオリンの弓は張りがゆるいからである)。私は彼女の無伴奏の単旋律的奏法が気に入っている【注】。さらにバロックヴァイオリンのガット弦の発音も金属弦に比べれば、強弱の表現に相対的に弱く繊細である(モダンヴァイオリンで、無伴奏を弾くと金属弦のキンキンした音がうるさい)。それらのバロックヴァイオリンの長所を生かすことによって、ムローヴァは、6 SOLO SONATAS & PARTITAS の持つ本来の面白さを聴かせていると思う。

私にとって、6 SOLO SONATAS & PARTITAS は聴いて楽しい音楽であれば良い。難解さはまったくいらない。265小節のシャコンヌは弾こうと思えば誰にでも弾けて「弾き手」さえ身近に存在すれば、聴きたいときに生演奏で聴けるお茶漬けのような音楽であっていいと思う。354小節(ソナタ第3番第2楽章)のフーガも同様である。

最後に、ムローヴァの 6 SOLO SONATAS & PARTITAS を聴きながら私が思い出した文章(ヴァイオリンの起源に関する)を引用する。


 ヴァイオリンのような弓で弾く弦楽器は、ヨーロッパの民族楽器にもいろいろあります。たとえばアイルランドでは古くから(ケルト起源といわれます)ジグjigという複合拍子(三連符リズム)のダンスがありますが、これは現在ではヴァイオリンで伴奏されます。しかしおそらく古くは民族的な楽器を用いていたのであり、やがてヴァイオリンで代用されるようになったと考えられます。

 このジグは現代アイルランドのバンド、アルタンAltanのCDなどで聴くことができます。

 またこのダンスはアイルランド系アメリカ人の文化にも見られ、開拓時代を舞台としたドラマ『大草原の小さな家』でも、父親が弾くヴァイオリンに合わせてジグを踊るシーンがありました(ということはあの家族はアイルランドからの移民ということでしょうか)。

 今回話題になったストリートヴァイオリニストがどういう背景の人かは知りませんが、民族音楽としてのヴァイオリン弾き(フィドラー)の伝統もあるわけです。

 ちなみにヴァイオリンは1600年頃にイタリアで登場しますが、弓で弾く弦楽器は中近東のラバーブがスペイン経由でヨーロッパに伝わって中世のレベックとなったものや、クルタル、ヴィオール属などいくつかの系統があります。

 またバッハの組曲のジーグgigueは前述のアイルランド系のジグがフランスの宮廷舞踏となり、さらにヨーロッパに広まったもののようです。

 ドイツ語ではヴァイオリンのことをガイゲGeigeと呼ぶことがありますが、これもgigueとの関連が考えられる名称です。

 さらにこのジグは、シーラ・ナ・ギグ Sheila-na-gigというケルト系の女神との関連も考えられそうです。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/sheila.html

 ところでヴァイオリンといえば、最近は、よくモンティの《チャルダッシュ》の後半の速いところを耳にしますね。チャルダッシュはロマ系の舞曲で、どちらかというと東ヨーロッパの大衆的な伝統のようです。今ではヴァイオリンで演奏されますが、もともとはハンガリーのガドゥルカのような民族楽器で演奏していたのかもしれません。

http://www.youtube.com/watch?v=L3fYZDqb7qw&feature=PlayList&p=FECB20C058B1E459&index=0&playnext=1

osamu sakazaki 坂崎 紀
faculty of music, seitoku univ.

P.S. 私の第一印象で、ムローヴァのソナタ第1番第1楽章を聴いて、ロマ的だと思ったのは事実です。

【注】私は彼女の無伴奏の単旋律的奏法も気に入っている。単音と和音の発音のさせ方、ブレンドのさせ方が巧いので、和音がうるさくない。

【追記】同じバロックヴァイオリンによる《無伴奏》でも、Rachel Podger のは、モダン楽器の演奏とあまり変わらないという印象で、ピンと来ませんでした。

【HMV.co.jpへのリンク】
無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ全曲 ムローヴァ(2CD)

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2009年3月27日 (金)

イサカーゼのゴルトベルク


Issakadze


BACH
GOLDBERG-VARIATIONEN
IRMA ISSAKADZE
OEHMS
2004年録音

この《ゴルトベルク》を、私はえらく安く買った気がするが、いまは、値が上がっている。値段が上がったということは、演奏が高く評価されたということだろうか。それとも、単にレアな商品であるからだろうか。値段で、演奏を評価するのは意味ないが、私は、この《ゴルトベルク》が気に入っている。

この人の演奏は、装飾音やリズム、声の発声の仕方など、技術的にうまいのかどうか分からない。ただ「グールドと似ている」という視点による評価はやめて欲しい。グールドの《ゴルトベルク》は、数あるモダンピアノによる《ゴルトベルク》の演奏例の一つに過ぎないと思う。その後に、モダンピアノによる《ゴルトベルク》は多くの録音がなされ、そして、それらのなかに、グールドを超えるものはあると思う。だから、グールドの《ゴルトベルク》をモデルにするのは、もう古い考えだと思う。

イサカーゼの《ゴルトベルク》は、グールドの解釈に似ているが、たとえそうであるとしても、それは偶然だろう。繰り返すが、たとえイサカーゼの《ゴルトベルク》がグールドのに似てるとしても、その理由の一つは、使っているピアノの音色が似ているからだと思う。イサカーゼが弾いているピアノは、Shigeru Kawai SK7 である。このピアノがどういうピアノか知らないが、音を聞く限り、その音色は、軽く明るく美しい。そして、鍵盤のタッチが軽いように聞こえる。軽いにもかかわらず美しい音色はグールドが好んだ音色である。

私は、イサカーゼのほうが、グールドより声の発音のさせ方がうまいと思う。この人の《ゴルトベルク》は、ヘッドフォンで聴くと、左チャンネルに右手、右チャンネルに左手が録音されている効果が面白い。右チャンネルの左手がほぼ完全に左チャンネルの右手と分離して聞こえる。さらに、左チャンネルの右手の2声もよく聞こえる。しかしながら、それでも技巧的に巧いと思えないのが不思議であり、面白い。

ディナースタインのがムードで聴かせた《ゴルトベルク》だとすれば、イサカーゼのは各変奏曲の性格をよく伝える演奏だと思う。たとえば第13変奏の、のどかさは効果的だと思う。ただし、後半は少しだれる。彼女は(多分)全変奏曲をリピートしている。演奏時間は、CD 2枚で合計85分。

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2009年3月 6日 (金)

ゲルギエフのマーラー2番


Gergiev


Mahler Symphony No. 2
Adagio from Symphony No. 10
Valery Gergiev
London Symphony Orchestra
Recorded live April 2008 and June 2008 at the Barbican, London


ゲルギエフのマーラー1番を褒めすぎたので、訂正しなければならない。第2番において、ゲルギエフは作品の持つ悲愴さや深刻さを表現し得てないような気がする。第1楽章だけ聞いてもそれを感じる。マーラー独特の複雑なポリフォニーや対位法、動機の関連性を表現し得てないように思う(その点は、交響曲第1番では成功していたが、第2番では失敗しているように思う)。いまの世の中は、不安であり、先が見えない。だからこそ、この作品が持つ「死を克服する」というテーマが求められよう。ゲルギエフのマーラー2番は、たしかに聴きやすい。しかし、第2番の持つ深刻なテーマを表現するに、彼の表現は軽い。たとえば、第1楽章展開部(ゲルギエフ盤では CD1 の 13' 05 あたり)に現れる下記主題(第5楽章で現れる重要主題、midi)の表現が弱いと思う。不安なご時世にあって、リスナーは、せめてクラシック音楽だけには、エンターテインメントを求めたいとすれば、ゲルギエフの2番の軽さは向いているかも知れない。しかし、エンターテインメントのみを求める人は、そもそも、マーラーの2番を聴かないであろう。以上主観的な評価になってしまったが、ゲルギエフのマーラー1番を褒めすぎたので...

Auferstehung_1_1

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2009年2月28日 (土)

ディナースタインのベルリン・コンサート


Dinnerstein


Simone Dinnerstein
The Berlin Concert
Johann Sebastian Bach
French Suite No. 5 in G major, BWV 816 [18' 30]
Philip Lasser (b. 1963)
Twelve Variations on a Chorale by J. S. Bach [22' 21]
Ludwig van Beethoven
Piano Sonata No. 32 in C minor, Op. 111 [28' 08]
Encore:
Johann Sebastian Bach
Goldberg Variations, BWV 988
Variation 13 [5' 24]
Recorded live at the Berlin Philharmonie,
November 22, 2007

結論からいうと、ベートーヴェンが一番良い。

フランス組曲第5番は、クーラントの右手と左手のおかっけっこが良いが、サラバンドはピリス Maria Joao Pires と同じ過ちをおかしていると思う。すなわちサラバンドのリズム感がない。ブーレーのリズムも悪い。ジーグの3声のフガートでなんとか持ち直している。

私の持論は、フランス組曲は左手が右手と対等でなければならないということ。理由は以下。

いうまでもなく、フランス組曲はもともと、チェンバロのために書かれた作品なのである。チェンバロはモダン・ピアノより音の減衰が速く、音量も小さく、また鍵盤も軽い。したがって、バッハは、クラヴィーア曲に多くの音符を書き込んだ。装飾音も多いし。

そして、チェンバロは通奏低音のために利用されることが多かった。しかし、バッハは「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ BWV 1014 - 1019」において、そうしたように、チェンバロパートを、和音のみを表す数字で書かず、声を与えた。しかも右手と左手それぞれ一つの声を与えた。

私は、フランス組曲も、上記と同じ理屈で書かれていると思う。左手は右手の伴奏にとどまっていないと思う。左手は声を持ち、そして、さらにいえば、右手と違う人が弾いてるように聞こえてもよいと思う。上記「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ BWV 1014 - 1019」では、Vn パートとチェンバロ・パート2声の合計3声3人だとすれば、フランス組曲は、2声2人というふうに...。そして、モダン・ピアノによるフランス組曲の演奏で、上記観点において成功しているのは、私が知るかぎり2人しかいない。グールドとコロリオフ Evgeni Koroliov だ。ヒューイットは失敗していると思う。ディナースタインも失敗しているといっていいだろう。

2曲目のPhilip Lasser (1963年生まれ) Twelve Variations on a Chorale by J. S. Bach は、現代作品にもかかわらず、19世紀のロマン派みたいな曲で全然面白くないので感想無し。

3曲目のベートーヴェン、最後のピアノ・ソナタ作品111

私は最初、ディナースタインには、この難しい曲の演奏は技巧的に無理だと思っていた。しかし、その先入観は吹き飛ばされた。ゴルトベルクの難しいフレーズを見事に弾きこなした彼女は、ベートーヴェンのハ短調作品111の演奏を、これまた見事に弾きこなしている。

第1楽章ので出しからしてユニーク。序奏の第11小節(ディナースタインの演奏で track21 の 1' 17 あたり)のスタッカートとスタッカティッシモがついた4つの和音(クレッセンドでピアニッシモからフォルテになるところ)の強調の仕方がユニークで強いインパクトを私に与えた。それだけで、この演奏に吸い込まれてしまった。第2主題への入りは美しい。フーガもうまい。「女性ピアニストで、これだけ豪快に弾いた人は他にいるだろうか」と思わせる。(いまどき女性ピアニストと男性ピアニストを区別するのは時代遅れだが)男性ピアニストでも、こんな豪快な演奏はあまり聴いたことがない(たとえばポゴレリチのは印象薄いなあ)。そして、このライヴ録音は音がいいので、スタインウェイならではの抜群の音響効果が最大限聴けるといって、よいだろう。

そして、第2楽章

変奏曲の最後の最後まで、クライマックスをお預けにするような演出は、私の嗜好に合う。演奏後、しばらくしてから拍手が起きる。聴衆の受けたインパクトが容易に想像できる。

ディナースタインは、変奏曲と相性が良いということか。

彼女は、バッハの組曲系では失敗し、ベートーヴェンの変奏曲付きピアノ・ソナタで成功していると思う。このアルバムを聴くと、もともと、彼女がゴルトベルク変奏曲で成功した人であることをリスナーは再確認すると思う。

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2009年2月27日 (金)

藤原由紀乃の《ゴルトベルク》


Yukino


Yukino Fujiwara
J. S. BACH
Goldberg - Variationen BWV 988
Date of Recording: Dec. 19 - 21, 2007
Produced by Yukino Fujiwara

藤原由紀乃の《ゴルトベルク》をスコアを見ながら聴くと、この作品が、いかに複雑な曲であるかがわかる。

3つの声が絡み合い交叉する。本来は2段鍵盤でないと弾けない曲を藤原が巧みに弾きこなしていることもわかる。それらの変奏曲は、後期のベートーヴェンを思わせるものもあれば、バッハの平均律を思い起こさせるものもある。

しかし、録音が気に入らない。こもった音にはいささか閉口する。Bösendorfer Model 290 Imperial というピアノは、こういう録音でないと録れないのか。疑問である。

録音が悪いことは、ブラームス:2大変奏曲を聴いて覚悟はしていたが。

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2009年2月14日 (土)

ユリア・フィッシャーのバッハ:ヴァイオリン協奏曲集


Bach_concrtos_fischer


Julia Fischer
Bach Concertos
Concerto for two violins in D minor, BWV 1043 - 14' 46
Violin Concerto in A minor, BWV 1041 - 13' 22
Violin Concerto in E major, BWV 1042 - 16' 28
Concertos for oboe and violin in C minor BWV 1060 - 14' 06
Julia Fischer, violin
Alexander Sitkovesky, violin
Andrey Rubtsov, oboe
Academy of St Martin in the Fields
London, 2 - 4 June 2008

最初に聞いた時は、最高だと思ったが、2度目に聴いてみると、それほどでもなかった。

バッハのヴァイオリン協奏曲は難しい作品だと思う。ヴィヴァルディの影響を受けていると言われるが、BWV 1041 第2楽章のバッソ・オスティナートはドイツ的だし、同楽章の始めのあたり(ユリア・フィシャー盤でいうと track 5 の 1' 55 あたり)に出て来るヴァイオリン・ソロの旋律は『ニーベルングの指輪』のノートゥングの動機のように輝かしい(その部分はハーンの演奏で聞くと気持ちよい)。

そして、上記作品群のリトルネッロの鮮やかなこと! その鮮やかさは、なかなか演奏するのが難しいらしく、ヒラリー・ハーンの演奏では、ほとんどヴァイオリン・ソロばっかりしか聞こえてこない(私が上記ハーンの演奏を「卒業のための課題を無難に終わらせることができた」という程度にしか評価していないのはそのためだ)。

つまり、トゥッティとソロの交替が完璧でなければならない。

このフィッシャー盤においても、BWV 1043, 1041 では、トゥッティとソロの交替は、うまくないし面白くない。ただし、3曲目の BWV 1042 のリトルネッロは悪くない。このアルバムは、3, 4曲目の「Vn 協奏曲ホ長調」と「オーボエとヴァイオリンのための協奏曲」が良いと思う。つまり、3曲目以降に聴き応えがある。

Academy of St Martin in the Fields と Andrey Rubtsov(オーボエ)の好サポートによってあとの2曲が光っている(指揮者を置かなかったのがかえってよかったと思う)。特に、Andrey Rubtsov(オーボエ)が素晴らしいと思う(もしかしたら、BWV 1060 が一番良い演奏かも)。

あと演奏時間が、ハーン盤とほとんど同じなのは面白い。ハーンのほうが速い演奏に聞こえるのに...。

【追記】
やっぱり、アンドリュー・マンゼとレイチェル・ポッジャー Rachel Podgerがうまいと思う。

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2009年1月23日 (金)

Amazon.co.jp ミュージック

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2008年12月12日 (金)

2008年に購入したCDベスト10

2008年に私が購入したCDからベスト10を選んでみました(順位なし)。ただし、録音または発売が比較的新しいものからです。

ラモー:第2,4,5組曲/ヒューイット/2006年録音[CD] [Hybrid SACD]

ショパン:夜想曲&即興曲全集/ヒューイット/2003年[Hybrid SACD]

イタリア組曲、シューベルト 幻想曲ハ長調D.934、ラヴェル ソナタ、クララ・シューマン ロマンス/ムローヴァ/Katia Labeque/2005年

ワーグナー:バイロイト名演集(33CD)サヴァリッシュ、ベームほか

バッハ:ゴルトベルク変奏曲/Simone Dinnerstein/2005年

The Berlin Concert/Simone Dinnerstein/2007年

モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲Nos.3-5/Andrew Manze/The English Concert/2005年[CD] [Hybrid SACD]

バッハ:チェロ・ソナタBWV1027-29、C.P.E.バッハ/Daniel Müller-Schott/ヒューイット/2006年

マーラー:交響曲第1番/ゲルギエフ/Lso/2008年[Hybrid SACD]

「パルジファル」ティーレマン/Vpo/2005年


以下、録音は新しくないが強く印象に残ったもの、または買ってよかったと思うもの

バッハ:ヴァイオリン協奏曲BWV1041-43,1060/Andrew Manze/1996年

バッハ:ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタBWV1014-19,1021,1023,1024,565/Andrew Manze/Richard Egarr/Jaap ter Linden/1999年

ヘンデル《メサイア》ショルティ/Cso/1984年

ハイドン:交響曲No.88,92,94、協奏交響曲、戦時のミサ、天地創造/バーンスタイン/Vpo/バイエルン放送/1983-86年

モーツァルト:ピアノ・ソナタK.282,310,333,545/Huguette Dreyfus/1990年

ベートーヴェン:交響曲全集、Vn協奏曲op.61/バーンスタイン/スターン/NYP/1961-64年/1959年(Vn協奏曲)

ブルックナー:交響曲第8番/カラヤン/Vpo/1988年

ブルックナー:交響曲第9番/ショルティ/Cso/1985年

スクリャービン:ピアノ・ソナタNo.9、愛の死、バーバー、シューベルト、Judith Lang Zaimont、リスト/Olga Kern/2001年

ショスタコーヴィチ:ヴィオラ・ソナタ、Bouchard、Chihara/Kim Kashkashian/1990年

ルービンシュタイン/ショパン・コレクション(11CD)

ジャクリーヌ・デュ・プレ/コンプリート・EMI・レコーディングス(17CD)

ストラヴィンスキー・エディション(22CD)

モーツァルト:ピアノ協奏曲No.24、ベートーヴェンNo.2、ソナタop.110、ハイドンNo.49、ベルクop.1、Stockholm 1958/グールド


以下、廉価盤

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集/Artur Schnabel/1932-35年

J.S.バッハ:オルガン曲集/ヘルムート・ヴァルヒャ/1947,50-52年

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2008年12月 9日 (火)

JBL for iPhone & iPod

 

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2008年12月 4日 (木)

アンドリュー・マンゼのバッハ


Manze




Bach Violin Sonatas
Andrew Manze, violin
Richard Egarr, harpsichord
Jaap ter Linden, 1viola da gamba, 2cello
harmonia mundi
1999年録音

Sonata in B Minor, BWV 10141
Sonata in A Major, BWV 10151
Sonata in E Major, BWV 1016
Sonata in C Minor, BWV 1017
Sonata in F Minor, BWV 1018
Toccata And Fugue in D Minor, BWV 565(reconstructed for solo violin by Andrew Manze)
Sonata in G Major, BWV 1019
Alternates Sonata in G Major, BWV 1019
Sonata in G Major, BWV 1021
Sonata in E Minor, BWV10232
Sonata in C Minor, BWV 10242

久しぶりに良いバッハに巡り会えた。上記は「ヴァイオリン・ソナタ」といっても、無伴奏ヴァイオリン・ソナタではない。「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ」だ(エマヌエル・バッハはこの6曲を Clavirtrio と呼んでいる)。

私は、この BWV 1014 - 1019 が大好きであるのに、シェリング&ヴァルヒャ盤(現在廃盤)以外に良いものを、なかなか見つけることができなかった。

コーガン&リヒターはうるさいし、クイケン&レオンハルトは全然好みに合わない。LP 盤で購入した Eduard Melkus & Huguette Dreyfus もピンと来なかった。Rachel Podger & Trevor Pinnock はピノックが下手だし、Giuliano Carmignola & Andrea Marcon は悪くないが、シェリング&ヴァルヒャに取って代わるものではなかった。ムローヴァ&ダントーネは期待はずれ。Jaime Laredo & Glenn Gould はヴァイオリニストが弱い。

シェリング&ヴァルヒャ盤は、ヴァルヒャが目が不自由ということもあってか、演奏が合ってない。二人が自由に弾いてるような、いわばジャズ感覚だ。そのようなジャズ的バッハの良さを教えてくれたのは、ペトリ&ジャレットによるリコーダー・ソナタ(原曲:フルート・ソナタ)だった。

バッハの音楽は、二人(独奏者とチェンバロ伴奏)で演奏される作品(たとえばこの「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ」)において、チェンバロ奏者が一人二役(旋律と通奏低音)を受け持ち、独奏者の1パートに加えチェンバロ伴奏の一人二役による2パート合計3パートで奏されるように聞こえる。場合によっては、チェンバロの左手が「主旋律」に聞こえる時もある。ペトリ&ジャレットのリコーダー・ソナタにおいて、ジャレットのチェンバロは、変な音響効果がかけてあって、ジャレットの左手は弦のバスのように聞こえるような気がする。だいたい、バッハのこの種類の音楽は「トリオ」と呼ばれたりするように、3パートを持つのではないだろうか。オルガンのトリオ・ソナタは、一人三役だし。

シェリング&ヴァルヒャは自分勝手に演奏しているように聞こえる。繰り返して書くが、シェリング&ヴァルヒャのようないわばジャズ感覚に匹敵する演奏は、なかなか見つからなかった。

ムローヴァ&ダントーネ盤は、ムローヴァのバロック・ヴァイオリンが元気よくストレートであり、しかも美しく味わい深いが、ダントーネが伴奏に徹しているので面白くない。

マンゼ&エガーの演奏には主旋律と伴奏の交替というジャズ感覚はないが、その代わりに、静と動、剛と柔のバランスが良く、柔らかくもあり柔らかくもない。丁丁発止としながら大人しい。その「技」が巧みであり、それが、シェリング&ヴァルヒャの演奏と比較して聴き劣りしない理由でありポイントだと思う。

ムローヴァ&ダントーネ vs マンゼ&エガーは、リスナーの評価を二分するかも知れない。

また、マンゼ&エガーの演奏は、第1, 2曲(BWV 1014, 1015)、リンデン Jaap ter Linden がヴィオラ・ダ・ガンバで参加しているが、その3パート形式を全曲で保持してるように聞こえる。その「三角形」こそ、バッハのこの種の曲には重要であり必要不可欠な要素だと思う。

マンゼのもう一つのバッハ名演奏は自ら指揮しポッジャーと共演したヴァイオリン協奏曲集だ。

Manze2


J.S.Bach: Solo & Double Violin Concertos
Andrew Manze
Rachel Podger
The Academy of Ancient Music



褒めてすぐ貶すのもなんだが、マンゼの Violin Sonatas のアルバムにはオルガン曲 BWV 565 のヴァイオリンソロ・ヴァージョンが入っているが、これはなくてもいいと思った。


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2008年11月22日 (土)

ヒラリー・ハーンを追っかける(6)


Photo_3




Johannes Brahms
Concerto in D Major for Violin and Orchestra, Op.77

I. Allegro non troppo 23:14
II. Adagio 9:31
III. Allegro giocoso, ma non troppo vivace 7:41

Igor Stravinsky
Concerto in D for Violin and Orchestra

I. Toccata 4:51
II. Aria I 4:27
III. Aria II 6:07
IV. Capriccio 5:31

Hilary Hahn, violin
Academy of St. Martin-in-the-Fields, conducted by Sir Neville Marriner
2001年録音
SONY

ヒラリー・ハーンという人は本当につかみどころのない人だ。

デビュー第4作に当たるこのブラームス&ストラヴィンスキーで、こけた ... と、思っていたのだが、久しぶりに聴いてみたら、良かった。

この人は、三大 Vn 協奏曲の一つと言われるブラームスの Vn 協奏曲に、あまり敬意を払ってない ... というか ... この演奏は新しい。ブラームス的に弾いてないと思う。私にとってブラームスと言えば、Pf 協奏曲第2番のように、交響曲のような協奏曲を書いた人というイメージがある。したがって、この作品77も、交響曲的スケールを目指さなければならないと思っていた。しかし、そうではなかった。すなわち、ハーンは前作のバーバーやメイヤーと同じようにブラームスを弾いているという気がする。つまり、普通の協奏曲として弾いている。考えてみれば、それでいいのだ。よく聞いてみたらこの作品は普通の協奏曲だった。といっても、ハーンがまったく、普通に弾いてるかというと、そうではなく、かなり、自己主張している(あたかもブラームスはかく演奏されるべしというハーンの自己主張)。にもかかわらず、彼女が何が言いたいのかわかるまで時間がかかるのは、なぜかと言うと、演奏が徹底的にクールだからだ。

ストラヴィンスキーにしても、まったく同じことが言える。これも普通の協奏曲のように弾いている。あたかも、ストラヴィンスキーを難しく弾いたり、聞いたりするのは間違いだとハーンは言ってるかようだ。
やすやすと弾いてるし、さらに言えばあたかも「ストラヴィンスキーは迎合的な人だったから迎合的に弾くのが正しい」と主張しているかように聞こえる。

ハーンはすごい。生意気かつ恐るべき天才だと思った。脱帽。

このアルバムにおいて、あまり自己主張しないマリナーと組んだのもうまいと思う。

最初に書いておかなければならなかったが、私はブラームスという作曲家は好きではない。だから、クールでもホットでも、実はどっちでもよい。

ストラヴィンスキーの Concerto in D についても、私はいままで、あまり聴いたことがなかったので、よくわからない作品だったし、気に入った演奏というものはなかった。しかし、ハーンの演奏は気に入ってしまったし、作品の意味もわかったような気にさせられた。

さらに書けば、ブラームスについては、ユリア・フィッシャーの一生懸命な演奏が気に入っていたが、いまは逆転した。

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2008年11月20日 (木)

ルチア・ポップの4つの最後の歌とリヒャルト・シュトラウス歌曲集

では、リヒャルト・シュトラウスの「4つの最後の歌」と歌曲集は、どれが良いかというと「4つの最後の歌」については下記オムニバスアルバムが良い。

Popp1

・曲目
ブレンターノの詩による六つの歌 作品68
1. 夜に
2. わたしは花束を編むつもりだった
3. そよげ、やさしいミルテの樹よ
4. あなたの歌がわたしの心にひびいたとき
5. 愛の神
6. 妻たちの歌

エディタ・グルベローヴァ
1991年録音


献身 作品10の1
母親の自慢話 作品43の2
わが子に 作品37の3
東方から訪れた三博士 作品56の6
春の饗宴 作品56の5

カリータ・マッティラ
1991年録音


四つの最後の歌

九月
眠りゆくとき
夕映えに

ルチア・ポップ
1993年録音

マイケル・ティルソン・トーマス指揮
ロンドン交響楽団
SONY

これは、ルチア・ポップがなくなった年に録音されたもの(享年54歳)。文字通り、ポップの「最後」の歌、白鳥の歌となったもの。
しかし、たんに、ルチア・ポップへの感傷的な思い入れで聴くから良いのではなく、歌唱が素晴らしい。真摯に歌っている。
「真摯に歌っている」というのは、どういうことかというと、歌手にしても器楽演奏家にしても誰もが真摯に演奏するだろうが、いくら真摯であっても、演奏が下手だったり解釈が間違っていたりしたらダメである。ルチア・ポップという歌手は、つねに技巧・解釈が優れていたとともに真摯であった...という言い方も抽象的であるとするならば更に具体的に書く。

「4つの最後の歌」はヘッセの3つの詩が取り上げられている。曲順については、初演時は「眠りにつくとき」「九月」「春」「夕映えに」の順番であったのだが、現在、多くの歌手が歌っている曲順が良いと思う。というのは、ヘッセの3つの詩は「春」が彼の若いときの作でロマン的であり文字通り若々しい力を感じさせ元気である。「九月」は円熟期の作風を感じさせる。「眠りにつくとき」は、ヘッセの奥さんが精神の病を得、自らも精神的に病んでいたときの作品...よって、ヘッセの詩作の順に従えばこの順番が良いであろう。

ヘッセの3つの詩のあとにアイヒェンドルフの「夕映えに」を持ってくるのは、この曲が一番長いこともあるが、死をテーマにする曲であるからであろう。しかしもともと、シュトラウスがこの作品群「4つの最後の歌」を着想したのはアイヒェンドルフの「夕映えに」に曲をつけることきっかけだったらしい。現に「夕映えに」が一番先に作曲されている。

「4つの最後の歌」を作曲順に忠実に歌うという歌い方の選択肢まで考えれば、曲順は、あるいは演奏家が自由に決めたほうが面白いかも知れないが、曲順がどうであれ、歌手は、これらの4つの歌の性格を歌い分けなければならない。ルチア・ポップはそれができている。彼女のドイツ語は美しいし、ヘッセとアイヒェンドルフの詩がよく理解できるドイツ語の発音をしている。マイケル・ティルソン・トーマス&LSOの伴奏も優れている。これを聴くと、ルネ・フレミングの歌唱は足下にも及ばない...と、言ってしまいたくなるほどである。

歌曲集も下記のポップのが素晴らしい。これは長く廃盤になっていたが現在手に入るようになったようだ。
これは、サヴァリッシュのピアノ伴奏が非常に素晴らしい。
リスナーは、最初の作品10全8曲から彼女の歌唱に吸い込まれてしまうであろう。

マーラーが取り上げたアルニム・ブレンターノの詩集「子どもの不思議な角笛」から「15ペニヒで 作品36の2」のアイロニカルは絶品。

ピアノ伴奏によるリヒャルト・シュトラウスの歌曲は、夜中にしんみり聴くと幸せになれる。

1984年録音。


Popp2



リヒャルト・シュトラウス歌曲集/ルチア・ポップ/ヴォルフガング・サヴァリッシュ(ピアノ)
TOCE - 14189
EMI

なお、この商品には日本語歌詞対訳が付いていません。私が訳したものをアップしましたのでご参照下さい(下記)。

リヒャルト・シュトラウス歌曲集日本語歌詞対訳


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2008年11月19日 (水)

フレミングのリヒャルト・シュトラウス(4つの最後の歌)


Fleming


RENÉE FLEMING
FOUR LAST SONGS
RICHARD STRAUS: SONGS & ARIAS
MÜNCHNER PHILHARMONIKER
CHRISTIAN THIELEMANN

Vier letzte Lieder

Ariadne auf Naxos
Ach! Wo war ich? Tot? ...
Ein Schönes war: hieß Theseus - Ariadne ...
Es gibt ein Reich

Verführung, op. 33 no. 1
Freundliche Vision, op. 48 no. 1
Winterweihe, op. 48 no. 4
Zueignung, op. 10 no. 1

Die ägyptische Helena
Zweite Brautnacht!

Recorded live in Munich, 2008

いま「4つの最後の歌」を歌える歌手が少ないので期待して買ったが、結論を先に言えば、面白かったが期待はずれ。これは、ティーレマンとミュンヘンフィルが伴奏なので買ってみた。そうでなかったら買わなかったかも知れない。フレミングが「4つの最後の歌」を歌うのは、アバド指揮で聞いたことがあった...というか見たことがあった。たしかアバドが、トリスタンの第2幕を演奏会形式で演奏したテレビ番組で一緒に放送されたのを見たと思う。そのときの演奏に特によい印象はなかった。

ティーレマン&ミュンヘンフィルには、期待しているので、よい演奏を期待したが、これは、それなりに楽しませる演奏ではある。オーケストラは、多分ヴァイオリン対向配置だと思う。フレミングの歌唱もところどころ面白い。「4つの最後の歌」は多くの名唱が存在するので、彼女も新しい歌い方にチャレンジしなければならなかったのだろう。そこが聴きどころ。
ティーレマンとフレミングのコンビは品がないという点で、相性が良いと思う。あまり聴いたことがなかった「誘惑」「したわしき幻」「冬の聖化」の3曲が、むしろ面白かった。2つのオペラのアリア(アリアドネ、エジプトのヘレナ)はうまいのか、どうなのかわからない...というより、あえて言えば、特筆すべき魅力はない。

フレミングのドイツ語は、歌い慣れている「4つの最後の歌」はまあまあだが「誘惑」「したわしき幻」「冬の聖化」の3つの歌曲は、あまりうまくないと思う。藤村実穂子のドイツ語がうまいと言われるゆえんがわかる。

・追記
「4つの最後の歌」「誘惑」ほか3つの歌曲を訳してみました。

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2008年11月18日 (火)

シモーネ・ヤングのブルックナー4番


Young

Anton Bruckner
Symphony No. 4 "Romantische"
E-Flat Major, original version 1874
Simone Young
Philharmoniker Hamburg

2007年、ハンブルクにおけるライヴ録音

1. Allegro 19:54
2. Andante quasi allegretto 18:28
3. Sehr schnell. Trio. Im gleichen Tempo 12:45
4. Finale [Allegro moderato] 18:53

Total 70:01

この人の指揮は、音色の変化が華やかだが、そのテクスチュアは決して完成されたものではなく、むしろ未熟で粗く聞こえ、それがかえって新鮮さを感じさせ心地よい。それは、このヴァージョンが初稿版であるからだろうか。さらに、この人の表現においては、本来この作品が持つ魅力が至る所から聞こえてくるような気がする。たとえばあっけらかんとしたポリフォニーなどから...

この作品が「ロマンチック」と呼ばれる所以は、巨匠たちの演奏や過去に良い評価を受けた演奏(シノーポリなど)より、むしろシモーネ・ヤングの演奏から聴き取れるような気がする。それは、彼女の第4番が初稿版であり、年を重ね大成したブルックナーの作曲技術で書き改められノーブルに生まれ変わった改訂版の様式美より、未完成な天真爛漫さを持つからかも知れない。

この演奏を聞いたあとに、比較のために、他の指揮者による改訂版を、改めて聴き直してみると「ブルックナーは受けを狙って改訂しちゃったんだなあ。初稿版のままでもよかったのに」と思わせられるのが面白い。

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2008年11月14日 (金)

Amazon お買い得ウィジェット

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2008年11月 3日 (月)

ヒラリー・ハーンを追っかける(5)


1

再び、

J.S.バッハ
無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第3番 ホ長調 BWV1006
無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ 第2番 ニ短調 BWV1004
無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ 第3番 ハ長調 BWV1005
ヒラリー・ハーン
1996、1997年録音


無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ全曲/シゲティ/1955,56年録音
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ全曲/シェリング/1967年
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ全曲/アーヨ/1974,75年
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ全曲/ミルシテイン/1973年
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ全曲/クレーメル/1980年
無伴奏ヴァイオリン・パルティータ Nos. 1 - 3/ムローヴァ/1992-93年
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ全曲/Rachel Podger/1997-99年
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ全曲/加藤知子/1999-2000年
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ全曲/クレーメル/2001,02年
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ全曲/Julia Fischer/2004年

いろいろ聴いてみたが、私は、ハーンので十分。
理由は大したことない。
私はもともと、この作品群があまり好きではないから、全曲通して聴くことの意義がわからないし、全曲通して聴くのが疲れる。だから、ハーンの3曲だけで十分。
第2に、ハーンの初々しさ。それだけで十分。彼女の演奏は、演奏者の(つまりハーンの)技術と感性がダイレクトに伝わる。そのストレートさが良い。
彼女の「パルティータ 第2番 ニ短調」は素晴らしい。
たしかに、この作品群を深く聴こうと思えば、ハーンの「パルティータ 第3番 ホ長調」「ソナタ 第3番 ハ長調」は退屈するだろうが、それらも BGM として聴くのは心地よい。
この作品群は、老獪な演奏や凝った演奏や難解な演奏が、あだになる...とは勿論断言しないが、その傾向はあると思う(ムローヴァは彼女らしくなく難しい演奏をしていて良くないと思う)。

上記ハーン盤の録音は、エコー付きの音のわざとらしさが、かえっていいい。

【追記】
ヒラリー・ハーンを追っかける(1)を参照して下さい。


 


 

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2008年10月25日 (土)

ヒラリー・ハーンを追っかける(4)


Hahn

Samuel Barber (1910 - 1981)
Concerto for Violin and Orchestra, Op.14
I. Allegro 10:33
II. Andante 9:07
III. Presto in moto (perpetuo) 3:25
Edgar Meyer (*1960)
Violin Concerto
Movement I 10:24
Movement II 16:04
Hilary Hahn, violin
Saint Paul Chamber Orchestra
Hugh Wolff
1999年録音
SONY

「本作の録音は数多く、アイザック・スターンやイツァーク・パールマン、ギル・シャハム、ジョシュア・ベル、ヒラリー・ハーン、ジェイムズ・エーネスといった演奏家によって取り上げられてきた。スターンがレナード・バーンスタインの指揮とニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団との共演で1964年に行なった録音は、ロマン主義的な解釈で定評があるのに対して、ヒラリー・ハーンがヒュー・ウルフの指揮するセントポール室内管弦楽団と共演した1999年の録音は、「醒めた新古典主義的な見方」によって高い称賛を浴びた。」

「ハーバート・ボーメルは、1939年から1940年のシーズンにソリストとして、カーティス音楽院交響楽団と共演してこれを演奏したのである。指揮はフリッツ・ライナーだった。この演奏に興味を惹かれたユージン・オーマンディは、1941年2月にフィラデルフィア音楽院においてアルバート・スポールディングを独奏に迎え、フィラデルフィア管弦楽団を指揮して公開初演を行なう予定を立てた。(実際の初演は2月7日であった。)これらに続いて、2月11日にカーネギーホールで再演が行なわれると、その頃からたちまちヴァイオリンと管弦楽との定番の楽曲になった。実際バーバーの協奏曲は、あらゆる20世紀の協奏曲の中で最も演奏回数の多い作品の一つである。— ヒラリー・ハーンによる2000年の録音への解説文」

上記は、バーバーのヴァイオリン協奏曲作品14について、wikipedia からコピペしたもの。wikipedia に、ハーンによるライナー解説文が載ってるということは、ハーンの書く文章は、良いと見なされているのだろう。

彼女は自分のアルバムのライナーを自分で書いている。昔で言えば、グールドみたいなことをやっている。彼女は「目立ちたがりの書きたがり」でライナーを書いているというより、それらを書くだけの知性なり文才を持ち合わせているのだろう。

このアルバムもそのような彼女の魅力がよく現れていると思う。

バーバーもメイヤーも「これは」というほどの名曲ではないし、熱演ではないが、時々取り出して聴いてみたくなる不思議な魅力を持つアルバムに仕上がっている。そういう魅力が彼女の人気の秘密かも。

バーバーとカップリングされているエドガー・メイヤー Edgar Meyer は、現代アメリカの作曲家というよりコントラバス奏者で、世代的には(19才も歳が離れているので)ハーンと同世代とは言えないが、それはハーンが若すぎるからであり、ハーンの仲間と言っていい人(出会いのいきさつやこのヴァイリン協奏曲作曲のいきさつもライナーに書かれてある)。ハーンに捧げられたこのヴァイリン協奏曲は、バーバーよりむしろこちらがメインと言ってもよいぐらい聞きやすく風情がある佳作(ジャケットの秋の景色がよく似合っている)。エドガー・メイヤーの作曲家としての実力が、ハーンによって証明されていると言って良い。

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2008年10月23日 (木)

ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べる(7)

ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べる(4)において、私が「アニュス・デイ」と「ヨハネによる福音書第20章第19章」を結びつけたことを奇異に思われる読者がいると思うので補足する。

「ヨハネによる福音書第20章第19章」をもとにしたバッハのカンタータが二つある。第42番と第67番である。それらは、復活祭後第1日曜日のためのカンンタータであり、いずれも平和を祈念した明るいカンタータである。「ヨハネによる福音書第20章第19章」において、イエスが「あなたがたに平和があるように」と言ったのは、ヘブライ語で「シャーローム」と言ったのではなかろうか。「シャーローム」はユダヤ人の間でよく使われた挨拶の言葉で、特に「恒久平和」とか「戦争に対する平和」という意味ではない。そして「シャーローム」が「ヨハネによる福音書第20章第19章」において「あなたがたに平和があるように」と訳され、さらにその「シャーローム」が、ミサ典礼文のアニュス・デイにおいて「Dona nobis pacem / 私たちに平和をお与え下さい」へと転用されたとすれば、それは誤訳による転用である。ベートーヴェンは、アニュス・デイにおける「Dona nobis pacem / 私たちに平和をお与え下さい」が誤訳による転用であることを知っていて、あえてその誤訳を利用し拡大解釈したのではないだろうか。

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モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲聴き比べ(7)

Manze


Mozart
3 Violin Concertos
Violin Concerto No. 3 in G major, K. 216
Violin Concerto No. 4 in D major, K. 218
Violin Concerto No. 5 in A major, K. 219
All cadenza by Andrew Manze
The English Concert
Andrew Manze, violin & director
2005年録音
harmonia mundi

Bunchou さんおすすめの「モーツァルト: ヴァイオリン協奏曲/アンドリュー・マンゼ/イングリッシュ・コンサート」を買ってみた。

これは音がいい。

本当は、値段がそんなに変わらない SACD 盤を注文したが、入手できなかった。残念。

演奏は、まず、

「The English Consert は、こんなに演奏がうまかったのか」と思うほど、The English Consert がいい。アンドリュー・マンゼは指揮者として優れているようだ。

The English Consert は、ピノック指揮の「ブランデンブルク協奏曲」を持っているが、それは、まあ...それなりというところだった。それに対して、このマンゼ指揮の「モーツァルト: Vn 協奏曲」の The English Consert は、ピノックの音より繊細で、3曲とも細かいニュアンスを出すことに成功していると思う。

マンゼのヴァイオリンは、

K. 216(No. 3) は、スターンの貫禄に負ける。

K. 218(No. 4) は、元気のよいムターの新旧盤の方が聴き応えがあるように思う。しかし、

K. 219(No. 5) は、上記の指揮のうまさと、マンゼの弾くピリオド楽器の演奏法のノン・ヴィブラートと弱めのヴィブラートの絶妙なブレンド。また、あまり高音に頼らない音色が美しい。また、この人は時々、フラジオレットみたいな奏法をしているが、それがわざとらしくなく、自然だ。ムターも弓を弦に弱くこすりつけるような変な奏法をやっているが、あれは下品だ。それに対して、マンゼのは、自然であり、あたかもそういう奏法が昔、存在したかのように思える(学術的根拠不明)。
それから(これは、全3曲に関していえるが)テンポの微妙な揺らし方、適切なデュナーミクが心地よい。第1楽章のアインガングへの入り方、その間の取り方が良いし、その微妙なニュアンスが、K. 219 の3つの楽章に生きている。第2楽章は美しく、第3楽章のトルコ風音楽のところで、バチンバチンなる音響効果(もしかして、バルトークピチカート?)も良かった。

K. 219 は、3つの楽章のバランス、ニュアンスが、私がこれまで聴いた中でベストであり、K. 219 の最良の演奏だと思う。

Bunchou さん、ありがとうございました。

 

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2008年10月14日 (火)

ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べる(6)

Gardiner


Beethoven
Missa solemnis, op. 123
Charlotte Margiono, soprano
Catherine Robbin, mezzo-soprano
William Kendall, tenor
Alastair Miles, bass
The Monteverdi Choir
Orchestre Révolutionnaire et Romantique
John Eliot Gardiner
1989年録音
ARCHIV

演奏時間 71'40

独唱は、ソプラノがほぼ真ん中の向かってやや右、アルトが真ん中のやや左、テノールはアルトの左隣(その3人は並んで歌っているように聞こえる)、バスだけは左端から聞こえる。

合唱は、右からバス、テノール、アルト、ソプラノ。アルトは、一部かあるいは全員カウンターテナーだと思う。

そして、この《ミサ・ソレムニス》は正しいラテン語の発音で歌われていると思う。根拠はない。ガーディナー盤だからそう思うだけである。

HMV のユーザーレビューに、

「クレド後半の高速合唱が圧巻。同じようなスピードでジンマンもやっているけど精度が違う。」

と書いてあるが、まさにその通りだと思う。そういう充実した合唱と独唱を聴かせるのに(Orchestre Révolutionnaire et Romantique も充実していると思う)、アニュス・デイがあっさりしているのが気に食わない。

なお、サンクトゥスのホサナ「85 Osanna in excelsis / 天にはホサナ」は、いわゆる OVPP (One Voice Per Part)、つまり、合唱ではなく独唱者が歌っている。

(繰り返して書くが)そういう凝ったことをやっていて、サンクトゥス 〜 ベネディクトゥスまでは、非常に良いと思わせたのに、アニュス・デイがあっさり終わって、アニュス・デイが全然神秘的でないのが惜しいし気に食わない。

ガーディナー盤を聴いて初めて気づいたが、ベネディクトゥスの第一声はグレゴリオ聖歌みたいに非旋律的に聞こえる。

ついでに書くが、ガーディナー盤を聴くと《ミサ・ソレムニス》作品123は、独唱と合唱が渾然一体となった複雑な形式を持つ作品に聞こえるが、実は、それは、グローリア、クレドの終わりの部分などだけであって、全体的には、キリエ第1行目のように合唱が先行し独唱が後をつける、または、キリエ第2行目(Christe eleison)のように、独唱が先行し合唱が後を付けるという形が基本であって、その意味では整然とした声楽の形式からなる作品だと思う。つまり、あまりごちゃごちゃした演奏は私は好まない。その点、ショルティ旧盤は良いと思う。

ついでに余計なことを書くが、このガーディナー盤の CD ジャケットのベートーヴェンの肖像画は、私、大好きです。ベートーヴェンの肖像画ではハンサムでかっこいい下記の肖像画が有名だが、私は、上の肖像画のほうが好きです。部屋に張っておきたいほど。

Beethoven


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2008年10月12日 (日)

ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べる(5)

Solti1


Beethoven
Missa solemnis, op. 123
Lucia Popp, soprano
Yvonne Minton, contralto
Mallory Walker, tenor
Gwynne Howell, bass
Chicago Symphony Chorus
Chicago Symphony Orchestra
Georg Solti
1977年5月録音
LONDON

演奏時間 81'09

私の好きなルチア・ポップが歌っているので買ってみたのだが、期待以上の素晴らしい名演だった。録音も良いのではないかと思う。

クラシック音楽の CD を買うとき、期待したのがあまり良くなくて、期待してなかったのが良かったりすることが多い(したがって、良さそうなのも悪そうなのも全部買って聴いてみないとわからない。おかげでお金がどんどんなくなる)。

これは後者である。

改めて言うまでもないが、

ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》には以下の4つの条件が欠けてはならない。

1. 独唱者のアンサンブルの良さ
2. 合唱のうまさ
3. 2とダブるが合唱指揮者のうまさ。合唱指揮者と本指揮者(つまりこの場合はショルティ)の連携の良さ
4. 指揮者の解釈の正しさ

上記、ショルティ旧盤は上の4つの条件を満たしている。

この録音は面白いことに、独唱、合唱が向かって右からソプラノ、アルト、テノール、バスと並んでいる。

Solti2


Beethoven
Missa soleminis, op.123
Julia Varady, soprano
Iris Vermillion, mezzo-soprano
Vinson Cole, tenor
Rene Pape, bass
Rundfunkchor Berlin
Berliner Philharmoniker
Georg Solti
1994年3月、ライヴ録音。
LONDON

演奏時間 77'16

こっちは、期待したのに、あまり良くなかった。
デジタル録音なのに、録音があまり良くなく、演奏も感動に薄い。
ベルリン放送合唱団(Rundfunkchor Berlin)もイマイチ。


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2008年10月10日 (金)

ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べる(4)

Zinman


Beethoven
Missa solemnis, op. 123
Luba Orgonasova, soprano
Anna Larsson, alto
Rainer Trost, tenor
Franz-Josef Selig, bass
Schweizer Kammerchor
Tonhalle Orchestra Zurich
David Zinman
2001年5月録音
ARTE NOVA

演奏時間 65'57

この演奏は、演奏時間が短く聴きやすいだけでなく、正しい解釈によるものだと思う。とくに「ベネディクトゥス」に入る前の "Präludium" (プレルーディウム、前奏曲)からラストまでの解釈が良い(ミサ典礼文を訳したので参照のこと。"Präludium" は85行目と86行目の間)。

ジンマンの《ミサ・ソレムニス》について、アマゾンのカスタマーレビューに投稿されてある haubenstock という人のレビューが参考になる。

「クレドの二重フーガから後半はstrettaになり、どの演奏者が最初にゴールにつくのかの短距離走のような感じです。」

CD についているリーフレットには、"Schweizer Kammerchor"(スイス室内合唱団)のメンバー表がのっているが、総勢80名あまりのメンバーの名前が書かれてある。もしこれらの人々が、この演奏で歌ってるとしたら、その80名あまりが、200〜400メートルぐらいを一気にゴール目指して駆け込んでいることになる。

ちなみに、作品123の「クレド」の二重フーガのエンディングは、"Grave"(ジンマンの CD でトラック14)になるが、この部分で4人の独唱者を中心に歌われる「アーメン」は第九交響曲の下記カデンツァに似ているような気がする(midi)。

Beethoven_125_4_1

さて、ベートーヴェンがわざわざ85行目と86行目の間に "Präludium"(前奏曲)という音楽を入れたのは「ここから音楽が変わる」というシグナルだと思う。その前奏曲は「ベネディクトゥス」のための前奏曲だと思うのだが、そもそも「ベネディクトゥス」とは何なのだろう。そして、ベートーヴェンは何のために、ここにわざわざ前奏曲を置いたのだろうか。

ラテン語 "Benedictus" はおそらく「ほめられる」「たたえられる」「賛美される」という意味の名詞形だと思う。

礒山雅氏の資料によると、

『カトリック大事典』によれば、「感謝の賛歌Sanctus」は、「奉献文のなかで、司式者の感謝の祈り(叙唱)に答えて、会衆が歌う感謝と賛美の歌」です。それは東方教会から5世紀頃西方に入り、7世紀に〈ベネディクトゥス〉が付け加えられました。当初は簡単な旋律で歌われていましたが、11世紀には聖歌隊のためのものとなって複雑化し、それに対応して、司式司祭が叙唱後の奉献文を、沈黙のうちに唱える習慣が生まれました。「こうして聖歌隊が『聖なるかな』を歌い続けている間に、司祭は奉献文の祈りを続け、聖体制定句の後、司祭の沈黙の祈りと平行して後半の『ほむべきかな』が歌われるようになった」(国井健宏)のです。

また、礒山氏は、"Präludium" (前奏曲)について、

「この部分が短く終わると、『プレルーディウム』と題された部分に入り、ソステヌート・マ・ノン・トロッポで、静かな和声楽句が、ひとしきり奏されます(譜例13)。これは、パンとぶどう酒がキリストの肉と血に変ずること(聖変化)への、期待を込めた祈りのひとときと見るべきでしょう。」

さらに、

「このあたりで、(ベートーヴェンの)《ミサ・ソレムニス》は、典礼にもっとも接近しています。」

と、指摘している。

キリスト教になじみの薄い我々にとって、それらの指摘はピンと来ない。そこで、私なりに調べてみた。まず、私の手元にある「ルーテル教会式文」によると次のようにある(本来ならカトリックの式文が望ましいが、手元にない。ただ、ルーテル教会とカトリック教会の司式はほぼ同じなのでひどいズレははないと思う)。

「ルーテル教会式文」では「みことばの部」である「信仰の告白(クレド)」のあと「奉献の部」に続き「聖餐の部」に入る。

(そもそも「ルーテル教会式文」は、

1. 開会の部
2. みことばの部
3. 奉献の部
4. 聖餐の部
5. 派遣の部

の5つに分かれている)

3.奉献の部とは、献金などが行われる部分であり、文字通り「神に捧げ物を捧げる」儀式だと思う。そのあと、4.聖餐の部に入る。

4.聖餐の部では、まず讃美歌が歌われ、次に牧師と信徒により簡単な「序詞」が交わされる。

次に「サンクトゥス 〜 ベネディクトゥス」が歌われる。

そのあと「設定」というくだりに入る。それは司式者(牧師)によって次のような言葉が発せられる。

「私たちの主イエス・キリストは苦しみを受ける前日、パンを取り、感謝し、これを裂き、弟子たちに与えて言われました。『取って食べなさい。これはあなたがたのために与える私のからだである。私の記念のため、これを行いなさい』。食事ののち、杯をも同じようにして言われました。『取って飲みなさい。これは罪の赦しのため、あなたがたと多くの人々のために流す私の血における新しい契約である私の記念のため、これを行いなさい』。」

牧師は上の言葉を述べながら、用意されたパンとぶどう酒の覆いを取る。

その後「主の祈り」が唱えられる。

「天にましますわれらの父よ。
「願わくはみ名をあがめさせたまえ
(以下省略)

その次に下記の「平和の挨拶」が簡単に交わされ、

(司式者)主の平和が共にあるように。
(会衆)また、あなたとともに。

その次に「アニュス・デイ」が歌われ、そのあと、牧師によって

「洗礼の礼典にあずかったかたは、聖卓へお進みください」

という言葉に促されて聖餐式(カトリック教会では聖体拝領)が執り行われる。聖餐式が終わると聖餐の感謝が牧師と信徒によって簡単に唱えられ、4.聖餐の部が終わる。

以上、「ルーテル教会式文」から見てもわかる通り、ミサ曲の「サンクトゥス」から「アニュス・デイ」はまさしく聖餐式(聖体拝領)のための音楽なのである。そのなかで、ベートーヴェンは「82 聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな 83 万軍の神なる主 84 天と地はあなたの栄光に満ちています」という大仰な歌詞ではなく「ベネディクトゥス」こそ、彼自身がキリスト教の神秘を表すにふさわしい歌詞だと見なしたのだろう。

ところで「ベネディクトゥス」の歌詞、


86 Benedictus
87 qui venit in nomine Domini
88 Osanna in excelsis


たたえよ
主のみ名によってこられる方を
天にはホサナ



は、イエスがエルサレムに入場するときの群衆からの歓声

「そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。』」(マタイ21章9節)

から取られているのであるが、この「祝福」する主体は誰であろうか。それは神である。

日本語では「祝福」とは「人が人の幸福を祝い祈ること」に使われる場合が多いが、Benedictus における祝福は「神の祝福」である。広辞苑を含め大概の国語辞典には、上記の二つの意味が書いてあるようだ。

1. 幸福を喜び祝うこと。また、幸福を祈ること。「結婚を—する」「前途を—する」
2. キリスト教で、神の恵みが与えられること。また、神から与えられる恵み。

ちなみにルター訳聖書では、マタイ21章9節の Benedictus を単に "Gelobt sei"(ほめられよ)と訳してある。

ところが、面白いことに、"Benedictus" および "Gelobt sei"(ほめられよ)を、日本人的に誤解して「みんなの祝福があるように」と解するほうが、ベートーヴェンの解釈に合ってるような気がする。というのは、ベートーヴェンの "Benedictus" の音楽では「主の名によって来られる方」が「受難を経なければならないキリストであること」は、まだ表されていないと思うからである。ベートーヴェンの "Benedictus" では、イエスは人間から祝福される(美しくも頼もしい)ヒーローに過ぎない。イエスが苦闘のすえ、死を克服して「神の小羊」になるのは、ベートーヴェンの音楽の、まさに、"Agnus Dei" においてであると思う。"Agnus Dei" という楽章にこそ、キリストのヒーローから神への変化というテーマが力強く、また明確に歌われていると思う。私はそのようにとらえている(もっとも、キリストの神への変化というテーマは、オペラの前奏曲がそうであるように "Präludium" においてすでに提示または暗示されていると思う)。

「ヒーローから神への変化」というストーリーが、"Präludium" (前奏曲)から、"Agnus Dei" において、適切に表されているという意味で、私は、ジンマンの《ミサ・ソレムニス》は正しい解釈であると主張するのである。ベーム盤の「アニュス・デイ」におけるルートヴィヒの歌唱は強すぎて良くないし、バーンスタイン/コンセルトヘボウ盤(78年ライヴ)におけるエッダ・モーザーのヒステリックな歌唱はもっと良くない。

ベートーヴェンが、アニュス・デイの「97 Dona nobis pacem / 私たちに平和をお与え下さい」で戦争のない平和な世界を祈願したと解することに私は勿論異論はないが、私にはアニュス・デイの音楽は、キリストが、復活後、弟子たちの前に現れ「あなたがたに平和があるように」と告げる下記の場面が、合っているように思える。その場面でキリストはまだ昇天していない。まるで幽霊のようにあの世とこの世を行ったり来たりしている状態である(仏教で言うところの初七日である)。それは「ヨハネによる福音書第20章第19章」に出てくるキリスト。手に「釘跡」があり、わき腹に穴があるキリストである。作品123の「アニュス・デイ」が、音楽的に2つの極を持ち、その間を行ったり来たりして、不安定にゆらいでいるのは、キリストがまだ昇天していない「不安定な状態(人間ではないが神でもない)」を表しているのではないかと思う。「ディディモと呼ばれるトマス」がキリストの復活に確信を持てなかったように(それどころか彼は信じないと言い切っている)、ベートーヴェンの音楽もまた確信を持てずにゆらぐが、ついには最後のティンパニがキリストの昇天を表していると解釈してもいいかも知れない。ジンマンの《ミサ・ソレムニス》は、そういうことまで私に感じさせる。


その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」


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2008年10月 6日 (月)

ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べる(3)

Kubelik



Beethoven
Missa solemnis, op. 123
Helen Donath, Sopran
Brigitte Fassbaender, Alt
Peter Schreier, Tenor
John Shirley-Quirk, Bass
Chor des Bayerischen Rundfunks
Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
Rafael Kubelik
1977年3月10日、ライヴ録音、ミュンヘン、ヘルクレスザール
ORFEO

演奏時間 80'34

ベームのミサ・ソレムニスにおいて、アナログで録音されたものは、やはり、アナログで聴かないとダメとかなんとか考えたのがばからしくなるような明快な演奏。これは、ベーム盤が持っていた欠点をすべて逆に考えればいいと思う。

独唱者が上手い。
合唱が上手い。
音楽の組み立て方が上手い。

たとえば、ベーム盤の楽章間のコントラスト、すなわち、私が「グローリア、クレド」と「サンクトゥス 〜 アニュス・デイ」の「動」と「静」の対比とか書いてたのが意味なく思えてくる。ベーム盤には陰影とか隠し味があるように聞こえて、実際はそうじゃないことがわかる。ベーム盤は失敗作だ。もともと《ミサ・ソレムニス》という作品には陰影はないのだ。
ベートーヴェンは、第九にしても、このミサ・ソレムニスにしても、やはり楽譜の通り演奏すれば良い演奏になるような気がする。

繰り返し書くが、

独唱者が上手い > やはり役者が上なのか(歌手も指揮者も)。アンサンブルが美しいし、聴かせどころで上手い。

合唱が上手い > どっちがオペラ合唱団かわからん。バイエルン放送協会合唱団のほうが歌が上手いだけでなく、劇的表現が上手いし、ムード満点。

音楽の組み立て > これはクレンペラー盤にも言えると思うのだが、私のように「ミサ・ソレムニスはベートーヴェンの私小説だ」とい奇妙な解釈も受け入れるし、ベートーヴェンの言葉「こころから出てこころにかえる」も受け入れる。

ひとつだけネタをばらせば、アニュス・デイの例の軍隊音楽は、独唱と合唱の力でねじ伏せられている感じがある。そして、やはり最後のティンパニは不気味に響く。それらだけは、どんな指揮者が指揮しても謎めいて聞こえるのではないだろうか。ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》という音楽全体に優れた統一感と、構成と様式の美しさをもたらしたクーベリックでさえも、それらは力でねじ伏せているように感じる。

ちなみに、録音の問題にふれれば、これは放送音源である。

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ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べる(2)

Bohm


ベートーヴェン
ミサ・ソレムニス ニ長調 作品123
マーガレット・プライス(ソプラノ)
クリスタ・ルートヴィヒ(アルト)
ヴィエスワフ・オフマン(テノール)
マルティ・タルヴェラ(バス)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ゲルハルト・ヘッツェル(ヴァイオリン・ソロ)
ペーター・プラニヤフスキー(オルガン)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
カール・ベーム
1974年10月21〜24日、ウィーン、ムジークフェラインザール
DG

演奏時間 88'34

これは、LP 盤を持っているので「ミサ曲のテキストと《ミサ・ソレムニス》礒山雅」pdfファイル、461KBのミサ典礼文を見ながら、久しぶりにアナログでじっくり聴いてみた。結論から先に言うと、LP 盤で聴くほうが CD 盤で聴くより、作品と演奏をよく理解できる。その上さらに、上記ベーム盤は、必ずしも作品の本質に迫ってないことがわかった...ような気がする。

その前に言っておかなければならないが、アナログで録音されたものは、やはり、アナログで聴かないと、指揮者の本当の解釈が伝わらないケースは存在すると思う。上記 CD 盤とアナログ盤を聴き比べると、えらく印象が違う。困ったもんだ。繰り返すが、アナログ環境で録音されたものはアナログ環境で再生しないと指揮者の解釈が伝わらないという説が真だとすると、アナログ環境で録音された音源は、全部、アナログ環境で聴かないとダメということになる。そうなると、クラシック音楽において(またクラシック以外のジャンルにおいても)アナログ環境で録音された音源をリマスターした CD は「偽」ということになってしまう。上記 CD 盤はアナログ盤の雰囲気が伝わってこないばかりか指揮者の解釈も伝わらないという重大な欠陥もあるように思える(もっとも、上の場合、私はベームのミサ・ソレムニス アナログ盤を聴いて、はからずもベームの解釈が作品の本質に迫っていないことがわかったわけだが...)。もし上記のようなことが多々あるならば、過去の遺産のリスニングの不可能性を受け入れなければならなくなるのかも知れない。ただ、上記 CD は「例外的に」音楽を伝えない CD 盤だったのだろう。そして、そのような「例外的に」音楽を伝えない CD 盤を「例外」と認識できるリスナーは、それでよし。

ここで、あえて、ベームの《ミサ・ソレムニス》のアナログ盤と CD 盤の印象の違いに焦点を当てて書いてみる。

・キリエ 12'18
不思議なことに、LP 盤のほうが音の分離が良い。LP 盤のほうがオケ、合唱、独唱の音がくっきり聞こえる。そのためか、演奏がより堂々たるゆっくりしたテンポに聞こえる。ベームはここで、キリエとアニュス・デイ(17'18)の音楽的対等性を示しているかようだ(あたかも両者の演奏時間が同じに思えるほどだ)。

礒山氏の解説にあるように「憐れんでください eleison」という命令形動詞は、ラテン語では “miserere”、ドイツ語では “erbarme dich” に相当する。"Christe" と "Agnus Dei" は同義なので「Christe eleison」と「Agnus Dei miserere nobis」は同じことを歌っているわけだ。

「この言葉(ヨハネ 1.29)を採用して呼びかけに変え、そこに『私たちを憐れんでください』という応答を組み合わせて反復したのが、〈アニュス・デイ〉のテキストです。こうした憐れみの祈りがミサ曲歌詞の基調をなすものであり、〈キリエ〉の出発点に帰るものであることは、言うまでもありません」

「キリエ」は、般若心経でいえば、冒頭からいきなり「羯諦羯諦波羅羯諦」を歌っていることになる。「キリエ」と「アニュス・デイ」の違いは前者が「回心の祈り(懺悔)」を受けるものであり、後者が「聖体拝領のさなか」に歌われるという違いだけなのだ。

さて、ベーム指揮の問題点は、マーガレット・プライスの歌唱にあると思う。この人一人がアンサンブルを乱しているように思える。第1声の「キーリエ」は「オーリエ」に聞こえる。力が入りすぎているのだ。これはベームのミスだ。ルートヴィヒが上手いだけにプライスは下手に聞こえる。

・グローリア 18'36
「グローリア」「クレド」は「動」であり「サンクトゥス」以降は「静」であること。ベームの指揮はその両者の対比を強調したこと。それらは、LP 盤で聴きなおしてみて改めてわかった。

LP 盤を聴いて改めて感じたことがもう一つある。それは、


Cum Sancto spiritu
in gloria Dei Patris
Amen


あなたは聖霊とともに
父なる神の栄光のうちにあられます
アーメン



が、延々と歌われるのが、CD ではエキサイティングではあったが、大げさすぎるように聞こえた。
それに対し、LP では、この大フーガは、その前の部分とのつながりがよく、その前の音楽の流れに乗っかって自然に聞こえる。
ここは、三位一体(あなた=イエス・キリスト、聖霊、父なる神の一体)を唱えている。

ところで、私は、クレドにおいて "Et in Spiritum sanctum"(そして聖霊を信じます)から "in remissionem peccatorum"(それは罪の許しを得させるものです)までの部分がすっ飛ばされていて「父と子と聖霊が一体であること(すなわち三位一体)」が軽んじられていると「ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べる(1)」で指摘したが、それ(三位一体の教義)は、グローリアにおける大フーガ "Cum Sancto spiritu in gloria Dei Patris Amen"(あなたは聖霊とともに父なる神の栄光のうちにあられます)で、すでに強調されているので、ベートーヴェンはクレドではその強調の重複を避けたのであろう。そのことも、LP 盤を聴いて初めてわかったように思う。

・クレド 21'44
素晴らしいクレドである。"Et vitam venturi saeculi Amen"(来るべき世の命を信ず アーメン)は、合唱が上手い。ここでも、SATB の4声がよく聴き取れる。この合唱は、さすがにオペラ指揮者ベームの面目躍如。

ところがである。クレドの最後は、独唱で閉められるが、ここがまたいまいちだ。合唱は良いのに、どうして独唱はダメなのか。

ところで《ミサ・ソレムニス》の合唱は、ヘンデルの《メサイア》の影響があると言われているが、"Et vitam venturi" を聞く限り両者はまったく異次元の宇宙に属していると思う。《メサイア》のソプラノは少年合唱、アルトはカンターテナーで歌われたはずだ。なぜなら、ヘンデルの時代は、女性は宗教音楽を歌うことを禁じられていたはずだ(あるいはもう解禁になっていたかも)。私は《メサイア》ではソプラノ・アルト合唱の超絶技巧はあり得ないと思う。

・サンクトゥス - ベネディクトゥス 18'17
上で述べた通り、ここで音楽が動から静に変わる。ベームは、その静を終楽章まで保持しているように聞こえる。しかし、それによって、作品123 を、グローリア、クレドの「動」、サンクトゥス以降の「静」という対比のパターンに閉じ込めてしまったかも知れない。あるいは、サンクトゥス以前とサンクトゥス以後に、音楽を切り離してしまったかも知れない。


Pleni sunt coeli et terra gloria tua
Osanna in excelsis


天と地はその栄光に満ちています
いと高きところにホサナ



で、ちょっと盛り上がるが、それは、その後の "Praeludium"と、ヴァイオリン・ソロおよびオブリガートのベネディクトゥスを美しく聴かせるためだけの音楽的な盛り上げの意味しか持たないように聞こえるのがベームの解釈の中途半端かも。
ベネディクトゥスの平安の世界。
ベームの指揮は、そこが美しい故にむしろ、クレドの激しさとの不連続性を感じさせる。


ところで、何故、グローリア、クレドでは多くの歌詞が歌われるのに対して、サンクトゥス以降は歌詞が少しであるのか。その理由は、言わずもがなだが、後者が聖体拝領のバック・グラウンド・ミュージックだからである。その間、聖体拝領が執り行われるのである。

ベネディクトゥスでの、ルートヴィヒの歌唱が素晴らしい。それを、きばったプライスがダメにしている。ヴァイオリン・ソロも素晴らしいのに..。

クレドのすごいフーガの後、その興奮を冷ますという目的で「サンクトゥス - ベネディクトゥス」が置かれたとして、それを「起承転結」の「転」ととらえるならば「結」のアニュス・デイをベームは如何に解釈しているか。

・アニュス・デイ 17'18
独唱者のアンサンブルがベストではない。それは、この盤の欠点である。ソプラノはヤノヴィッツでよかったのではないだろうか。
このアニュス・デイは、CD で聴くときれいだが微妙なニュアンスに欠け、LP で聴くと微妙なニュアンスと傷が両方聞こえるような気がする。要は、LP 盤と CD 盤を聴き比べられると、より深く聴けるということか。

「ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べる(1)」にて、私は「アニュス・デイ」でベートーヴェンは宗教音楽を書くよりむしろ私小説を書いたと指摘したが、ベームの演奏はその点中途半端だと思う。彼の演奏は世俗音楽と宗教音楽の折衷に終わっているように思える。

最後の "Dona nobis pacem" のあとのティンパニは「ジークフリートの葬送行進曲」の出だしに似てるような気がした。この曲は、最後は主人公の死で終わるのか?

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