2014年6月16日 (月)

上山和樹(うえやまかずき)著「ひきこもり」だった僕から を、どう読むか(2)同書後半部分「いま(いまから)」の索引を作る

【このエントリーは、http://koshiro-m.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-f86a.html の続きです】

 私は自分の外部(他者・現実)との間にある葛藤を、必死に自分の内部の葛藤に転化させようとしたのではないか。外部との間にある葛藤を首尾よく内部の葛藤に解消し尽くしたとき、私は真の「自分の道」を歩みだせたことになるのではないか ----- 私はそう考えていたのではないか。
 むしろ、内部の葛藤を、外部世界との格闘に転化させ得たとき、はじめて私は十全な仕方で自分を外の世界と交わらせることができるようになるのではないか。そのときはじめて、私は、自分の内に経験した葛藤を、自分の〈必然〉として引き受けられるのではないか。自分の内においてのみ孤立して経験された葛藤は、必然的存在たり得ぬまま、無の中に流産されるのではないか。そのことに、我慢ならない思いを抱えているのが、「ひきこもり」ではないのか。
 誰にも受け取ってもらえない葛藤は、そのまま悶死するしかない。自分の身に引き入れてしまった葛藤が、「何ごともなかったかのような」昼の世界で舞台を得たとき、それまで思いもしなかったような別の生がはじまるのではないか。
 そういう生がはじまって、はじめて他の人間の内にある同じような葛藤に、切り結べるのではないか。
 もっと無数の舞台が用意されるべきだと思う。いや、舞台とはすなわち個人のことだし、個人が自らをそういう舞台として引き受けるためには、やはり喜ばしくイレギュラーな出会いを知らなければならない。
 個人の覚悟が、すべて抽象的な知の世界に吸収されているように思うのは私だけでしょうか? ----- そうした欺瞞的な取り繕いを暴きたてる鍵が、この「トラウマ」というよくわからない単語にひそんでいるとうに思うのです。この単語は、まださまざまな起爆力を秘めているように思います。
(上山和樹(うえやまかずき)著「ひきこもり」だった僕から 231ページより)


Ueyama

上山和樹(うえやまかずき)著
「ひきこもり」だった僕から

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上山和樹(うえやまかずき)著
「ひきこもり」だった僕から
後半部分「いま(いまから)」の索引を作りました。

『「ひきこもり」だった僕から/後半部分「いま(いまから)」の索引』を作るプロセスで、私は、むしろ、ある意味で「索引を作る」という「行為・作業そのもの」が有用である(上山本を読み解くために)ということがわかりました。つまり、その索引は、「私以外の読者が上山本を読むとき」よりも「索引作成者である私自身が上山本を読むとき」に有用・・・であること、
「索引を作る人(私)」が「索引を作る人(私)」のために「索引」を作るということ(わたしがわたしのために作る)。それが分かった。

上山本のキーワードを拾うという行為は、おのずと、上山本の(ページ上の)展開を「追うこと」、さらには上山本の展開を「追いながら学習する」ことにつながると思います。
また、索引にピックアップする語として、どの語が重要な語か、ということを、自分の中で定義することによって・・・あるいは、索引にピックアップする「キーワード」の「重要度の」基準を設けることによって、「上山本読書」において、いままで、読み過ごしていた言葉に、ひっかかったりします。

「どの語が重要なキーワードか」は、「索引作成者」である私の主観に依存します。

--

最初は、「索引」だけでなく「用語解説」を作ろうとしたのですが、私には無理でした。なぜなら、上山本、および、私のうえやまさんへの理解力が足りないからです。
それに、「用語解説」作りは物理的にも難しい(たとえ「用語解説」らしきものができるとしても、それを作るにはあまりに長時間・長期間を要すると思ったからです)。

(2014−6−16)

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【「ひきこもり」だった僕から後半部分「いま(いまから)」の索引の前書き。重要なキーセンテンスをピックアップ】

経済的貧困とは、要するに「価値観を犠牲にして生活努力に没頭する」ことでしかなく、そこには人間として豊かな生活をどうするか、といった問いかけが欠落している。
(135ページ)

 私自身も、「お金を稼いでいる」「世間の人たちと、ふつうにつきあっている」時点で、「世界」の住人と見なされてしまうかもしれません。「お金」というのは、もう〈私〉と〈公〉をつなぐ唯一の接点であって、これを首尾よく扱えている時点で、これはもう〈世界〉の側の住人なわけです。あとで詳しく申しますが、ひきこもりの当事者の猜疑心の核心は、実にこの〈公私混同〉にあって、「お金をもらって生活を成り立たせている」時点で、最終的には「公私混同」だ、ということになるんだと思います。
 実際に生きていて生活をつくりだしていくにはお金を稼がなければならないわけで、こんなこと言われてもどうしようもないわけですが、こじれてしまったメンタリティの核心部分にそういうものが居座っているので、これはこれとして無視できません。

 私が訪問活動をしていて親御さんからお金を受け取る話に最後まで抵抗を感じたのも ----- そしてそれはいまだにこの活動の核心的ジレンマとなっていますが ----- 結局はここです。私は親からお金をもらった時点で、「親」の側についてしまう。「世界」の側、ということは「親」の側、「ニンゲン」の側についてしまう。これで、当事者サイドからのコミュニケーションへの欲望は著しくそがれてしまう。「親が連れてきた」という時点で、もう会ってくれないわけです。
 いまのところ、本人に会えるときには、「あなたと話した内容については、絶対にご両親には言わない」約束をして、これを実行し、そのことを親御さんにも理科いいただいています。そういう形で、なんとか「親サイド」と切れていることを具体的に示す必要がある。(142、143ページ)

 私自身は、ひとまず、こう申しあげています。「まず仕事」ではなくて、「まず、お金のからまない人間関係を」と。これは私自身の経過から出てきた後知恵でもあるんですが、ひきこもりが深刻化した事例において、信頼できる「人間関係」を経験しないままいきなり「仕事」というのは、はっきり〈無理〉だと思います。「気合いで乗りきれ」とか、精神論を持ちだしてきても何の意味もない。むしろ悪化させるだけです。
 これは実は、前に述べた「正義感」を、なんらかの形で共有できる人間関係を体験することだ、と言ってもいいかもしれません。ふつうの「稼ぎをつくるための職場」には、そういう「正義感の共有」という経験は、潜んでいない、どころか隠蔽され、お互いに見えないようにしてつきあわねばならないわけですね。
 ものすごく切実な正義感を内に抱え、そのために繰り返し傷つけられてきた人間にとって、「価値観を共有できないかもしれない人間関係」というのは、非常に恐ろしく見えます。正義感を共有できる人間関係をある程度経験し、自分の価値軸を社会の中に根づかせる努力を体験できるようになると、ケンカもできるようになるし、それほどいちいち価値観が合ってなくても乗りきるコツもわかってくるのですが、そういう経験がまったく持てないままにいままで来ている人間にとっては、自分が孤立してしまうか否かの生命線なわけです、これは。「価値観を共有できないままの人間関係」これへの恐怖が決定的なわけです。
 私はとにかく、「まず人間関係を」ということを強調しておきたい。これは鉄則だと思います。
(150ページ)

「価値観の問題を置き去りにしないで経済生活を生み出していくにはどうしたらいいか」
(156ページ)

〈公〉、つまり「外の世界」につながっていく納得できる希望の創出、というのが喫緊の課題
(160ページ)

 幼児期の虐待などが引き金になって生じているひきこもりについては、このようなことは直接はあたらないように見えるのですが、ちょっと抽象的に考えると、そうでもないように思います。
 つまり、親と子が相互に「縛りつけあう」状態というのは、実はお互いに、自分の中にある前提的な〈公〉の感覚を、本来は〈個〉として生きているはずの相手に、無条件に暴力的に強引に当てはめようとして、その当てはめの中で相手を押しつぶそうとしている、あるいは自由を奪おうとしている、ということではないか。
 母親による子どもへの支配においては、むしろ〈私〉の充満が支配を生んでいる、ということなのかもしれませんね。
 むずかしいのは、こうした状況があるとして、「じゃあ、お互いに無理の出ない〈公〉はどうやって導入すれば良いのか」。
 矛盾するようですが、「各人の個人性が最大限尊重されることをめざす〈公〉性の導入を」という、少々抽象的ですが理念としてはこれしかないようなことだと思います。そして、それには無条件に前提となるような〈公〉などないということを受け止める必要があると思うのです。「右寄り」の人も「左寄り」の人も、どうもこの〈公〉性を安易に措定して安心して、それでアクチュアリティを失っている気がします。
(178ページ)

 ひきこもり当事者で私の活動を悪く言う人は、たいてい、「溜まり場には出てこられる」人たちです。こうした人が、「親からお金をもらって訪問活動している」という私の活動について、「金を取っているのか」とか「親が連れてきた人間と会うわけない」とか言う。
 このアレルギー自体は、私自身もひどく共有していることで、気持ちはわかるんですが、せめて私がこういう活動をしようとするときに抱えるジレンマを理解してほしいし、そもそも、こうした悪口を言う人は、自分以上に深刻化して、家から一歩も出られなくなっている人についての認識がありません。
 出て来られるならいいけど、出て来られない人はどうするのか。あるいは訪問活動という形態そのものに難があるとしても、そもそも「ひきこもり」がすでに社会問題化していて、個人の努力ではどうしようもない状態になっている、ということについて、一緒に考えようという姿勢を持ってくれていません。この問題に取り組むスタッフにも生活があるし、社会事業として考えるならば、行政の協力は不可欠です。これは実は、当事者として「公私混同」してしまっているわけですね。
 でも、繰り返しになりますが、そもそも当事者たちの硬直した反応は、このひきこもりの問題をあまりにもないがしろにしてきたことから来ていると思いますし、私自身、そうしたことを考え直す作業を抜きに「治れ」とか言われても、拒絶反応を示すだけでした。そういう状況では、たしかに「親が連れてきた」人間になど会うわけがない。「また、おまえも説教しにきたのか」としか映らない。
 私のしている活動は、一歩間違えば、出向いていって、尻を叩いて「さあ、仕事しろ」と言いつのる、というような、最悪の形になってしまいます。私は、そんなことがしたいわけではじゃない。それは、精神的なパターナリズム(父権主義)の復活でしかない。それは最低です。
 じゃあ、どうするか。価値の問題を最大限尊重する形でいて、それでいて「生活」もつくっていける、そういう状況を、どうやって生みだすか。ここにすべてがかかっているわけです。私が「具体案」と言っているのは、そういう話です。
(181ページ)

 今回の執筆作業は、難渋を極めました。最初に申しあげましたが、「ひきこもり」というのは、そもそもが「コミュニケーションの困難」という問題であり、書いている作業そのものがその同じ困難に直面してしまうのです。文体から、用いる単語、語尾の調子、書いている内容まで、細かい選択の一つ一つがその文章の宛先を決めてしまい、逆に言うと他の人にはまったく伝わらない、あるいは拒絶の原因になってしまう。
 具体的に言うと、「本人向け」と「親向け」と「一般向け」でまったく変わってしまうし、それを意識しないでダラダラと書いても、誰にも伝わらない気がするのです。「言葉を発信し、それを受け取ってもらうということ」を、これほど強く意識させられたこともなかった。
 これは、実は活動していてもつねに直面している苦しさです。
 たとえばここでは、自分のことを「私」と呼んでいるわけですが、これも「僕」と言うべきかもしれない。それだけでもう価値の選択があるし、自分の話している位置を決めてしまう。「私」と呼ぶことで、自分と語りかける相手の関係のイメージを決めてしまうし、いつの間にか自分の意識しない枠組みまで規定している気がする。そういう一個一個の選択に、すごく悩みました。
 これだけで、実はもう「ひきこもり」というフィールドについてまわる困難を、実演する形で提示していると思うのです。つまり、ひきこもりは最初からコミュニケーションの困難を問題としている。だから、それを意識しないで、「客観的に」当たり前のように語っている言葉は、最初から何もわかってないことになる。
 「ひきこもりはコミュニケーションの問題である」という事実認識は、自己言及的に、いま語っている自分自身の言葉に疑問符を投げてしまうのです。「事柄に忠実に、わかりやすく語ろう」 ----- ひとまずは、それだけをモットーに、見切り発車で語りだしていくほかありません。
(192、193ページ)

 まとめますと、どうも、ひきこもりに関連してもっとも重大なテーマの一つは、「世界を意味で縛りつけることなしに、どうやって自分なりの正しさを生きるか」というふうにまとめられると思います。そしてここからさらに、「それを経済生活と両立させながら」という項目が加わる。
 お気づきかもしれませんが、「倫理と経済活動の両立」というだけなら、ひと昔前の世代の「共産主義」というのが、これを求めていたわけです。私が付加したいのは、「世界を意味で縛りつけることなしに」です(「計画経済」というのは、世界を意味でガンジがらめにする)。
 教義やイデオロギーに縛られることなしに自分なりに「正しい」と思えることを実行していて、それでいて経済生活を成り立たせること ----- たびたび申しますが、ここに最大のネックがあるように思います。
(201ページ)

 いま、〈公〉が失われている、と言います。それがいろんな弊害を生んでいるとされていて、だから〈公〉を復活させようといろんな試みがなされている。ひきこもり状態からの改善についても、「就職」など、〈私〉の世界に閉じこもってしまった当事者の心の中に少しでも〈公〉の領域がインストールされるように、ということで努力と課題設定がなされているように思います。
 しかし、たとえば「会社のために尽くす」ことは、〈公〉でしょうか? 自分の属している組織のために頑張ることは、ワンランク上の〈私〉にこだわっていることでしかないと思います。それは〈国〉とかいうレベルでも同断でしょう。〈国〉だって、個別特殊的な「組織」なわけです。
(209ページ)

 私は先ほど「正義感」と言いましたが、ひきこもりの問題は、実は〈公〉と〈経済生活〉をどうごまかさずにリンクさせるか、そこでどうやって実際に生きていける形をつくっていくのか、という問いと切り離すことができないと思うんです。
「とにかく就職しろ」というのは、ひきこもりにおいて本当に問題になっている〈公私〉の切り結びの問題を無視しており、それゆえ結局は本質的な呼びかけになり得ない。私は、そこでこそ本質的に考えたい。

 別の角度から申します。
 私はいま、お金をいただいて訪問活動をしていますよね。「お金」というのは、私が個人的な、つまり、〈私的な〉利益として受け取るものです。当事者たちは、ここに最悪の欺瞞を読み取る。「おまえ、俺のために努力していると言いながら、結局世間様と同じように、〈公私混同〉したまま自分の利益のためにやっているだけじゃないか」
 ここには、現代生活における「労働」というものが、どこまで行っても「私的利益」をつくりだすものでしかない、という問題提起がなされていると思うのです。
 先ほど「組織」と申しましたが、別に組織である必要はありませんね。私は個人でやっています。でも、「お金」をいただくという話になった瞬間に、これは「滅私奉公」ではなくて、「自分の利益を生みながらしている活動」になる。
 私はひきこもりの問題にとって、「個人としての真正な出会い」が何よりも重要だと申しました。ところが、「お金」がからんだ瞬間に、これは相互対称的な同等の関係ではなくて、「一方が他方から利益を受け取るための交換行為」になってしまう。「お金をもらったから、仕方なくおまえとつきあっている」これでは、ちっとも「真正な出会い」ではありません。
 もっとほかに、具体的に出ている問題を申しあげてみましょう。
 私は今回、自分の個人的いきさつについて、かなり詳しく書きました。これについてですが、私がしている「実名のカミングアウトを通じてのひきこもり関連活動」を、「自分の不幸をネタにしての売名行為」と吐き捨てるように言った高校教師がいます。もう本当にひどい思いをしたんですが、これは実は「おまえなんか、要するに公私混同しているだけじゃないか」と言っているわけです。
 この発言自体は言語道断というか、「カミングアウト」という社会的行為全般を侮辱する発言なわけで、ひきこもりなどについて実名を出すことにどれほどの切実な勇気がいるか、全然わかっていないのですが、問題提起としては、やはり〈公私〉のケジメが問題になっている。
 実は、私が「ひきこもり」というテーマに最大の優先順位をつけて取り組みだしたことによって、自分の中にある種の〈公〉がインストールされたように思うんです。私は、他の問題の一切を、この「ひきこもり」という光に照らしながら考えている。
 「全国ひきこもりKHJ親の会」代表の奥山さんは、非常に身近な知人から、「家族の問題を社会問題にすりかえやがって」と言われたそうです。ひどい話ですが、これも「公私混同しやがって」という非難ですね。
(209〜211ページ)

現在は、〈公〉ということがよく見えなくなっていますよね。どうも、「全員が共有できる〈公〉」というのが、あるように見えない。各人が自分の私的利害だけに執着していて、それ以外の問題設定がみんなに共有されているようには見えない。
(211ページ)

(2014−6−26)

(下に続く)

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2014年4月14日 (月)

上山和樹(うえやまかずき)著「ひきこもり」だった僕からを、どう読むか(1)

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Ueyama

上山和樹(うえやまかずき)著
「ひきこもり」だった僕から

を、どう読むか。

以下に、この本から「真理」を読み取るための準備を、ランダムに箇条書きする。

1
まず最初に、
「ひきこもり」は「甘え」ではない。
「ひきこもり」に対し、「甘えるな」という発言は、その発言自体甘えている(133ページ)。なぜなら、「ひきこもり」に対し、「甘えるな」と発言する人は、「ひきこもり」に対する、自らの「無神経」「無責任」をさらけ出している。そして、そのことによって、彼は、自らを、「ひきこもり」とは無関係な人間だと考え、「ひきこもり」の問題から目をそらし、逃げようとする。卑怯者だ。「ひきこもり」に対し「甘えるな」と発言する人は、自分に甘い。

2
この本は、
前半、「これまで(自分へ)」14〜127ページ
後半、「いま(いまから)」130〜234ページ
の2部からなる。
前半は、上山氏の告白録。後半は、「ひきこもり」に対する深い洞察を上山氏が(読者に、または受講者に)語るという文体で書かれてある。

3
前半の告白録を、できるだけ深く、正確に読むことは難しい。「上山氏は、チャレンジしては、挫折する。」その繰り返し。その過程を、真にとられるのは、思いのほか、難しいと思う。なぜなら、それは、複雑で混沌としているから。

4
「ひきこもり」は「病気」ではない。だから、薬では治らない。
「ひきこもり」は、アダルト・チルドレンではない。「ひきこもり」は、アダルト・チルドレンの「機能不全家族」とは、無関係な場合が多いようだ。
「ひきこもり」は、アディクションとは違う。依存症者は、その人が依存しているもの(アルコール、薬物、ギャンブル、セックスなど)をやめれば治る。依存症の治療法は単純である・・・依存症の治療法は「依存(その対象)を断つこと」・・・それに対し「ひきこもり」の治療法は医師やカウンセラーなどの専門家によっても確立されていないようだ。
「ひきこもり」は精神疾患、AC、アディクションとは区別されなければならない。

5
「ひきこもり」が、「AC、アディクション、精神疾患とは違うのは、当然だ」と思われるかも知れないが、では、どう違うのか?

6
「ひきこもり」は、不眠症、離脱症状、ヒステリー(運動能力を失う、知覚の麻痺)などの身体的な症状が、「精神疾患患者、依存症者」に比べて、顕著ではないようだ。

7
カフカの『変身』と違って、「ひきこもり」は自ら部屋の中に閉じこもる。グレーゴル・ザムザは、閉じ込められたのに対し、「ひきこもり」は自ら閉じこもる。しかし、両者は逆に考えることができるかも知れない。グレーゴル・ザムザは自ら閉じこもったのかも知れないし、「ひきこもり」は閉じこめられたのかも知れない。

8
「『ひきこもり』だった僕から」の後半「いま(いまから)」は、私たちの価値観を逆転させる。「私たちが価値があると思う価値観」は、よく考えて見ると、本来の意味を失っていると、思わせられる・・・。
上山氏は、後半の「いま(いまから)」において、非常に論理的に(若干抽象的だが)、私たちの考え方の隙を指摘し、見事な逆説を展開している。

9
とはいえ、私たちは、この本を冷静に、距離を置いて、緊張感をもって、客観的に読む必要があると思う。

(下に続く)

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