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2011年2月 5日 (土)

フランク・マルタンのオラトリオ「ゴルゴタ」その1

Martin

Frank Martin
Golgotha
Oratorio d'après les Evangiles et des textes de Saint Augustin
Judith Gauthier, soprano
Marianne Beate Kielland, alto
Adrian Thompson, tenor
Mattijs van de Woerd, baritone
Konstantin Wolff, bass
Cappella Amsterdam
Estonian Philharmonic Chamber Choir
Estonian National Symphony Orchestra
Daniel Reuss, conductor
Recoered: 2009

CD 1 / Part 1 [47' 45]
1. Choeur d'introduction. "Père! Père!" [7' 45]
2. Les Rameaux [9' 37]
3. Le discours au temple. "Quand serai-je assez heureuse" [11' 39]
4. La Sainte Cène [5' 32]
5. Gethsémané. "Voici l'Agneau divin" [13' 11]

CD 2 / Part 2 [46' 39]
6. Méditation. "Que dirai-je?" [8' 43]
7. Jésus devant le Sanhédrin. "Christ ! Divin Sauveur" [11' 09]
8. Jésus devant Pilate [8' 22]
9. Le Calvaire. "Ô mon Seigneur" [10' 24]
10. La Résurrection. "Ô mort" [8' 00]

Total Time [94' 24]

結論から言うと、期待していなかったにもかかわらず、フランク・マルタンの作品「ゴルゴタ」は素晴らしかったし、この CD における、ダニエル・ロイスの指揮、および、独唱者、合唱、オケの演奏も素晴らしかった。ただし、私は、この作品は第2部より第1部のほうが良いと思う。

この作品は、第1曲の最初の合唱に「Jusqu'à quel point nous as-Tu donc aimés! (父よ、あなたの愛はいかに大きかったことか!)」という歌詞が出てくるように、ある意味で「愛」がテーマであり、さらにキリスト教の神秘、奇跡を感じさせる作品であると思う。

第1曲の最後の合唱に「Quel prodige inouï! Quel mystère insondable! (かつて聞いたことがない奇跡よ! 唯一無二の神秘よ!)」とある。この歌詞に「奇跡」「神秘」という語が出てくる。しかし、その歌詞からだけではなく、私がこの作品は「キリスト教の神秘と奇跡を表した音楽だ」と思った理由は以下である:

20 世紀の音楽に特有な不思議な響きが、古典音楽のそれより、キリスト教の神秘と奇跡を表すのに適す。

少なくとも私は、バッハの「マタイ受難曲」より、マルタンのオラトリオ「ゴルゴタ」に神秘性を感じる。

私はこの作品の歌詞対訳も試みた(下記、良かったらご参照下さい)。しかし、私はフランス語はむかしほんのちょっと、かじっただけなので、私の歌詞対訳はフランス語の綴りの間違いや誤字脱字があるだろうし、日本訳も分かる範囲で訳したので誤訳、間違いが多いと思う(私はフランス語はほとんど分からないので、ブックレットに付いていた英訳、独訳をもとに訳した)。あしからず。

マルタンはバッハの「マタイ受難曲」を意識し模範にしたという。それはよくわかる。たとえば、第1部と第2部がほぼ同じ演奏時間で演奏され、その折り返し点、つまり第1部がゲツセマネの祈りとイエスの逮捕に終わり、第2部が、シオンの乙女の悲嘆(独唱と合唱)に始まるのは、バッハに倣っている・・・というか、真似をしている。また、音楽劇としては「ゲツセマネの祈り 〜 イエスの逮捕」「ピラトの尋問」「イエスの死の瞬間」を、クライマックスにしている点も、ゴルゴタはマタイに似ている。

しかし、18 世紀に書かれたバッハの「マタイ」とマルタンの「ゴルゴタ」は、ちょうど、18 世紀に書かれたオペラとワーグナーのオペラの違いを思わせるような違いを、私たちに聞かせる。「マタイ受難曲」は、

1. 福音史家の歌唱やイエス役の歌唱などの聖書の聖句
2. 台本作者によるレツィタティーフ、ダカーポ・アリア
3. 聴衆にとって親しみがあるコラール

が歌われ、その際、会衆は、2. レツィタティーフとアリアで受難曲に共感し、3. コラールにおいて精神的に受難曲に参加するというパターンで作品が構築されている。そして、そのパターンで、歌われるそれぞれの歌唱は切れ目があり、それぞれに番号が振ってある。すなわち「マタイ受難曲」は、計 68 曲という多くの曲からなる。

「ゴルゴタ」は、各場面において音楽に切れ目がない(切れ目なく流れる。流れがよい)。「ゴルゴタ」は、計 10 個の場面からなる(第1部と第2部、それぞれ5つの場面)。つまり、番号無しで歌われる劇音楽のという点で(オペラに当てはめれば)ワーグナー的だと思う。ちなみに、ペンデレツキの「ルカ受難曲」にもまた、歌に、第 27 番までの番号が振られていて、比較的短い歌によって音楽が分割されている点で「ルカ受難曲」は、バッハに近いと思う。

さらに音楽的なことを書けば、

ペンデレツキの「ルカ受難曲」には「b - a - c - h」という音形が重要な音形として用いられていたが「ゴルゴタ」には、それはない(よく聞くと、bach の音形が出てくる箇所もあるかも知れないが、それは意図された統一的音形ではなかろう)。その点でも、ペンデレツキのほうが、マルタンより、バッハに近いと思う。

それから、上に、ワーグナーの例を出したが、この作品を初めて聴いたとき、私はワーグナーの「パルジファル」に似てると思った。第1曲「Celui qui n'a pas craint de Te ravir Ta gloire(あなたの御ひとり子は、あなたの栄光を貶めることを欲せず)」の行進曲的リズムは全曲を統一しているが、その雰囲気が「パルジファル」に似ていると私は思ったのだ。次に私は、第1曲の出だしが、モーツァルトの「レクイエム」のアニュス・デイに似ていると思った。それから次に私は、この作品は、なんとなく、ビゼーの「カルメン」に似ていると思った(フランス語で歌われているからかな)。それから、ベートーヴェンの「ミサ・ソレムニス」に似ている箇所もあるような気もした。または、フォーレの「レクイエム」に似ているかも知れないと思ったり、グレゴリオ聖歌に似ているところもあると思ったり、映画音楽のように聞こえるところもあったりで、結局、マルタンのバックグラウンドは私には分からない。

話が前後するが、

「ゴルゴタ」の「マタイ」との違いは、福音史家の歌わせ方である。すなわち、「ゴルゴタ」においては福音史家を歌うソリストは特定されてない(ペンデレツキのルカ受難曲の福音史家はナレーターが受け持つ。それは統一されている)。たとえば「ゲツセマネの園」では、福音史家のパートが、アルトとテノールのデュエットによって歌われるが、それは非常に効果的である。この場面で、イエスは、いわば「できるなら死にたくない」と祈るために弟子のもとを離れ「向こうに」行ったり、戻ってきたりして、それを三回繰り返す。(細かいことを言えば)その間、三度弟子のもとを離れ、三度の祈りすべてが歌われるのは、この「ゴルゴタ」だけだ。これは、マルタンの聖書に対する積極的解釈だと思う:

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

「父よ! 父よ! 父よ! わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」

「父よ! 御心なら、この杯を私から取り除いて下さい。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」

(バッハのマタイでは、その祈りは二度だけ歌われる。それは聖書に従っている。つまりマタイによる福音書には、祈りは二つしか記されていない)

マルタンが「ゲツセマネ」の場面で、福音史家のパートをアルトとテノールに歌わせたのは「ゲツセマネ」の場面の緊張感を高めるためなのか、それとも逆に緊張を緩めるためか。いずれにしても「ゲツセマネ」の場面の福音史家のパートをアルトとテノールのデュエットに歌わせたのは効果的だ。その他の箇所、つまり、その他の福音史家の歌唱も、複数の声部、すなわちバスやテノールやアルトに歌わせることによって、この作品は、音楽の流れがよく聞こえる。そして、それゆえに、この作品は、リスナーを退屈させない。

さて、第2部のピラトは、テノール歌手によって歌われる。しかし、私は、マルタンによるピラトの性格描写は、あまり好きではない。ウィキペディアで調べてみると、ポンテオ・ピラトの生没年は不詳。テノールで歌われるピラトは、年齢が若いという印象を受けたので、本当に若かったのか調べてみたところ生年は不詳なのでわからなかった。しかし、若いピラトを演出するそのアイデアを、私は良いとは思われなかった。第2部 第8曲の終わりの場面で、ピラトを歌うテノール歌手が「Crucifierai-je votre roi?(あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか)」と高い音域で叫ぶ。それは、マルタンが、ピラトの歌唱を強い表現で強調したかったと受け取れる。その意図は、劇的緊張感を高めるためであろうが、しかし、私は、ピラトに特別な役割を与えるのはどうかと思う。つまり、

キリスト教の使徒信条に「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」とあるのは、史実性を示すものであり、キリスト教においてはこの記述は史実であるととらえられてきたが、今日では史実性を否定する主張も存在する。ウィキペディアより

つまり、ピラトとイエスの関わりは創作である可能性がある(ピラトとイエスは何の関わりもなかった可能性がある)。ピラトをどう扱うべきか? ピラトはイエスの無罪を主張したので(あるいは有罪判決に否定的だったので)正しい人だった? この問題は宗教的問題になるので考えないほうが良いだろう。しかし、演劇的効果という視点から考える意味はあると思う。マルタンは、イエスの受難の不条理を強調させるために、ピラトに、テノールの音域を与え、ピラトに血気盛んで多感な若い性格を与えようとしたのだろう。しかし、それは劇的効果を私に感じさせなかった。とにかく、マルタンのこのピラトは、バスが歌うのに比べたら軽い。

マルタンが第2部 第8曲においてピラト役をテノールに歌わせたことより、むしろ、すごいと私が思ったことがある。それは、第2部 第8曲「ピラトの尋問」で、民衆が「BARRABAS!(バラバを釈放しろ!)」「Crucifie!(十字架につけろ)」と歌う声に、女声がはっきり聞こえることである。「狂乱状態のユダヤの民衆、イエスを死に追いやったユダヤの民衆の中には女性も多かったのだろうか?」と私は思わせられた。そのように思わせるマルタンの描写に私は驚いた。(つづく)

フランク・マルタン作曲「ゴルゴタ」第1部 歌詞対訳
フランク・マルタン作曲「ゴルゴタ」第2部 歌詞対訳

【HMV.co.jp へのリンク】
フランク・マルタン:『ゴルゴタ』ロイス&エストニア国立響、エストニア・フィル室内合唱団(2CD)

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