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2010年7月24日 (土)

ズヴェーデンのマーラー5番を聴いて気づいたこと

Zweden

Mahler
Symphony No. 5
Jaap van Zweden
London Philharmonic Orchestra
Recorded live at Royal Festival Hall,
London, 16 January 2008
(C) London Philharmonic Orchestra Ltd.

私は、最終楽章「ロンド - フィナーレ」にこだわりながら、マーラーの第 5 交響曲を聴いてきたが、このズヴェーデンの演奏を聴いて、新しいことに気がついた。

「新しいことに気がついた」というより、マヌケなことに今更ながら私は、この作品の構造を、よくわかっていなかったことに気づいた。

私は「ロンド - フィナーレ」のクライマックスのファンファーレは、同楽章の冒頭の「青線」の部分から取っている考えた(midi)。

Mahler_5_5_1

しかし、今回、この旋律は、同楽章の下記フーガの2つ目のテーマ(midi)として、最終楽章に何度も出てくることに気づいた。

それなら「ロンド - フィナーレ」のクライマックスのファンファーレは(ジョナサン・ノットの記事で書いた)「大団円に至るまで、何度か繰り返される」というより、「ロンド - フィナーレの主要主題であり、大団円に至るまで、何度も、何度も繰り返し出てくる」ということになる。

Mahler_5_5_36_3

はたして、クライマックスのファンファーレは「ロンド - フィナーレ」の冒頭の(上記)青線から取ったのだろうか?

「ロンド - フィナーレ」のクライマックスのファンファーレ(midi)は、一義的には「第 2 楽章の再現」であるが、主題的にも「第 2 楽章の再現」であると考えるべきか。

Mahler_5_5_18

一方、「ロンド - フィナーレ」は第 4 楽章「アダージエット」の旋律が、何度もしつこいほど出てくる。第 4 楽章とこの第 5 楽章は、第 3 部としてまとめあげられているのだから、強い結びつきを持つのは当然。

第 4 楽章は「ロンド - フィナーレのための楽章」

ロンド - フィナーレは第 4 楽章への「回答」

となると、最終楽章の独立性が疑われてくる。
とにかく、第 5 楽章は第 4 楽章の回想が多過ぎる。しかもその回想は重要だ。

さらに「ロンド - フィナーレ」は「第 2 楽章を再現するファンファーレ」で結末する。「第 2 楽の再現を、大団円(結末)に持つ『ロンド - フィナーレ』の完結性(あるいは未完結性)」とはなにか?(この作品も第 1 交響曲と同様、つづきがあるような気がする)

そこで私は思ったのだが、マーラーの第5番は、全曲を一つの橋梁形式として聴かなければならない。
しかし、そうだとしても、全曲の落としどころである「ロンド - フィナーレ」の独立性が薄い。にもかかわらず「ロンド - フィナーレ」で、リスナーが受け取る強烈なカタルシス(浄化作用)の正体は何か?

そして、その橋梁形式(ブリッジ)の中心である第3楽章の重要性を、もう一度見直さなければならないと私は思った(マーラー5番の第3楽章ってなに?)。

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コメント

KMさん
こんにちわ。

すごいですね。私は理解できませんでしたので、とりあえずネットで調べて見ましたのですが。聞きかじりですので、違っていたら済みません。この曲はKMさんの言う3楽章が1・2と4・5の橋渡しをする上で重要であるらしいと言う点は知識とししましたが、やはり聴いて見ないといけませんね。マーラーのなかでは聴きやすいと解説がありますので、落ち着いたらちゃんと聴いてみたいです。お勧めはありますか?

前回はコメント遮ってしまい済みません。

モーツアルトの曲調の変化とフリーメーソンとの関係は興味深いです。世に言う陰謀論ではなく、フリーメーソンが芸術(建築家)を主に立ちあげれれた科学的であり、現実的な思考集団であったと考えれば、KMさんのお話のような影響もあったかもしれません。アーサー・コナン・ドイル氏もフリーメーソンであったとされていますが、不思議な出来事を好む傍らで医師であり「リアリズム」を重視したシャーロック・ホームズシリーズを書き残しましたし。
TVとコンサートの解説書の知識でしか有りませんがべートーベンは確かに理論的作曲したと聞いています。第九は顕著にそれが表れていると。確かに「モード奏法」は演奏の理論であるかもしれませんが、技法としての指針。聴かせる側の教本であり、聴く側が意識すべき物ではない。わかりやすい解説ですね。
アメリカ音楽の総決算というのは、すごい発想だとおもいます。またできたらすごいことのように思いますが相当の困難があるでしょうね。
南北アメリカの先住民・アングロサクソン・アイルランド・ユダヤ系・スペイン・メキシコ・南洋諸島もアメリカですし、クラシックなど輸入音楽もありますし、モザイク国家たる歴史の浅いアメリカの音楽の形というのはどういう物になるのか興味がある反面、今のままでいい気もしますね。美人・美男子を数十名モンタージュでかさねると、特徴が無くなり平凡な顔になる。そういう実験をした方がいましたが。対立・淘汰を行わない限りモンタージュの状況になりそうですから、そういった行為が必要なのかもしれませんね。ジャズって何だろう。確かにすでにアメリカの音楽を代表しているとも思えませんね。
~彼がモダン・ジャズを理解できないのであればそれは問題ないのですが、彼がモダン・ジャズを「理解したつもりになり、そのうえで軽視している」のであれば、それは問題だと思います。~
確かに。聴く人に思い込みがあると解釈をねじ曲げてしまいますね。確かにこれは明確な誤解。コルトレーンの晩年の作品の方が良かったこもしれませんね。
私もそうでしたが、芸術関連に思い込みは厳禁だと思うのです。背景を知るのは良い事ですが。KMさんが私に書かれた事ですね。Amazonででしたか。

>キース
「サンベア・コンサート」はKMさんには魅力的だったということですね。

Amazonで販売前商品の拙速な講評は控えた方がと書きましたら、別の変なのに絡まれてしまいまして、難儀しています。礼儀知らずで読解力がないようで、揚げ足取り専門ですね。あきれかえります。まあ”孫子兵法逃げるが勝ち”を決め込みますが。

そう思うとKMさんは、良く私など相手にしてくれましたね。ましてやブログまで案内までしていいただくなど。今思うと不思議です。見返すと因縁でしたからね。(笑)

>マーラー5番
>お勧めはありますか?

シノーポリ盤(ASIN: B000I0S8EC)です。これは、マーラーに厳しい渡辺さん(トロンボーン吹きによるクラシックの嗜好)も推してますので間違いないです。安いし。

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC-%E4%BA%A4%E9%9F%BF%E6%9B%B2%E7%AC%AC5%E7%95%AA-%E3%82%B7%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%9D%E3%83%AA-%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%82%BC%E3%83%83%E3%83%9A/dp/B000I0S8EC/

>モーツアルトの曲調の変化とフリーメーソン
或る人から指摘されて「なるほど」と思ったんですが、
「ピアノ協奏曲 第20番 ニ短調 K466」
これは、ベートーヴェンが論理的なカデンツァを書いたほど、形式的に論理的。内容は、ある意味、特異です。
これは、モーツァルトの作品履歴において「突然変異」的に現れた作品だと思うのですが、その作曲時期が、ちょうど、モーツァルトがフリーメイソンに加入した時期と重なっています。

あと、これは私以外の人は言っていないであろう学説なのですが、

モーツァルトが残した借金の謎の答えは「フリーメイソンへの献金」だと思います。モーツァルトという人は、多額の借金を残すような性格(金銭感覚欠如)には思えない。彼は几帳面な人だったと思います。浪費癖とかギャンブル依存症とも考えられない。モーツァルトのように作曲に追われた人間に、浪費やギャンブルに溺れる物理的余裕(時間)があったのか・・・。私のイメージでは、彼は毎日、作曲に没頭していたと思います。でなければ、あんなに猛スピードで音楽を創作できなかったでしょう。

以上は、私が勝手に抱いたモーツァルトのイメージに基づく推測に過ぎませんが・・・。

>べートーベン
私が、ベートーヴェンを論理的だと感じるのは、運命交響曲です。これは「運命の動機」で全曲を統一し、しかも「ハ短調からハ長調へ」という調性で全曲を統一しています。ほぼ同じ時期に書かれた「田園」は、標題音楽として、完璧な傑作です。それら二つをほぼ同時に書いた彼は論理的思考の持ち主だったと思うのです。思考による推敲が好きな作曲家だったと思います。

>アメリカ音楽の総決算
>南北アメリカの先住民・アングロサクソン・アイルランド・ユダヤ系・スペイン・メキシコ・南洋諸島もアメリカですし、クラシックなど輸入音楽もありますし

そうなんです。
前にも書きました通り、同じ4ビートでも、ジャズとカントリーの4ビートはなぜ違うのか、どう違うか。そういうことを考えるとき、私は、やはり、文化人類学的、レヴィ=ストロース的構造主義的に考えても「面白い」と思うのです。構造主義を持ち出すと「音楽は考えるものではない」と反論されるのですが、しかし「南北アメリカの先住民・アングロサクソン・アイルランド・ユダヤ系・スペイン・メキシコ・南洋諸島、さらにアフリカ系アメリカ人」これらの音楽を学術的観点から整理するのがわかりやすいし、また、その必要があると思うのです。

一例を挙げれば、

ガーシュインのフォーク・オペラ「ポーギーとベス」は上記の意味で、学術的に考えないと、見えない作品ではないかと思います。

なぜ、舞台がヒューストンなのか。キャットフィッシュロウに住んでいた人たちは、どんな立場の人間だったのか。あそこはゲットーだったのか。なぜ登場人物が黒人ばかりなのか。なぜ主人公は障害者なのか。なぜベスはポーギーを捨てニューヨークに行くのか。なぜ、二度も殺人事件が起きるのに真犯人が捕まらないのか(警察は真犯人を捕まえる気がない。そのことを見ても、キャットフィッシュロウはゲットーに思える)。二度も殺人事件が起きるオペラというのは、そもそも陰惨です。なぜガーシュインはそういうオペラを書いたのか。「サマータイム」が歌われた直後、人が死ぬ(クラウンがロビンズを殺す。クララが嵐にさらわれる。ポーギーがクラウンを殺す)ということは、「サマータイム」を始め多くの名曲が明るい歌であるのに「ポーギーとベス」って決して明るい作品じゃないですよ。というか、そもそも、そのこと(ポーギーとベスという作品のストリーや作品全曲のトーン)が知られてないと私は思う。

そして、こんなにいっぱいリスナーに疑問を起こさせるオペラは、失敗作です。私は「ポーギーとベス」は偉大なる失敗作だと思っています。

オペラはアリアを中心に書かれていないと面白くありません。しかし「ポーギーとベス」は「合唱」を中心に書かれています(合唱を中心に物語がすすむ)。合唱が中心だと「オラトリオ」になっちゃいますね。たしかに「ポーギーとベス」は黒人霊歌(宗教音楽)を大胆に取り入れてます。その点「オラトリオ」に似てます。

作曲の技法は、ワーグナーを思わせるほど野心的であり、ミュージカルとして聴けば、後にバーンスタイン(ウエストサイド物語)に影響を与えたであろうほど、モダンで新しいです。

そもそも、名作オペラというものは、音楽に作品を語らせねばなりません。「ある晴れた日」を聴けば蝶々夫人のキャラクタ(およびストーリー)がわかる。歌劇カルメンの「ハバネラ」も同様です。ところが「ポーギーとベス」にはそれがない(作品や登場人物ををイメージさせるアリアの欠如)。

ワーグナーのオペラは、上演時間が長い大作が多い割にはストーリーは意外に単純です。「トリスタンとイゾルデ」は「惚れ薬の話」と言えば、ストーリを一言で言えますね。

「ポーギーとベス」という作品について語ろうとすると、もしかしたら1時間ぐらいかけて語っても語れないかも知れません。

長くなりましたが、ガーシュインの「ポーギーとベス」は、ある意味、アメリカ音楽の複雑さが、アメリカ大陸の複雑さという事情が現れた作品だと思います。

私は「ポーギーとベス」全曲を4種類買いましたが、いまだに、この作品に疑問を抱いています。「ポーギーとベス」って、黒人を題材にしながら、もしかしたらユダヤ人のことをテーマにした作品ではないか。最後にベス(ポーギーも)がニューヨークに行くというのは「屋根の上のヴァイオリン弾き」と似てます。「屋根の上のヴァイオリン弾き」が原作ではイスラエルに行くとなってます。それなら「ポーギーとベス」はシオニズムを匂わせます。

それから、そもそも、ポーギーの職業ってなに? 物乞い? 街で、物乞いして得たお金、それを元手にサイコロ賭博して生計を立てていた。博徒? これは、非現実的です。彼はやはり、キャットフィッシュロウというコミュニティに経済的に依存していた。また精神的にも物理的にも、そのコミュニティに援助を受けて生きていたと考えるのが自然だと思います。こういう、わかりにくいシチュエーションに主人公を置くのもまたオペラ「ポーギーとベス」の欠陥だと思います。ヴォツェックやピーター・グライムズにはそのような欠陥はないと思います。

まだまだ続きます。

ポーギーの障害の程度は、どの程度だったのか。

サイモン・ラトルの DVD 盤では、杖をついて立って歩いてました。しかし、ハリケーンの場面では、彼は、夫の遭難を見て錯乱したクララが外に飛び出すのを制止することはできない・・・そういう行動ができない。隅のほうで座ったままでいるしかできない。それなら、どうやって大男のクラウンを殺すことができたんでしょうかね。そもそも彼の障害の原因は病気? 怪我? 私がこれにこだわるのは、実際にこのオペラを上演する際に、演出上どうしても、ポーギーの障害の程度を聴衆に目視させなければならないからです。

私が演出家なら、このオペラ全体を「ポーギーが見た夢」にします。そうすれば、ポーギーが障害者であるという文字通り演出上の「障害」も消えるでしょう。

KMさん
>ベートーベン
「運命」はCDが有るのでたまに聴きますが、難しさを感じていました。KMさんの言うような理屈であれば納得もできます。音楽のバックボーンをあまり見ていない私には、理論を語るのは無理ですがそのような解釈にも感覚的な物ですが賛同はできます。すると「合唱」のように私などの素人が聴いても雰囲気の中に入っていけるというのは、彼が私の様な大衆に自らの理論の解釈を付けて作曲したということになるのでしょうか。KMさんの理論から思いついた事なのですが。

>フリーメーソンとモーツアルト
おもしろい解釈ですね。陰謀論よりは遙かに興味深く思います。
ここも思いつきなのですが、フリーメーソン何も政治集団ではない。思想家や政治家もいたでしょうが、発足の由来を考えれば、芸術家や学者もかなりいるはず。サロンのような公の場での議論は無かったかもしれませんが、何らかの交流があったと思うのです。欧州文化(音楽以外もですが)に多くの影響を及ぼしたのではないかと、歴史的背景から想像するのですが。
近代に至るまでユダヤ系の会員はいませんでしたから、ユダヤ的な宗教観は入って(キリスト教が影響を受けているので完全とはいえないでしょうが)かったのかもしれませんでしたし。

>構造主義
確かに楽しむ為の音楽で有れば、構造主義的な考えは不要でしょう。私には決定的な教養がたりませんから。しかし文化人類学という概念から音楽を考えれば必要な作業だと思います。KMさんの言われる通り、ワーグナーのオペラにかんする部分である、音楽で物語を表現する以上、内容は単純で有るべきだと思います。するとガーシュインの「ポーギーとベス」の音楽と場面の不一致・筋のつながりに疑問をが残る手法というのは良い物とはいえなですね。ユダヤ系の人の中にある心理的な物であれば、ある種突飛ともいえる思考的な作品も考えられるのではないかとおもうのです。
音楽から話がそれますが、ご存じとは思いますが、先の大戦で暗号解読の中心になったメンバーの中心的存在はウィリアム・フレデリック・フリードマンであり、彼らは文字の反復率を統計的に測定しそこから語彙探るという独特な理論で日本の暗号解読を行ったときいています。この方法は現在、考古学の古代文字解析に応用されていたと思います。またフランツ・カフカという作家も中途半端な作品を書く変わった作家であると(読んだ訳ではないので)きいています。ともにユダヤ文化の中で育ったと聞いています。
何かガーシュインに通ずる物があるのよう思えてきます。音楽を体系的にとらえようとすれば、文化人類学や民族(ユダヤは正確には民族ではありませんが)歴史・宗教などの背景を無視する事はできないのかもしれませんね。

TTOSHIさんへ

>「運命」
私は、絶対音感がないので、調性に弱いんですが、
第1楽章 冒頭がハ短調。再現部の第2主題がハ長調
第3楽章 ハ短調、トリオはハ長調
第4楽章 第3楽章の回想がハ短調。ハ長調にて終わる。
だと、思います。
ここまで徹底して「同主調」で音楽を盛り上げた交響曲は、他にないでしょう(あるかも知れませんが)。
「合唱」は、また違う意味で、ユニークで論理的(?)です。この作品は、第1楽章から第3楽章までが、すでに、ベートーヴェンが過去に書いたすべての交響曲を超えるような複雑で優れた音楽です。なのに、最後の楽章で「このような音ではない」と言ってそれら第1楽章から第3楽章をわざわざ否定し、(親しみやすく、素朴な、誰でも歌える、演奏できる)「歓喜の歌」が始まる。これも、ある意味、変ですね。ジャズに例えれば、ジャズのライヴで、コンサートが4分の3ぐらい終わったところで、いよいよ佳境に入ったところで(例えば)ジャズ歌手が「これまで歌った歌は聴かなかったことにして下さい。私は、いままで歌った歌を全部否定します。私が本当に歌いたかった歌はこのような音ではない」とか言ったら聴衆は戸惑うでしょう。

そういうことは、よっぽどの優れた音楽家でないと許されないことだと思います。つまり「第九」は第1楽章から第3楽章までが優れているから、第4楽章が生きるのです。もし第1楽章から第3楽章に少しでも「傷」とか「瑕疵」とか「隙」があったなら、「このような音ではない」・・・って、しらけませんか。

>フリーメーソンとモーツアルト
私が思うに、モーツアルトは晩年フリーメイソンの「階級」(wikipedia 参照下さい)が上がって「義務として課された献金金額」も高くなったんんじゃないかと推測しています。ただ、こんなことは記録が残りませんから、謎のまま、永遠に分からないかも。

>ポーギーとベス
「ポーギーとベス」については、脱線してしまいました。

つまり、私は、このオペラについて私が感じていることを夢中で書いちゃって、話が脱線してしまいました(ポーギーとベスは、もともとのデュボース・ヘイワードの原作も読んでみなければならないし)。

「アメリカ音楽論」は学問的にアプローチしなければ・・・。

ただ、このオペラについて、私が気に入っているレビューは、HMV.co.jpの

ラトル指揮「ポーギーとベス」DVDに対する率直なレビュー、

http://www.hmv.co.jp/userreview/product/list/829223/
「2006年01月04日
素晴らしいオペラというか、ミュージカルなのだと思いますが、サマータイム以外に聴いたことのある曲もなく、やや冗長。もう少しコンパクトにまとめても良いのではないでしょうか。ガーシュイン先生には申し訳ありませんが、演奏時間3時間は正直なところいささか疲れました。」

私も3時間以上は長過ぎると思います。

卑近な例で、この「3時間以上」というのを考察しますとこのオペラを上演するために、「午後11時」に幕を閉じるためには、休憩を30分取れば、7時半に開演しなければなりません。これは、興行主泣かせですよね。カーテンコールまで入れれば、4時間かかるオペラは、実際、平日に公演するのは困難じゃないかな(まあ、それはこの作品について、本質的な問題ではありませんが)。

しかし、私も、「ポーギーとベス」CD 3枚組を聴いていて、2枚聴いたあとで「まだ、あと1枚あるのか」と、何度も、疲れさせられました。短縮版もありますが、それでも2時間半。大した変わりありませんでした。

ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスのオペラに3時間以上のオペラは多いですが、退屈しません。それらは、歌手の登場のさせ方などに工夫があります。たとえばリヒャルト・シュトラウスの「バラの騎士 全3幕」において、元帥夫人は、第2幕には登場しません(第3幕には後半しか登場しません)。変な言い方ですが、この場合、聴衆は、元帥夫人の(舞台上の)不在を楽しめるのです。「ポーギーとベス」にはオペラとして、オペラファンが聴きやすいような工夫に欠け、オペラファンが、暗黙に了解しているルール、オペラファンが無意識にまたは意識的に共有しているルールがない・・・幕の切り方など・・・。脚本が悪いのか。
そんなこんなで、この作品の上演の機会、およびレコーディングは少ないのでしょう・・・。

ニコラウス・アーノンクールという人が久しぶりに「ポーギーとベス」の新譜を発売したので買ってみようと思います(落ち着いたら)。わたしにとって、この作品は気になる作品であるには変わりませんから。

今回もまた、アメリカ音楽論から脱線しました。アメリカ音楽論については、いつか、大胆な提起をしたいと思います。その時は、またおつきあい下さい・・・というか、いきなりですが、

音楽論的には、ジャズは、黒人よりもむしろ、白人が形成した音楽ではないかと私は、思います。私は「ブルーノート」という音階を研究しようとして火事に遭っちゃいました。「ブルーノート」って、黒人の音楽をベースに白人が形成した音階に思えます。「ブルーノート」は、変な表現ですが、汎用性ありますよね。ビートルズだって、これを武器にしたらしいですし。

どうも、私はビートルズが気になります。彼らは、アイルランド系ですが黒人音楽も得意にし、クラシック音楽を取り入れ、東洋音楽も取り入れ、しかもアイルランド系としてのアイデンティティも持ってたようです。All You Need Is Love をオルガンで弾いたら、すごくきれいなのに驚きました。これは、ケルト系の音楽に関係あるのではないかと私は考えたりしましたが、こういうことは、本当に、ジャンルを超え音楽を語れる人にご教示頂きたいです。

最後に、

私は学生時代、カフカを専攻しました。ドイツ文学部出身です。

KMさん こんばんわ
>「運命」
なるほどです。「ここまで徹底して「同主調」で音楽を盛り上げた交響曲は、他にないでしょう」確かにそうかも知れません。もしあれば「運命」以上に有名になっていたかも知れませんね。
>「合唱」
そう思います。私も最初にコンサートに行って解説・曲を考えながら聴いてみて感心しました。1~3楽章を手を脱がず技巧を凝らし作り、全てを否定し、私のような素人ですら聞いたら忘れられない様な旋律へと繋いでいく。コンサートで聞いていると1~3楽章の完成度や緊張感が無ければ、言い方は悪くなりますが”間抜け”になってとても後世に残る曲にはならなかったと感じます。
>「フリーメーソンとモーツアルト」
フリーメーソンについては、そのように考えるべきでしょう。通俗的な考えには納得出来ませんし、フリーメーソンの本質をとらえているとは思いません。ニューエイジ運動の輸入期の世代でしたから、いい加減な話をずいぶん読んだので、陰謀論のような俗説は信用していません。KMさんの考え方は確かに確証はありませんが、理論的であると思います。
>ニコラウス・アーノンクール
ガーシュインのオペラも指揮するのですね。ちょっと以外でした。私の持つ少数のクラシックCDの中で「運命」の指揮者がアーノンクール氏です。
>アメリカ音楽論
ブルーノートのアルフレッド・ライオン氏は白人でしたね。彼が東海岸JAZZを完成させたと言っても良いことを考えると、白人流の流儀が入っていてもおかしく無い。欧州への留学者も多いですし。ゆっくりご高説拝聴させていただきたいと思います。
>ビートルズ
音楽の多様性には驚きますね。日本では、市川監督が金田一シリーズに使用し、破綻させず映画を締めていますし、ビートルズではありませんが、レノンのイマジンを忌野清志郎氏が日本語で彼の節回しで歌っていますが、これも破綻は見せていない様に思います。原曲の持つ多様性にあるようにもとれますね。毛色の変わったJAZZミュージシャンがトリビュートしているのですが、やはり解釈は単調なのですが、破綻はしないですむ。原曲の音楽の多様性を感じます。
>カフカ
文章や論点の明快さなど教養がおありになる方だと思っておりましたが。まさに釈迦に説法ですね。県内最低ランクの高校出ですから、音楽や知識も付け焼き刃なうえ感覚的なもの。しかも音感も良いとは思えませんし。
こんな私がお話相手では、申し訳ないというか、欲求不満がたまらないか心配です。

この項はコメントが多くなりましたので、私がお話出来る項に話題コミで書かせていただきますね。 
お休みなさい  TTOSHI

>音楽や知識も付け焼き刃なうえ感覚的なもの。
>こんな私がお話相手では、申し訳ないというか、欲求不満がたまらないか心配です。

私は、TTOSHIさんと私との考えに共通性を見出し、そして、TTOSHIさんから多くを学んでいます。

これからも、コメント宜しくお願いします。

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