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2009年7月30日 (木)

大地の歌 聴き比べ(1)

大地の歌、下記を聴き比べた。


Bruno Walter/Kerstin Thorborg(conralto)/Charles Kullman(tenor)/Vpo/1936年ライヴ録音


Bruno Walter/Kathleen Ferrier(conralto)/Julius Patzak(tenor)/Vpo/1952年


Bruno Walter/Mildred Miller(mezzo-soprano)/Ernst Haefliger(tenor)/NYP/1960年


Otto Klemperer/Christa Ludwig(mezzo-soprano)/Fritz Wunderlich(tenor)/PO/1964-66年


Leonard Bernstein/Dietrich Fischer-Dieskau(bariton)/James King(tenor)/Vpo/1966年


Eliahu Inbal/Jard van Nes(mezzo-soprano)/Peter Schreier(tenor)/Frankfurt Radio Symphony Orchestra/1988年


Sinopoli/Iris Vermillion(conralto)/Keith Lewis(tenor)/SKD/1996年


大植英次/Michelle DeYoung(mezzo-soprano)/Jon Villars(tenor)/Minnesota Orchestra/1999年


Boulez/Violeta Urmana(mezzo-soprano)/Michael Schade(tenor)/Vpo/1999年


Michael Tilson Thomas/Thomas Hampson(baritone)/Stuart Skelton(tenor)/San Francisco Symphony Orchestra/2007年ライヴ録音


Kent Nagano/Christian Gerhaher(baritone)/Klaus Florian Vogt(tenor)/Orchestre Symphnique de Montréal/2009年ライヴ録音

聴き比べた結果、私の思ったことは、大地の歌は、マーラーの遺言ではなく、マーラーのヨーロッパ文明への(批判、反抗を含めた)決別宣言として聴くのがよいのではないかということであった。

まず、歌詞を見ていこう。

第1楽章《世の悲しみについての酒歌 Das Trinklied von Jammer der Erde》

Schon winkt der Wein im gold'nen Pokale
(すでに ウインクしている ワインが 黄金の杯の中で)
Doch trinkt noch nicht, erst sing' ich Euch ein Lied!
(だが まだ飲むなかれ まず私が一曲の歌を歌おう)

この詩の主人公はおそらくいつも変なことをやっているので、周囲の人間に変人と見られているのかも知れないが、酒宴の席で酒が回っていよいよ「酒を飲む」という時になって「まだ飲むな」と乾杯を制され、8分もかかる歌を歌われたら、はたの人は迷惑するだろう。原詩の漢詩も、そうなっているのだろうかと私は思い、下記のページを見てみた。

大地の歌にまつわる7つの唐詩(一)

Das Lied von der Erde

(上記のページはリンクについて何もうたってなかったので、勝手にリンクさせていただきました)

悲来乎 悲しみ来たるか
悲来乎 悲しみ来たるか
主人有酒且莫斟 主人酒有るも且(しばら)く斟(く)む莫(なか)れ
聽我一曲悲來吟 我が一曲悲来の吟を聴け

李白の詩(偽作説もある)では酒が杯につがれてはいないが、この人(李白の詩の主人公)も、やはり主人に「酒を酌むな。その前に我が一曲を聴け」と言っている。この人は、酒を飲む前に(つまり、しらふの状態で)歌を聴いて欲しかったのだろう。酒がまわって酔っぱらってしまったら、いつものばか騒ぎになってしまう。いつものばか騒ぎになってしまったら、彼の歌は、酒宴の参加者に受け入れられないだろう...と彼は思ったのだろう。つまり普段の酒宴に代えて、今日は特別、趣向を凝らし「悲哀」の酒を飲むために「私の歌を、飲酒前に聴いて欲しい」と彼は言っているのだろう。

李白の詩は、比較的穏やかだが、マーラーの音楽は激しい。この第1楽章の出だしは、マーラーの交響曲の出だしの中で最も激しいものではないだろうか【注1】。交響曲第2, 6番の出だしも激しいが、それらはソナタ形式の序奏であり、その序奏よりさらに激しい主題を導くためのものであると思う(第8番の開始は大地の歌のそれと似てる。しかしそれはすぐに心地よい驚嘆に変わる)。それに対し(大地の歌の第1楽章もソナタ形式的だが)この楽章の最初の音形(4度上がって4度下がる)は、歌の区切りと締めくくりに現れる(Dunkel ist das Leben, ist der Tod. のあとに現れる)。この音形がこの楽章のクライマックスの一部であるならば、この交響曲の第1楽章は、いきなりクライマックスから始まると言ってよかろう。ではなぜ、マーラーは、こんなに激しい音楽を第1楽章に置いたのだろうか。東洋的無常観を強調するためか。それもあろう。しかし、第1楽章の詩には、自嘲的な要素もある。

Das Lied vom Kummer soll euch in die Seele
(この悲しみの詩は 君らの魂に)
Auflachend klingen!
(笑いながら響け!)

この人も、半分、苦笑とともに歌っていると私は解釈する。つまり、第1楽章は、激しい悲嘆を歌うだけでなく、苦笑を伴う(あるいは誘う)アイロニー、またはクールさ(ニヒルさ)で歌われ演奏されて良いと私は思う。

第1楽章の詩には、お猿さんが出てくる。この歌は、お猿さんが現れたあと「Jetzt nehmt den Wein! さあワインをとりたまえ」に行ってすぐ終わる。私はこのお猿さんが(滑稽と言えば言い過ぎだが)少し可笑しい。

Seht dort hinab! Im Mondschein auf den Gräbern
(あそこを見下ろしたまえ! 月明かりの中に 墓場に)
hockt eine wild gespenstische Gestalt.
(野生の幽霊のような姿がしゃがんでいる)
Ein Affe ist’s! Hört ihr, wie sein Heulen
(あれは猿だ! その遠吠えが聞こえるか?)
Hinausgellt in den süßen Duft des Abends?
(夕暮れの甘い香りに 金切り声を出しているのが)

この節では、この詩が歌われた時刻が夕暮れであり、月明かりのもとでの酒宴であることが分かる。おそらく、第1行目のワインも月明かりに照らされ「さあ飲んでくれ」といわんばかりにウインクしている(月の光が酒の面に反射しウインクしている)。また、この人たちは、墓場を見下ろしてるのだから、高台で飲んでいる。面白いのは、ここで出て来るお猿さんである。このお猿さんは元気がない。猿はしゃがんでいる、またはうずくまっている(hocken この動詞はこの作品によく出て来る)。「heulen」には「メソメソ泣く」という意味もあるから、猿はうずくまってメソメソ泣いているのかも知れない。したがって、この猿は、私たちが動物園で見るような叫び声をあげながら木の枝を跳び回る元気さがない。月に向かって咆哮する獣の野生性、孤高性がない。この詩が言いたいのは「猿でさえ人の墓場で(猿は墓を作らないからこの墓場は猿の墓場ではない)人の死を悼んで泣いているのだ。いわんや人はなおさら人の死を悲しむべきじゃないか」ということであろう。

少し、茶化して書いたが、私が言いたいのは《大地の歌》の詩は情景描写、自然描写が豊かであり、それが情感を盛り上げていること。それらの詩は大地についての詩であるとともに浮世についての詩であること。すなわち、die Erde wird lange fest steh'n und aufblüh'n im Lenz.(大地はゆるぎなく存在し、春には花を咲かせるだろう)と、Nicht hundert Jahre darfst du dich ergötzen, an all dem morschen Tande dieser Erde! (浮世のもろいがらくたに興じる時は百年と続かない)のところで、前者では「Erde」に「大地」の意味を持たせ、後者では「Erde」に「浮世」の意味を持たせている。大袈裟に言えば後者の「浮世」「現世」という概念がこの作品のキーであると私は思う。いわば「あの世における救済の希求とこの世における救済の希求」の対峙。「永遠性や救済はあの世にあるのかこの世にあるのか」「あの世とこの世とどっちが大事か」に対する解答がこの作品の意義であり、この詩が歌っているのは20世紀の実存主義が重んじる日常性の重視であり、それは反プラトン主義、反イデア論、反キリスト教的救済、反ドイツ観念論哲学であり、そして、それらは時代の先取りでもあるが、東洋人にとっては当たり前の無常観であった。ショーペンハウエルやニーチェが西洋文明・思想の終焉を宣言したが、ショーペンハウエルやニーチェの思想は東洋にはすでに1000年以上も前に存在していた。そのことが笑えるということではないだろうか。第1楽章には悲嘆と自嘲の両義性があると思う。

長くなったが、私が、以上のように、大地の歌の歌詞にこだわる理由は、この作品は(詩も音楽も)情景描写が多く、そして、その情景描写がリスナーに、より豊かに、よりリアルに、よりダイレクトに伝わる演奏が、良い演奏だと思うからだ。

もう一つ、私が「大地の歌は、マーラーの遺言ではなく、ヨーロッパ文明への(批判、反抗を含めた)決別宣言」と考える理由は、マーラーの伝記的事実による。マーラーは、この作品の作曲中にアメリカに渡っている(1907年)。1908年9月19日には、プラハで第7番をみずからの手で初演している。もしかしたら、マーラーは大地の歌も、機会があれば、みずからの手で初演することを考えていたかも知れない。さらに、マーラーは大地の歌の完成後、第9番を完成し、さらに、あともう少しのところで第10番をも完成させるところまでいった。したがって、それら旺盛な創作意欲と精力的な活躍のなかで書かれた大地の歌は、最後の「遺言」とみなさないほうが適当であろう。

さらにもう一つ、この作品の第3, 4, 5楽章は、第1, 6楽章の厭世主義的テーマとは無縁である(第5楽章はスケルツォの性格を持つかも知れない)。明るい三つの楽章(第3, 4, 5楽章)を作品に挿入する余裕。

彼が「この世」に「あばよ!」と別れを告げたのは、見せかけであり、実は、第6楽章の「告別」は、この世にではなくヨーロッパに「あばよ!」と言ってるように私には思えるのだが。

第2楽章《孤独者 秋にて Der Einsame im Herbst》
この楽章の歌詞についての言及は都合により後回し。

第3楽章《青春について Von der Jugend》
この詩で、Pavillon aus grünem / Und aus weissem Porzellan(緑と白の陶器でできたあずまや)は誤訳であり、原詩では「陶」という名字の人のあずまやである。いくら、西洋人が、8世紀中国の事情に疎く、ベートゲの訳詩に異国情緒を求めたとしても、陶器でできたあずまやの実在を前提に、この詩を読んだと考えるのは、奇妙に思える。これは私の勝手な解釈だが、マーラーはベートゲの詩から「陶器でできたあずまや」をイメージしたのではく「陶器に描かれたあずまや」をイメージし作曲したのではないかと思う。

第4楽章《美について Von der Schönhheit》も「陶器に描かれた絵を見ている」というシチュエーションがイメージできると思う(19世紀、中国の陶磁器はヨーロッパの収集家のために沢山ヨーロッパに輸出された)。それらの陶器は、お茶碗のような小さいものではなく、壷のようなものであり、その壷は2つある。一つには乙女たちの絵が描かれてあり、もう一つには、馬に乗った少年が描かれてある。マーラーは、頭の中で二つの絵を交互に見ている。後者(馬に乗った少年)が唐突に出て来るのは、二つ目の絵に目をやった瞬間であろう。そして再び一つ目の絵(乙女たちの絵)に目を移し曲が終わる。

第2楽章《孤独者 秋にて Der Einsame im Herbst》
この孤独者は、原詩では女性である(ベートゲの詩では Der Einsame が男性形なので男性である)。
私はこの詩の最初の2節には、傷があると思う。

Herbstnebel wallen bläulich überm See,
(秋の霧は沸き立っている(沸騰している) 青く 湖面に)
Vom Reif bezogen stehen alle Gräser;
(霜におおわれ すべての草々は立っている)

1行目、霧が沸騰している。さながら、冬場の露天風呂の熱湯の湯気が沸き立ってるように...。そしてその霧は、多分、湖面に停滞している。であれば、なぜ「すべての草々は霜におおわれている」のが見えるのだろうか。つまり、石原裕次郎の歌ではないが『夜霧よ今夜もありがとう』のように(原詩では夜である)霧で視界が遮られ、あたりは見えないはずだ。少なくとも、遠くのほうは見えないはず。近くは見えるとしても...。なのに「すべての」草々が見えるのは変だ。

Man meint, ein Künstler habe Staub von Jade
(人は思う 一人の芸術家が ヒスイのちりを)
Über die feinen Blüten ausgestreut.
(かよわい花々に まき散らしたかのように)

私は「ヒスイのちり(Staub von Jade)」というのを見てみたい。ヒスイをすり鉢ですりつぶして粉にしたようなものであろうか。繰り返すが「すべての草々をおおう霜が 花々にまき散らされたヒスイのちりのように見える」。非常にシュールな光景・・・。というか、この描写にも無理があるように思う。深い霧のなかに上記光景(ヒスイのちりをまき散らしたかのように云々)が視覚されるというのもイメージの一人歩きのように思える。そこで考えたのだが、これもまた、陶器に描かれた絵ではなかろうか。その絵は大きな陶器の複数の場所に描かれてある。一つの場所には「霧に沸き立つ湖面」一つの場所には「霜に被われた花のように輝く草々」すなわち、それらは別々の像ではないだろうか。

Der süße Duft der Blumen ist verflogen;(花々の甘いかおりは 飛び去り)以下も同様に無理がある。

Ein kalter Wind beugt ihre Stengel nieder.
(冷たい風が それらの花々の茎を打ちひしぐ)

「花々の茎を打ちひしぐ」ほど強い風が吹いているのなら、霧は晴れているはずである。【注2】

もっともこの詩の第1節と第2節は、第3節(Mein Herz ist müde. 私のこころは疲れている)以降の心理描写の「まくら」であり、第3節以降を盛り上げるためのイメージである。したがって、少々の無理や傷は見過ごすことにします。

第6楽章《告別 Der Abschied》
これも面白い。この楽章は、ご承知のように、二つの詩をミックスしたものである。そのために主客の転倒がある。
この詩のストーリーは以下の通り。

前半でAさん(私)が、Bさん(友)の(旅立ちの)別れの時を待っている。Bさんはなかなか来ない。Aさんは20分も待たされる。そしてやっとBさんが現れる。が、大したことは言わないでさっさと行ってしまう。Bさんの言葉はここで直接話法つまり一人称(ich 私が主語)になっている。それによって第6楽章の詩はコンテクストの上で主客転倒が起きている(前半ではAさんが私、後半ではBさんが私)。

思うに実は別れを告げられるAさんも別れを告げるBさんも、マーラー自身ではないのだろうか。Aさんの「Ich wandle auf und nieder mit meiner Laute 私は琴を持って あちこち歩いた(23行目あたり)」という言葉と、Bさんの「Ich wandle nach der Heimat, meiner Stätte! 私は故郷へと歩いて行く 私の居場所へと(最後から6行目あたり)【注3】」。前者と後者は文章表現が似ているが、両者の詩句が歌われるときに奏される音楽もまた似ているような気がする。

というわけで、私の考えは以下である。

マーラーは、Bさんである。Bさんはヨーロッパに別れを告げる人。Aさんは、別れを告げられる人。Aさんは、ヨーロッパに残される人。

しかし、マーラーは別れを告げる人の立場だけでなく、別れを告げられる身になってこの楽章を書いていると思う。第6楽章ではAさんの描写のほうが長い。Bさんは長いことAさんを待たせたくせに、別れの言葉は比較的あっさりしている。行き先も連絡手段も言わない。勿論、この別れが、今生の別れであれば行き先も連絡手段も告げる必要はない。しかし、そうであるなら、なぜBさんは、Aさんを長く待たせるのだろうか。

Bさんはさっさと行ってしまう。それは中島みゆきの『別れうた』の「立ち去るものだけが美しい」という詩句を私に思い出させる。大地の歌の第6楽章は旅立つ者の「引き際のよさ」「いさぎよさ」「かっこよさ」を歌っているのではないだろうか。

マーラーは、過去に(誰かから)別れを告げられた経験を、この楽章で追想しているのではないだろうか。そして今度は、ついに、みずから別れを告げる番になった。その立場の逆転をこの楽章に書いたのではないだろうか。(つづく)

【注1】もし大地の歌がバイロイト祝祭劇場で初演されたとしたら聴衆は第1楽章の激しさにびっくりしただろう。バイロイトでは、指揮者もオケも聴衆に見えない。オーケストラピットの明かりも見えない。暗闇の中、大地の歌の第1楽章が奏されたら、おどろきのあまり聴衆はざわめくかも知れない。

【注2】第2節は、Bald werden die verwelkten, gold'nen Blätter / Der Lotosblüten auf dem Wasser zieh'n.(やがてしおれた金色の蓮の葉は水面に流る)という美しい詩句で締められるので、私の主観では、冒頭はむしろ「秋の霧は晴れわたり」のほうがいいかもしれない。ちなみに原詩に霧は出てこない。

【注3】馬に乗っているのに「歩いて行く」というのは変だと思うのだがそれはこだわり過ぎでしょうね。

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