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2009年7月31日 (金)

大地の歌 聴き比べ(2)

まず『トロンボーン吹きによるクラシックの嗜好』にすぐれた解説があるので、そちらを先にお読みになったほうがいいと思います。

マーラー:大地の歌/大植英次 [RR]
マーラー:大地の歌/ブーレーズ [DG]
マーラー:大地の歌/マイケル・ティルソン・トーマス [SFS Media]


Klemperer


オットー・クレンペラー
クリスタ・ルートヴィヒ(メゾ・ソプラノ)
フリッツ・ヴンダーリヒ(テノール)
Philharmonia Orchestra, New Philharmonia Orchestra
1964-66年録音

ヴンダーリヒは、数ある大地の歌のテノールパート歌唱のベストだと思う。第1楽章、高音域にいっても発声において声質が変化しない。分かりやすくいって高音がうわずらない。どの音域も均等な発声に聞こえる。激しく歌っているがまったく無理を感じさせない。おそるべき歌唱力。そういう歌い方は、第1楽章の激情と達観の両義性にピッタリあっている。それからドイツ語の発音が美しい。本当にこの人の歌唱は「達観」という言葉はピッタリであり、ドイツ語が良く伝わる。それに比べ、ルートヴィヒの歌唱は面白くない。細いヴィブラートが耳障り。それはシュワルツコップの歌い方に似ているが、それはシュワルツコップがやるからいいのであって、ルートヴィヒが真似をしても意味ないと思う。どうせ真似をするなら、そっくりさんと思えるぐらい真似をしたほうがましだったと思う。クレンペラーの指揮は、言及すべきことは特に無し。


Oue


大植英次
Michelle DeYoung(mezzo-soprano)
Jon Villars(tenor)
Minnesota Orchestra
1999年

私はこの演奏が一番好きだ。「トロンボーン吹きによるクラシックの嗜好」にもあるとおり、テノールのヴィラースの歌唱はリズムが狂っているような感じがある。デヤングはドイツ語の発声がイマイチで、意味がダイレクトに伝わってこない。そういう欠点を補っても余ある大植の指揮は、表情豊かだが、なんとなく座りの良い演奏であり、盛り上がる。第6楽章を聴き終えたあとは「ああ、いい歌を聴かせてもらった」としみじみ音楽に浸りきった快感を感じる。それは、客観的データからも分かる。大植の演奏はテンポの遅いクレンペラーの演奏より長いのだが(前者が66分37秒、後者が64分5秒)短く感じる。実は私が「大地の歌聴き比べ」をするきっかけになったのは、この大植の演奏と、その演奏についての「トロンボーン吹きによるクラシックの嗜好」の解説文だった。そして「大植を超える演奏はあるか」という探求が目的だった。が、それは結局見つからなかった。ただし、それは、私の好みに照らしてであり、大植の大地の歌が決定盤であることを意味しない。


Boulez


ブーレーズ
ヴィオレッタ・ウルマーナ(メゾ・ソプラノ)
ミヒャエル・シャーデ(テノール)
Vpo
1999年

私は、ヴィオレッタ・ウルマーナが非常に気に入った。私はこの人の歌唱を聴いたとき、彼女はドイツ語圏の出身なのかどうかわからなかった。というのは、ドイツ語の発声はうまいのだが、ドイツ人の発音には聞こえなかったからだ。この人は、リトアニア出身だった。ブーレーズが彼女の歌唱をもり立てていると言うべきだろうが、私は逆に、ウルマーナが、ブーレーズの指揮をもり立てているという感じがする(第6楽章)。彼女の歌唱は、非常に落ち着いている。第6楽章で、もう音楽が終わったかと思うところで、最後の"ewig"が弱く歌われる。最後の"ewig"は美しいというより、この作品の命であり意味であろう。ウルマーナはそれを、おそらく偶然の産物ではなく、頭で理解して歌った(ただし断言できない)。ところで、くだんの第4楽章の早口で歌われるところは、私も何を歌っているのか聴き取れないので、下に訳してみた。

Das Roß des einen wiehert fröhlich auf,
Und scheut, und saust dahin,
Über Blumen, Gräser wanken hin die Hufe,
Sie zerstampfen jäh im Sturm die hingesunk'nen Blüten,
Hei! Wie flattern im Taumel seine Mähnen,
Dampfen heiß die Nüstern!

一頭の馬が陽気にいななく
(多分騎手の一蹴りに)おそれて暴れ そしてドンドン駆けて行く
ひづめは花々や草々の上をよろめく(多分後ろ足だけで立ったりして)
ひづめは花々を踏みつぶす その急な嵐に花々は地に落ちる
ハイ!(酔いしれたように)よろめく中 たてがみがはためく
熱い息をだす馬の鼻よ!(多分息を切らせた)

上は全部馬の描写であった。(私の印象では)一頭の馬が急に走り出し、そして息が切れたので止まった。その一瞬一瞬の馬の動作の描写。その短い時間を一気に描写しているので、マーラーの音楽もテンポが速いのだろう。「dampfen」には「湯気を出す」という意味があるが、この詩は(花が咲いている季節なので)真冬ではない。したがって、馬の鼻息が湯気のように見えるのではなく、ただ熱いということだろう。


Thomas


マイケル・ティルソン・トーマス
Thomas Hampson(baritone)
Stuart Skelton(tenor)
San Francisco Symphony Orchestra
2007年ライヴ録音

まず始めに言っておくが、21世紀のわれわれが聴くフィッシャー=ディースカウの大地の歌における表現は大袈裟過ぎるし古臭い。それにもかかわらず、私は男性歌手が歌った偶数楽章の歌唱としては、ディースカウがベストだと思う。ディースカウが歌うリートは上手すぎて、鼻につくものが多いが、大地の歌はなんだかんだ言っても上手いと思うし、それはディースカウの数少ない成功例だと思う。それに比べると、トーマス・ハンプソンは弱い気がする。どこが弱いかは、後日書く。なぜなら、私は、ティルソン・トーマスのマーラー:交響曲全般に対し疑問を抱いているからである。彼のマーラーは、大地の歌のほか第1, 4, 5番しか私は持たない。いまティルソン・トーマスの第7番を注文しているので、それを得てからティルソン・トーマスのマーラー解釈をさらにじっくりと研究したい。


Nagano


ケント・ナガノ
Christian Gerhaher(baritone)
Klaus Florian Vogt(tenor)
Orchestre Symphonique de Montréal
2009年ライヴ録音

結論から言うと、これは良いと思う。

ただこの CD は変である。一応、ソニーの商品のようだが、OSM(Orchestre Symphonique de Montréal)のロゴも入っているので共同制作かも知れない。このCD盤は半分 OSM が自主制作したナガノのお披露目公演(ではなくお披露目CD盤かな?)かも知れない。ところがその辺りのいきさつが、ライナーノートに書いてない。それから、ジャケットのデザインが悪い。見開きにすると、ナガノの顔写真が2枚並ぶのが、うっとうしい(下図)。それぐらいなら、まあ普通の手抜きだが、もっと変なことがある。このリーフレットには、大地の歌のドイツ語テキストとその対訳(輸入盤なので英語対訳)が付いてない(もしかして付け忘れ?)。これを買った英語圏、フランス語圏の人は、何を歌っているのか分からずに、この演奏を聴くことになる(ただし各曲についての解説は付いている)。さらに、もっと変なことがある。この録音は下記のとおりライヴとスタジオ録音の合体なのである。いや、ライヴ録音とスタジオ録音の合体ということ自体は構わない(というかこの音源は、そんなことは気にならない出来だと思う)。しかし、そのいきさつがライナーに書いてない。

Recording dates:
13 (live), 14 (live) and 15 (studio) January 2009; 15 February 2009 (overdub with Klaus Florian Vogt)

Recording venue:
Salle Wilfrid-Palletier, Place des Arts, Montréal (January) and BavariaMusikStudio, München (February)

以上色々ケチをつけたが、それらは、この商品を評価する時、本質的なことではない。一番気になるのは、録音つまり音質である。例によって私のオーディオ装置は骨董品なのでよくわかないが、どうなんだろう。この録音はひどく悪くはないが、ナガノの音を伝えているのかどうかはわからない。

この盤は、Gerhaher(ゲルハーエル、ゲルハーヘル、ゲルハーアー)の美声が気に入った。聴きやすい演奏である。そのかわり聴き応えはない。にもかかわらず、私がこの演奏を推すのは、この演奏がグールドの下記の言葉(有名なコンサート・ドロップアウト・インタビューから)に、真っ向から対抗する演奏であると思うからである(ナガノの演奏は聴き応えないが、やっぱり大地の歌は名作だと思わせる)。グールドは西洋的ポリフォニー(および対位法)しか知らなかったようである。東洋音楽にもポリフォニーはある。日本の音楽もポリフォニーを持つ(小唄、端唄でさえ歌と三味線はまったく違う旋律を同時に演奏する)。


I happen to be a bit of a connoisseur where the Mahler 2nd and the Mahler 8th are concern, I think they’re quite the best of Mahler, I think that Mahler was at his best contrapuntally bombastic, and at his worse being influenced by Chinese poetry, I don't think really think that aaam, the thinness of Mahler as represented by Das Lied and Kindertotenlieder in the 4th Symphony shows what he really could do, not only orchestra but as a contrapuntal craftsman aaa I think that that great glorious mass of texture that we aa saturate ourselves with in the 2nd and 8th symphony, is what Mahler was all about

マーラーの2番と8番に関しては私はちょっとしたマーラー通なんですから。この2曲はまったくマーラーの傑作だと思っています。私は、マーラーが対位法的に大言壮語する場合がマーラーの最高とみなし、中国の詩の影響を受けた場合が最低だと思っています。私には「大地の歌」や第4交響曲の「亡き子を偲ぶ歌」(「子供の不思議な角笛」の思い違いか --- 訳注)の希薄さが、オーケストラの処理ばかりでなく対位法の名匠としてのマーラーの本領を示すものであるとは、とても考えられません。われわれが第2および第8交響曲で夢中になる、あのテクスチュアの偉大な輝くばかりの塊(かたまり)こそマーラーのすべてだと思います。

Nagano2

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2009年7月30日 (木)

大地の歌 聴き比べ(1)

大地の歌、下記を聴き比べた。


Bruno Walter/Kerstin Thorborg(conralto)/Charles Kullman(tenor)/Vpo/1936年ライヴ録音


Bruno Walter/Kathleen Ferrier(conralto)/Julius Patzak(tenor)/Vpo/1952年


Bruno Walter/Mildred Miller(mezzo-soprano)/Ernst Haefliger(tenor)/NYP/1960年


Otto Klemperer/Christa Ludwig(mezzo-soprano)/Fritz Wunderlich(tenor)/PO/1964-66年


Leonard Bernstein/Dietrich Fischer-Dieskau(bariton)/James King(tenor)/Vpo/1966年


Eliahu Inbal/Jard van Nes(mezzo-soprano)/Peter Schreier(tenor)/Frankfurt Radio Symphony Orchestra/1988年


Sinopoli/Iris Vermillion(conralto)/Keith Lewis(tenor)/SKD/1996年


大植英次/Michelle DeYoung(mezzo-soprano)/Jon Villars(tenor)/Minnesota Orchestra/1999年


Boulez/Violeta Urmana(mezzo-soprano)/Michael Schade(tenor)/Vpo/1999年


Michael Tilson Thomas/Thomas Hampson(baritone)/Stuart Skelton(tenor)/San Francisco Symphony Orchestra/2007年ライヴ録音


Kent Nagano/Christian Gerhaher(baritone)/Klaus Florian Vogt(tenor)/Orchestre Symphnique de Montréal/2009年ライヴ録音

聴き比べた結果、私の思ったことは、大地の歌は、マーラーの遺言ではなく、マーラーのヨーロッパ文明への(批判、反抗を含めた)決別宣言として聴くのがよいのではないかということであった。

まず、歌詞を見ていこう。

第1楽章《世の悲しみについての酒歌 Das Trinklied von Jammer der Erde》

Schon winkt der Wein im gold'nen Pokale
(すでに ウインクしている ワインが 黄金の杯の中で)
Doch trinkt noch nicht, erst sing' ich Euch ein Lied!
(だが まだ飲むなかれ まず私が一曲の歌を歌おう)

この詩の主人公はおそらくいつも変なことをやっているので、周囲の人間に変人と見られているのかも知れないが、酒宴の席で酒が回っていよいよ「酒を飲む」という時になって「まだ飲むな」と乾杯を制され、8分もかかる歌を歌われたら、はたの人は迷惑するだろう。原詩の漢詩も、そうなっているのだろうかと私は思い、下記のページを見てみた。

大地の歌にまつわる7つの唐詩(一)

Das Lied von der Erde

(上記のページはリンクについて何もうたってなかったので、勝手にリンクさせていただきました)

悲来乎 悲しみ来たるか
悲来乎 悲しみ来たるか
主人有酒且莫斟 主人酒有るも且(しばら)く斟(く)む莫(なか)れ
聽我一曲悲來吟 我が一曲悲来の吟を聴け

李白の詩(偽作説もある)では酒が杯につがれてはいないが、この人(李白の詩の主人公)も、やはり主人に「酒を酌むな。その前に我が一曲を聴け」と言っている。この人は、酒を飲む前に(つまり、しらふの状態で)歌を聴いて欲しかったのだろう。酒がまわって酔っぱらってしまったら、いつものばか騒ぎになってしまう。ばか騒ぎになってしまったら、この人の歌は、酒宴の参加者に受け入れられないだろう...と彼は思ったのだろう。つまり、いつもの享楽の酒宴に、今日は、一興、さらにおいしい酒を飲むために「私の歌を、飲酒前に聴いて欲しい」と彼は言っているのだろう。

李白の詩は、比較的穏やかだが、マーラーの音楽は激しい。この第1楽章の出だしは、マーラーの交響曲の出だしの中で最も激しいものではないだろうか【注1】。交響曲第2, 6番の出だしも激しいが、それらはソナタ形式の序奏であり、その序奏よりさらに激しい主題を導くためのものであると思う(第8番の開始は大地の歌のそれと似てる。しかしそれはすぐに心地よい驚嘆に変わる)。それに対し(大地の歌の第1楽章もソナタ形式的だが)この楽章の最初の音形(4度上がって4度下がる)は、歌の区切りと締めくくりに現れる(Dunkel ist das Leben, ist der Tod. のあとに現れる)。この音形がこの楽章のクライマックスの一部であるならば、この交響曲の第1楽章は、いきなりクライマックスから始まると言ってよかろう。ではなぜ、マーラーは、こんなに激しい音楽を第1楽章に置いたのだろうか。東洋的無常観を強調するためか。それもあろう。しかし、第1楽章の詩には、自嘲的な要素もある。

Das Lied vom Kummer soll euch in die Seele
(この悲しみの詩は 君らの魂に)
Auflachend klingen!
(笑いながら響け!)

この人も、半分、苦笑とともに歌っていると私は解釈する。つまり、第1楽章は、激しい悲嘆を歌うだけでなく、苦笑を伴う(あるいは誘う)アイロニー、またはクールさ(ニヒルさ)で歌われ演奏されて良いと私は思う。

第1楽章の詩には、お猿さんが出てくる。この歌は、お猿さんが現れたあと「Jetzt nehmt den Wein! さあワインをとりたまえ」に行ってすぐ終わる。私はこのお猿さんが(滑稽と言えば言い過ぎだが)少し可笑しい。

Seht dort hinab! Im Mondschein auf den Gräbern
(あそこを見下ろしたまえ! 月明かりの中に 墓場に)
hockt eine wild gespenstische Gestalt.
(野生の幽霊のような姿がしゃがんでいる)
Ein Affe ist’s! Hört ihr, wie sein Heulen
(あれは猿だ! その遠吠えが聞こえるか?)
Hinausgellt in den süßen Duft des Abends?
(夕暮れの甘い香りに 金切り声を出しているのが)

この節では、この詩が歌われた時刻が夕暮れであり、月明かりのもとでの酒宴であることが分かる。おそらく、第1行目のワインも月明かりに照らされ「さあ飲んでくれ」といわんばかりにウインクしている(月の光が酒の面に反射しウインクしている)。また、この人たちは、墓場を見下ろしてるのだから、高台で飲んでいる。面白いのは、ここで出て来るお猿さんである。このお猿さんは元気がない。猿はしゃがんでいる、またはうずくまっている(hocken この動詞はこの作品によく出て来る)。「heulen」には「メソメソ泣く」という意味もあるから、猿はうずくまってメソメソ泣いているのかも知れない。したがって、この猿は、私たちが動物園で見るような叫び声をあげながら木の枝を跳び回る元気さがない。月に向かって咆哮する獣の野生性、孤高性がない。この詩が言いたいのは「猿でさえ人の墓場で(猿は墓を作らないからこの墓場は猿の墓場ではない)人の死を悼んで泣いているのだ。いわんや人はなおさら人の死を悲しむべきじゃないか」ということであろう。

少し、茶化して書いたが、私が言いたいのは《大地の歌》の詩は情景描写、自然描写が豊かであり、それが情感を盛り上げていること。それらの詩は大地についての詩であるとともに浮世についての詩であること。すなわち、die Erde wird lange fest steh'n und aufblüh'n im Lenz.(大地はゆるぎなく存在し、春には花を咲かせるだろう)と、Nicht hundert Jahre darfst du dich ergötzen, an all dem morschen Tande dieser Erde! (浮世のもろいがらくたに興じる時は百年と続かない)のところで、前者では「Erde」に「大地」の意味を持たせ、後者では「Erde」に「浮世」の意味を持たせている。大袈裟に言えば後者の「浮世」「現世」という概念がこの作品のキーであると私は思う。いわば「あの世における救済の希求とこの世における救済の希求」の対峙。「永遠性や救済はあの世にあるのかこの世にあるのか」「あの世とこの世とどっちが大事か」に対する解答がこの作品の意義であり、この詩が歌っているのは20世紀の実存主義が重んじる日常性の重視であり、それは反プラトン主義、反イデア論、反キリスト教的救済、反ドイツ観念論哲学であり、そして、それらは時代の先取りでもあるが、東洋人にとっては当たり前の無常観であった。ショーペンハウエルやニーチェが西洋文明・思想の終焉を宣言したが、ショーペンハウエルやニーチェの思想は東洋にはすでに1000年以上も前に存在していた。そのことが笑えるということではないだろうか。第1楽章には悲嘆と自嘲の両義性があると思う。

長くなったが、私が、以上のように、大地の歌の歌詞にこだわる理由は、この作品は(詩も音楽も)情景描写が多く、そして、その情景描写がリスナーに、より豊かに、よりリアルに、よりダイレクトに伝わる演奏が、良い演奏だと思うからだ。

もう一つ、私が「大地の歌は、マーラーの遺言ではなく、ヨーロッパ文明への(批判、反抗を含めた)決別宣言」と考える理由は、マーラーの伝記的事実による。マーラーは、この作品の作曲中にアメリカに渡っている(1907年)。1908年9月19日には、プラハで第7番をみずからの手で初演している。もしかしたら、マーラーは大地の歌も、機会があれば、みずからの手で初演することを考えていたかも知れない。さらに、マーラーは大地の歌の完成後、第9番を完成し、さらに、あともう少しのところで第10番をも完成させるところまでいった。したがって、それら旺盛な創作意欲と精力的な活躍のなかで書かれた大地の歌は、最後の「遺言」とみなさないほうが適当であろう。

さらにもう一つ、この作品の第3, 4, 5楽章は、第1, 6楽章の厭世主義的テーマとは無縁である(第5楽章はスケルツォの性格を持つかも知れない)。明るい三つの楽章(第3, 4, 5楽章)を作品に挿入する余裕。

彼が「この世」に「あばよ!」と別れを告げたのは、見せかけであり、実は、第6楽章の「告別」は、この世にではなくヨーロッパに「あばよ!」と言ってるように私には思えるのだが。

第2楽章《孤独者 秋にて Der Einsame im Herbst》
この楽章の歌詞についての言及は都合により後回し。

第3楽章《青春について Von der Jugend》
この詩で、Pavillon aus grünem / Und aus weissem Porzellan(緑と白の陶器でできたあずまや)は誤訳であり、原詩では「陶」という名字の人のあずまやである。いくら、西洋人が、8世紀中国の事情に疎く、ベートゲの訳詩に異国情緒を求めたとしても、陶器でできたあずまやの実在を前提に、この詩を読んだと考えるのは、奇妙に思える。これは私の勝手な解釈だが、マーラーはベートゲの詩から「陶器でできたあずまや」をイメージしたのではく「陶器に描かれたあずまや」をイメージし作曲したのではないかと思う。

第4楽章《美について Von der Schönhheit》も「陶器に描かれた絵を見ている」というシチュエーションがイメージできると思う(19世紀、中国の陶磁器はヨーロッパの収集家のために沢山ヨーロッパに輸出された)。それらの陶器は、お茶碗のような小さいものではなく、壷のようなものであり、その壷は2つある。一つには乙女たちの絵が描かれてあり、もう一つには、馬に乗った少年が描かれてある。マーラーは、頭の中で二つの絵を交互に見ている。後者(馬に乗った少年)が唐突に出て来るのは、二つ目の絵に目をやった瞬間であろう。そして再び一つ目の絵(乙女たちの絵)に目を移し曲が終わる。

第2楽章《孤独者 秋にて Der Einsame im Herbst》
この孤独者は、原詩では女性である(ベートゲの詩では Der Einsame が男性形なので男性である)。
私はこの詩の最初の2節には、傷があると思う。

Herbstnebel wallen bläulich überm See,
(秋の霧は沸き立っている(沸騰している) 青く 湖面に)
Vom Reif bezogen stehen alle Gräser;
(霜におおわれ すべての草々は立っている)

1行目、霧が沸騰している。さながら、冬場の露天風呂の熱湯の湯気が沸き立ってるように...。そしてその霧は、多分、湖面に停滞している。であれば、なぜ「すべての草々は霜におおわれている」のが見えるのだろうか。つまり、石原裕次郎の歌ではないが『夜霧よ今夜もありがとう』のように(原詩では夜である)霧で視界が遮られ、あたりは見えないはずだ。少なくとも、遠くのほうは見えないはず。近くは見えるとしても...。なのに「すべての」草々が見えるのは変だ。

Man meint, ein Künstler habe Staub von Jade
(人は思う 一人の芸術家が ヒスイのちりを)
Über die feinen Blüten ausgestreut.
(かよわい花々に まき散らしたかのように)

私は「ヒスイのちり(Staub von Jade)」というのを見てみたい。ヒスイをすり鉢ですりつぶして粉にしたようなものであろうか。繰り返すが「すべての草々をおおう霜が 花々にまき散らされたヒスイのちりのように見える」。非常にシュールな光景・・・。というか、この描写にも無理があるように思う。深い霧のなかに上記光景(ヒスイのちりをまき散らしたかのように云々)が視覚されるというのもイメージの一人歩きのように思える。そこで考えたのだが、これもまた、陶器に描かれた絵ではなかろうか。その絵は大きな陶器の複数の場所に描かれてある。一つの場所には「霧に沸き立つ湖面」一つの場所には「霜に被われた花のように輝く草々」すなわち、それらは別々の像ではないだろうか。

Der süße Duft der Blumen ist verflogen;(花々の甘いかおりは 飛び去り)以下も同様に無理がある。

Ein kalter Wind beugt ihre Stengel nieder.
(冷たい風が それらの花々の茎を打ちひしぐ)

「花々の茎を打ちひしぐ」ほど強い風が吹いているのなら、霧は晴れているはずである。【注2】

もっともこの詩の第1節と第2節は、第3節(Mein Herz ist müde. 私のこころは疲れている)以降の心理描写の「まくら」であり、第3節以降を盛り上げるためのイメージである。したがって、少々の無理や傷は見過ごすことにします。

第6楽章《告別 Der Abschied》
これも面白い。この楽章は、ご承知のように、二つの詩をミックスしたものである。そのために主客の転倒がある。
この詩のストーリーは以下の通り。

前半でAさん(私)が、Bさん(友)の(旅立ちの)別れの時を待っている。Bさんはなかなか来ない。Aさんは20分も待たされる。そしてやっとBさんが現れる。が、大したことは言わないでさっさと行ってしまう。Bさんの言葉はここで直接話法つまり一人称(ich 私が主語)になっている。それによって第6楽章の詩はコンテクストの上で主客転倒が起きている(前半ではAさんが私、後半ではBさんが私)。

思うに実は別れを告げられるAさんも別れを告げるBさんも、マーラー自身ではないのだろうか。Aさんの「Ich wandle auf und nieder mit meiner Laute 私は琴を持って あちこち歩いた(23行目あたり)」という言葉と、Bさんの「Ich wandle nach der Heimat, meiner Stätte! 私は故郷へと歩いて行く 私の居場所へと(最後から6行目あたり)【注3】」。前者と後者は文章表現が似ているが、両者の詩句が歌われるときに奏される音楽もまた似ているような気がする。

というわけで、私の考えは以下である。

マーラーは、Bさんである。Bさんはヨーロッパに別れを告げる人。Aさんは、別れを告げられる人。Aさんは、ヨーロッパに残される人。

しかし、マーラーは別れを告げる人の立場だけでなく、別れを告げられる身になってこの楽章を書いていると思う。第6楽章ではAさんの描写のほうが長い。Bさんは長いことAさんを待たせたくせに、別れの言葉は比較的あっさりしている。行き先も連絡手段も言わない。勿論、この別れが、今生の別れであれば行き先も連絡手段も告げる必要はない。しかし、そうであるなら、なぜBさんは、Aさんを長く待たせるのだろうか。

Bさんはさっさと行ってしまう。それは中島みゆきの『別れうた』の「立ち去るものだけが美しい」という詩句を私に思い出させる。大地の歌の第6楽章は旅立つ者の「引き際のよさ」「いさぎよさ」「かっこよさ」を歌っているのではないだろうか。

マーラーは、過去に(誰かから)別れを告げられた経験を、この楽章で追想しているのではないだろうか。そして今度は、ついに、みずから別れを告げる番になった。その立場の逆転をこの楽章に書いたのではないだろうか。(つづく)

【注1】もし大地の歌がバイロイト祝祭劇場で初演されたとしたら聴衆は第1楽章の激しさにびっくりしただろう。バイロイトでは、指揮者もオケも聴衆に見えない。オーケストラピットの明かりも見えない。暗闇の中、大地の歌の第1楽章が奏されたら、おどろきのあまり聴衆はざわめくかも知れない。

【注2】第2節は、Bald werden die verwelkten, gold'nen Blätter / Der Lotosblüten auf dem Wasser zieh'n.(やがてしおれた金色の蓮の葉は水面に流る)という美しい詩句で締められるので、私の主観では、冒頭はむしろ「秋の霧は晴れわたり」のほうがいいかもしれない。ちなみに原詩に霧は出てこない。

【注3】馬に乗っているのに「歩いて行く」というのは変だと思うのだがそれはこだわり過ぎでしょうね。

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2009年7月28日 (火)

大西順子 楽興の時

私は、ジャズも聴く。


Onishi


大西順子
楽興の時
2009 Somethin' Else Record, a division of EMI Music Japan Inc.

01. Hat and beard (Eric Dolphy) 5:29
02. I gotta right to sing the blues (Ted Koehler - Harold Arlen) 3:39
03. Back in the days (Junko Onishi) 7:21
04. Bittersweet (Junko Onishi) 6:17
05. Ill wind (Ted Koehler - Harold Arlen) 5:34
06. Musical moments (Junko Onishi) 8:11
07. Something sweet, something tender (Eric Dolphy) 4:37
08. G. W. (Eric Dolphy) 4:36
09. Smoke gets in your eyes (Otto Harbach-Jerome Kern) 3:05
Juonko Onishi : Piano
Yousuke Inoue : bass
Gene Jackson : drums
以上スタジオ録音
Bonus track
10. So long Eric - Mood indigo - Do nothin’ till you hear from me
(Charles Mingus) (Irving Mills - Duke Ellington - Barney Bigard) (Bob Russell - Duke Ellington)
16:19
Juonko Onishi : Piano
Reginald Veal : bass
Herlin Riley : drums
2008年9月14日、青山ブルーノート東京、ライヴ録音

まず驚いたのは、ボーナストラックに、1994年のヴィレッジ・ヴァンガード・ライヴで取り上げた "So long Eric" が、しかも同じメンバーによる演奏で収録されていること。まるで「聴き比べて下さい」と言わんばかり。実際聴き比べてみると、1994年のほうが安定していると思う。今回の2008年の演奏は、ヨーロッパライブ「Play, piano, play」の演奏に似ている感じがある。

<01> <07> <08> にドルフィーを持ってきている。彼女は過去に、ドルフィーを取り上げたことはないと思う。アルバムの第1曲目にドルフィーの「Out to Lunch」の第1曲目を持ってきたのは、アルバムのコンセプトをむしろ曖昧にしているような気がするが、その印象は私の主観に過ぎない。<2> が、ビリー・ホリデイのコモドア・レコーディングに入っている有名ブルース。<9> が、プラターズのヒット曲。余裕かまして遊んでいるのか。

<2> <5> <9> はピアノソロ。<2> <5> は同じ作曲者によるナンバー。
<3> <4> <6> はオリジナル曲。とくにタイトルナンバー <6> は作曲、演奏ともに充実している。

総じて言って、大西は完全復活したと思う。彼女のテクニックが衰えていないのは、彼女が活動休止期間も練習を怠っていなかった証であると思う。

大西がカムバックしたのは、ジャズ界にとって大きな喜びであり、またショッキングな出来事でもあろう。というのも、黒人音楽をまともに演奏できるピアニストが、いまの日本のジャズ界にはほとんど存在しないからである。大西には今後もコンスタントに活動を継続して欲しい。

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2009年7月26日 (日)

バッハ:アリア集 聴き比べ


Kozena


バッハ:アリア集
マグダレーナ・コジェナー

Bach Arias
Magdalena Kozena, mezzo - soprano
Musica Florea
Marek Stryncl
01 "Et exsultavit spiritus meus" Magnificat BWV 243
02 "Schafe können sicher weiden" Hunting Cantata BWV 208
03 "Ich esse mit Freuden mein weniges Brot" Cantata BWV 84
04 "Erbarme dich" St. Matthew Passion BWV 244
05 "Wie starb die Heldin so vergnügt" Mourning Ode BWV 198
06 "Verstummt, verstummt, ihr holden Saiten" Mourning Ode BWV 198
07 "Wohl euch, ihr auserwählten Seelen" Cantata BWV 34
08 "Komm, komm, mein Herze steht dir offen" Cantata BWV 74
09 "Zerfließe, mein Herz, in Fluten der Zähren" St. John Passion BWV 245
10 "Kommt, ihr angefocht'nen Sünder" Cantata BWV 30
11 "Laudamus te" Mass in B minor BWV 232
Recorded 1996
ARCHIV

いや〜、渋い。選曲も歌唱も渋い。まるで渋柿をほおばったような味がする。
しかも、歌詞が難しい曲が多い。
私は、2年以上前に下記キルヒシュラーガーの「バッハ:アリア集」と一緒にこれを購入した。あるサイトに、その2枚が良いと紹介されていたからである。購入当初「キルヒシュラーガーよりもコジェナーのほうがいいなぁ」という印象を持ったが、コジェナーのほうは、2〜3回聴いて、その後、1度も聴いてなかった。久しぶりに聴いてみて思うに・・・
私が漠然と感じていた「良さ」は「渋さ」だったのだろう。

上記、選曲を見て下さい。

マニフィカト、受難曲、ロ短調ミサ以外で有名なカンタータは《狩りのカンタータ BWV 208》とカンタータ第198番《侯妃よ、さらに一条の光を》ぐらいじゃないだろうか。ただし、カンタータ第198番(BWV 198)は、教会カンタータではなく、私人のために書かれた追悼カンタータであるし、長い曲なので、人気ない作品かも知れない(いい曲なので人気あるかも知れん)。その BWV 198 から、2曲セレクトしている。
美しい旋律の曲ばかり選曲しているし、伴奏もうまい。しかし、コジェナーの歌唱はすこし、いや、かなり渋いと思う。実力ある歌手なので、渋くなって当然か。
あるいは、私の思い過ごしかも知れない。
この CD は現在、国内では多分入手困難であろう(ということは、レアな音盤であり、買っておいて良かった ... と思うのであった)。


Kirchschlager


バッハ:アリア集
アンゲリカ・キルヒシュラーガー

Angelika Kirchschlager, mezzo - soprano
Giuliano Carmignola, baroque violin
Venice Baroque Orchestra
Andrea Marcon
01 "Erfreute Zeit" Cantata "Erfreute Zeit im neuen Bunde" BWV 83
02 "Vergnügte Ruh" Cantata "Vergnügte Ruh, beliebte Seelenlust" BWV 170
03 "Schlummert ein, ihr matten Augen" Cantata "Ich habe genug" BWV 82
04 "Nichts kann mich erretten" Cantata " Wer mich liebet, der wird mein Wort halten" BWV 74
05 "Wo zwei und drei versammlet sind" Catanta "Am Abend aber desselbigen Sabbats" BWV 42
06 "Herr, was du willt" Cantata "Ich steh mit einem Fuss im Grabe" BWV 156
07 "Erbarme dich" St. Mathew Passion, BWV 244
08 "Widerstehe doch der Sünde" Cantata "Widerstehe doch der Sünde" BWV 54
09 "Laudamus te" Mass in B minor BWV 232
10 Sinfonia Cantata "Ich steh mit einem Fuss im Grabe" BWV 156
11 "Bereite dich Zion" Christmas Oratorio BWV 248
12 "Wie soll ich dich empfangen" Christmas Oratorio BWV 248
Recorded 2002
SONY

これは、軽すぎる。華やかな曲が多く、難しくない曲ばかり選曲している。
ゲストとして、カルミニョーラが参加している。指揮は、アンドレア・マルコンだが、彼はカルミニョーラと「ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ BWV1014-19」を録音しているので、カルミニョーラとはお仲間である。

このアルバムは、ヴェニス・バロック・オーケストラがサポートしたキルヒシュラーガーのリサイタルように聞こえる。一方、ヴェニス・バロック・オーケストラの器楽のパフォーマンスが目立つ。第1, 4, 6曲目は協奏曲的である。

このアルバムは、キルヒシュラーガーの歌唱力、表現力、実力からすれば、コンセプトが弱いと思う。まさかこのバッハ・アリア集は商業的成功を優先したのか ...(仮にそうではないとしても、自己の個性を最大限生かすというモチベーションがキルヒシュラーガーにあったか疑問である)。すなわち、彼女の声と歌唱は明るく聴きやすく癖がないが、退屈する。キルヒシュラーガーにはもっと冒険して欲しかった。彼女の個性を強烈にアピールして欲しかった。

選曲は、ほとんどの曲が長調だ。短調の曲はマタイから "Erbarme dich" および、クリスマス・オラトリオからの2曲、計3曲のみ。クリスマス・オラトリオはもともとおめでたい作品であるので歌詞に深刻さはなく短調の重苦しさはない。

コジェナーのアルバムとダブるのは、07 "Erbarme dich" と 09 "Laudamus te" である。"Erbarme dich" はマタイ全曲の中の非常に重要な場面で歌われるアリアなのでマタイ全曲の中で歌われたものを比較しなければならないだろう。というわけで、単体で歌われているコジェナーとキルヒシュラーガーの "Erbarme dich" を比較するのはどうかと思ったが、あえて比較すればコジェナーのほうに陰影がある。"Laudamus te" は、ロ短調ミサの中で独立的に歌われるアリアなので比較してもかまわんかも知れん。そこで二人の "Laudamus te" の歌唱を比べると、やはりコジェナーの歌唱に「ロ短調ミサ」にふさわしい貫禄があるように感じた。


Otter


バッハ:アリア集
アンネ・ゾフィー・フォン・オッター

Anne Sofie von Otter, mezzo - soprano
Concerto Copenhagen
Lars Ulrik Mortensen
01 "Widerstehe doch der Sünde" Cantata "Widerstehe doch der Sünde" BWV 54
02 "Schläfert allen Sorgen Kummer" Cantata "Gott ist unsere Zuversicht" BWV 197
03 Duetto "Wenn des Kreuzes Bitterkeiten" Cantata "Was Gott tut, das ist wohlgetan" BWV 99
04 "Erbarme dich" St. Mathew Passion BWV 244
05 "Kommt, ihr angefocht'nen Sünder" Cantata "Freue dich, erlöste Schar" BWV 30
06 Sinfonia Cantata "Geist und Seele wird verwirret" BWV 35
07 "Nichts kann mich erretten" Cantata "Wer mich liebet, der wird mein Wort halten" BWV 74
08 Sinfonia Cantata "Weinen, Klagen, Sorgen, Zagen" BWV 12
09 Agnus Dei Mass In B minor BWV 232
10 Duetto "Et misericordia" Magnificat BWV 243
11 Duetto "O Ewigkeit, du Donnerwort" Cantata BWV 60
12 Coro "Sei Lob und Ehr dem höchsten Gut" Cantata, BWV 117
Recorded 2008
ARCHIV

コジェナー盤と "Kommt, ihr angefocht'nen Sünder" が、キルヒシュラーガー盤と "Widerstehe doch der Sünde", "Nichts kann mich erretten" などがダブっている。

オッターが参加したバッハの声楽曲のアルバムは多いので、読者の皆さんは、彼女がバッハをどう歌うかをご存知であろう。予想に反せず、いい意味でも悪い意味でも、オッターの歌い方は従来どおりの癖、個性が、このアルバムでも聴かれる。

このアルバムは、ある種のコンセプトアルバムになっている。

"Wenn des Kreuzes Bitterkeiten" はソプラノとのデュエット。"Et misericordia", "O Ewigkeit, du Donnerwort" はテノールとのデュエット。"Sei Lob und Ehr dem höchsten Gut" はソプラノ、テノール、バスを加えた合唱曲。そして器楽のみの演奏が2曲(BWV 35, 12)。

それらを仕切っているのは、指揮とオルガンを担当するモーテンセン(Lars Ulrik Mortensen)である(私は、モーテンセンというアーティストが気に入ったので彼の《ゴルトベルク》を購入したが、それは面白いコルトベルクであり、良い演奏だと思う)。
オッターの歌唱は、ところどころ光るが、特に名唱はないと思う。

結局、3つのアルバムの中では、コジェナーが一番よかった。

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2009年7月24日 (金)

ナタリー・デセイのバッハ


Bach_dessay


Bach
Cantatas BWV 51, 82a, 199
Natalie Dassay
Emmanuelle Haïm
Le Concert d'Astrée
Recorded 2008
VIRGIN CLASSICS

私のレビューは辛辣なのが多いが、これも辛辣に書く。
デセイのバッハは「イマイチ」である。
Amazon.com のカスタマーレビューにもあったが、ドイツ語の発音が悪い。それと、デセイは楽譜を見ながら歌っているのではないかと思ったが、レコーディング風景を撮った動画があったので見てみたら、やっぱりそうだった。彼女の声は空に向かって飛んでいないような気がする。BWV 51 は《すべての地にて神に歓呼せよ! Jauchzet Gott in allen Landen! 》なのだから歌が下を向いて聞こえるのは良くない。指揮者(エマヌエル・アイム Emmanuelle Haïm)とオケはうまい。BWV 51 の有名なアレルヤは急にテンポを速めているが、これは良い。ところで、指揮者は美女(下記)である。私のレビューは「美女演奏家の紹介が多い」というご指摘があったが、そうではなくて、購入したらたまたま演奏者が美女なのだ(ほとんど言い訳)。

では、BWV 51 は誰のがいいかというと、

グルベローヴァ(録音年不明。書いてない)
これも「イマイチ」
グルベローヴァは、BWV 51 をオペラのように歌っているが、それは良いと思う。BWV 51 は、カストラート(オペラ歌手と言っていいだろう)のために書かれた作品なので、オペラのように歌ってかまわないと思う。グルベローヴァのドイツ語の発音は良いので安心して聴ける。ただ指揮者(Helmut Winschermann)があまり上手くないと思う(というかグルベローヴァの歌唱はリズムが狂っているような気がする)。歌手と指揮の掛け合いというものが、デセイ盤にはあるが、グルベローヴァ盤はそれに欠けると思う。

シュターダー(1959年録音)
定盤だが、シュターダーの歌唱もリヒターの指揮も、いまとなっては古いと思う。

シェーファー(1999年録音)
これは、ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハによる編曲版なので、とても騒がしいが、軽快なテンポ、しかも力強い。シェーファーの歌唱は安定している。私の好みに合う。

デセイ盤は、BWV 82 のソプラノ版(これは珍しいと思う)が入っているので買っても損はしないかも知れない。デセイの歌唱は、BWV 82 と BWV 199 で次第に良くなるように聞こえる(耳が慣れるせいであろうか)。ただし、デセイのファン以外の人にはすすめない。

Haim3

Haim2


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2009年7月23日 (木)

煮ても焼いても食えない作品 コンヴィチュニーのブルックナー8番


Konwitschny


Anton Bruckner
Sinfonie Nr. 8 c-Moll (Originalfassung)
Rundfunk-Sinfonieorchester Berlin
Franz Konwitschny
18, 19, 21/Dezember/1959 Funkhaus Nalepastraße Saal 1 Berlin
WELTBLICK SSS0012-2
MONO

1. Allegro moderato 15' 23
2. Scherzo 13' 57
3. Adagio 27' 11
4. Finale 24' 42

Total 81' 24

ブルックナー8番は、1887年版の方が改訂版よりよい。ブルックナー8番の1887年版と改訂版は、映画のディレクターズカット版と劇場公開版のような関係ではないと思う。改訂版は、たとえば海外ドラマを時間的制約のためカットして放送したもののように思える。1887年版は第1楽章をハ長調で終わらせていること、第3楽章のクライマックスがハ長調(改訂版では変ホ長調)であることは、第4楽章への伏線として効いていると思う。1887年版を聞き慣れてしまうと、改訂版は、ある箇所で唐突に音楽が進んでしまうように聞こえる。ブルックナーが改訂でカットした箇所は、この作品の全体を俯瞰した場合、全曲の統一性を図るために「必要」な箇所だったのではないだろうか。エレガントな改訂版は、第3楽章の耽美性が第3楽章の独立性(全曲の不統一性)を招いているような気もする。ブルックナーは全曲を、よりすっきりとまとめようとして逆に統一性を弱くしたと思う。私は、1887年版のスコアを取り寄せて、スコアを見ながらシモーネ・ヤング盤を聴いてみたが、この作品は意外に全楽章に共通の音形、旋律、音楽的素材を持つように思えた(具体的に指摘できないが)。

上記、フランツ・コンビチュニー指揮ベルリン放送交響楽団盤は、モノラル録音だが、ステレオ録音の下手なリマスタリングより聞きやすいと思う(3日にわたるスタジオ・セッションなので安心して聴ける)。ノイズが少ないし、低音も比較的(まあまあ)よく録れてる。この演奏は、ライプチヒ・ゲヴァントハウスの古色はなく、ベルリン放送交響楽団のスキのない実力が聞けると思う。こういうスキのない演奏を聞くと「改訂版のスキ」も見えなくなるような気がする。カラヤンやヴァントは、独自の美でブル8を振ってブル8を美化したと思う。その美は「いくらでも美しくできる美」であり、マイスター的伝統と現代のハイテク技術により制作された教会オルガンの美に似た美であると思う(ブル8は教会で録音されることが多いし残響など音響効果に凝った録音が多い...)。私は長くブルックナーの8番になじめなかった。やっと、ブル8に目ざめたのは、ヴァントのブルックナーの美に触れたのがきっかけだった。

ブルックナーの8番にはブルックナーの野生性や素朴さがあると思う(スケルツォはドイツの野人であり、第4楽章の第1主題はコサックの進軍である)。第7番の完成後、ブルックナーはすぐに第8番の作曲に取りかかっている。しかし、ブルックナーが、いかにすぐれた作曲家であったとしても、交響曲というジャンルにおいて、たて続けに大作を書くのはきつかっただろうと思う。第7番という大作完成後、ひと休みもできなかったことは、ベートーヴェンが第9番を書くのに10年の余裕を持てたのに比して「余裕のなさ」を感じる。さらに8番完成後すぐに(1887年に)9番に着手しているのは驚異的。ブルックナーはすでに60才を過ぎ、残された時間が少なかったことを自覚していたのか...。第7番が「ワーグナーへの敬意と追憶」というモチベーションを持つのに比べ、第8番は内面的でプラベートなモチベーションとテーマ性を感じさせる。それは彼の「野生性・素朴さ」の直接的現れであり、そしてそれらは彼が生来持っていた性格・パーソナリティかも知れない。あるいは「余裕のない老人の衰え」だったのかも知れない。余裕のない作家が創作の素材とできるものは「最も身近なもの」すなわち「自我」である。

とはいえ、老年ブルックナーの旺盛な創作意欲。第8番を完成させたブルックナーは偉い!

コンヴィチュニーの第8番のストレートなパフォーマンスを聴いて改めてそう思う。

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2009年7月22日 (水)

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2009年7月21日 (火)

煮ても焼いても食えない作品 シモーネ・ヤングのブルックナー8番


Simone8


Anton Bruckner
Symphony No. 8 C minor
First version 1887
Simone Young
Philharmoniker Hamburg
Recorded live December 14 & 15, 2008, Laeishalle Hamburg
OEHMS CLASSICS

CD 1
1. Allegro moderato 16: 05
2. Scherzo 14: 37
CD 2
3. Adagio 27: 44
4. Finale 24: 10

Total 82: 36

ブルックナーの交響曲第8番を、32種類(下記)も買ってしまったが、私の結論は「ブルックナーの第8番は1887年版のままで良かったのではないか」ということ。さらに「ブルックナーは、第8番を改訂せずに、さっさと第9番を書き上げれば良かったと思うこと」である。今後、1887年版が演奏される機会が多くなれば、ブルックナーのファンが、彼の最後の交響曲が未完に終わったことを惜しみ悔しむ気持ちは増すかも知れない(私の意見に共感してくれるブルックナーファンが増えるかも知れない)。なぜなら、私の考えでは、第8番から第9番への進歩は、第7番から第8番へのそれより大きく、第9番こそブルックナーの交響曲の最高峰だと思うからだ。

私がこだわるのは第8番の第4楽章である。たしかに、この交響曲は、スケルツォを第2楽章に持ち、巨大な第3楽章を持つ点で、ベートーヴェンの第9番を模範にしていると思う。しかし第8番の第4楽章は、結局、第1主題と第7番の第1楽章に収束してしまうと思う(再現部前と再現部の第1主題の再現に第7番の第1楽章が回想されるから)。第8番の第4楽章の手法は第7番の最終楽章の延長線上にある手法だと思う。というのもこの楽章は比較的(提示部に)忠実な再現部を持つが大きなコーダを持つことなく(一応全楽章を回想するがこれも形式的に思える)あっさり終わってしまうからだ。それは、ソナタ形式を大きく逸脱しないという点で第7番の第4楽章に類似していると思う。さらに、この楽章は休止が多くコラール風の旋律が多い。その点もベートーヴェンの第九を模倣したのかも知れない。休止とコラールはカンタータやオラトリオを思わせる。ブルックナーは、第九の終楽章のカンタータを真似したのかも知れない。しかし、それも形式的な模倣に過ぎず中途半端に思える。

これは彼女の第4番でも指摘したが、シモーネ・ヤングのブルックナー8番は粗いと思う。この演奏は、ブルックナーをよく研究していることをうかがわせるし、その点、細心な演奏である反面、アンサンブルの悪さバランスの悪さを合わせ持つ(木管が聞こえない)。美しいブルックナーを求める人はこの商品は買わない方が良いと思う。しかし、仮に彼女がこの作品に、あえて美しさや重々しさを与えず、研究成果だけを表したとしたら、彼女はしたたかだと思う。なぜなら、この作品がブルックナーの交響曲の通過点に過ぎないことをリスナーに認識させてくれるかも知れないからである。

交響曲第8番(1955年録音)2. Fassung 1888/90 Edition Schalk/von Oberleithner (1892),Knappertsbusch,バイエルン国立,LIVE
交響曲第8番(1955年),Eduard von Beinum,RCO,LIVE
交響曲第8番(1959年)Originalfassung,Franz Konwitschny,ベルリン放送,STUDIO
交響曲第8番(1963年)改訂版,Knappertsbusch,ミュンヘン・フィル,STUDIO
交響曲第8番(1963年)1890年版,Carl Schuricht,Vpo,STUDIO
交響曲第8番(1964年)1887-90 Nowak,ヨッフム,Bpo,STUDIO
交響曲第8番(1966年)ノーヴァク版,ショルティ,Vpo,STUDIO
交響曲第8番(1971年)2nd Version,ベーム,バイエルン放送,LIVE
交響曲第8番(1975年),Herbert Kegel,RSOL,STUDIO
交響曲第8番(1976年)ノーヴァク版1889-90,ベーム,Vpo,STUDIO
交響曲第8番(1976年)ノーヴァク版1890,ヨッフム,SKD,STUDIO
交響曲第8番(1982年)1887年第1稿,Eliahu Inbal,RSOF,STUDIO
交響曲第8番(1982年)1890年ノーヴァク版,テンシュテット,Lpo,STUDIO
交響曲第8番(1984年)1890年ノーヴァク版,Carlo Maria Giulini,Vpo,STUDIO
交響曲第8番(1985年)Originalfassung,Heinz Rogner,ベルリン放送,STUDIO
交響曲第8番(1988年)ハース版,カラヤン,Vpo,STUDIO
交響曲第8番(1989年),マゼール,Bpo,STUDIO
交響曲第8番(1990年)1890年ノーヴァク版,ショルティ,Cso,LIVE
交響曲第8番(1993年)1890年ノーヴァク版,Sergiu Celibidache,ミュンヘン・フィル,LIVE
交響曲第8番(1993年)1890年ノーヴァク版,Jesus Lopez-Cobos,Cincinnati Symphony,STUDIO
交響曲第8番(1994年)1890年ノーヴァク版,シノーポリ,SKD,STUDIO
交響曲第8番(1996年)1887年ノーヴァク版,Georg Tintner,National Symphony Orchestra of Ireland,STUDIO
交響曲第8番(1996年)ハース版,ブーレーズ,Vpo,LIVE
交響曲第8番(1999年)ノーヴァク版,Riccardo Chailly,RCO,STUDIO
交響曲第8番(2000年)ハース版,ヴァント,ミュンヘン・フィル,LIVE
交響曲第8番(2000年)ノーヴァク版,Nikolaus Harnoncourt,Bpo,LIVE
交響曲第8番(2001年)ハース版,ヴァント,Bpo,LIVE
交響曲第8番(2003年)ハース版,Marcus R. Bosch,sinfonieorchester Aachen,LIVE
交響曲第8番(2004年)Version 1884-1887,Dennis Russell Davies,Bruckner Orchester Linz,LIVE
交響曲第8番(2005年)ハース版,大植英次,大阪フィル,LIVE
交響曲第8番(2005年)ハース版,Herbert Blomstedt,GOL,LIVE
交響曲第8番(2008年)First version 1887,Simone Young,Philharmoniker Hamburg,LIVE

【Amazon.co.jp】へのリンク
ブルックナー:交響曲第8番[1887年第1稿(ノーヴァク版)]

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2009年7月 6日 (月)

シャイーのマーラー:交響曲全集(3)

Ursula
聖ウルズラ
Cecilia
聖セシリア


MAHLER
THE SYMPHONIES
RICCARDO CHAILLY
ROYAL CONCERTGEBOUW ORCHESTRA
Symphonies No. 1 - 9
RADIO - SYMPHONIE - ORCHESTRA BERLIN
Symphony No. 10

CD 4
交響曲第4番ト長調
2. 第1楽章 18' 11
3. 第2楽章 9' 39
4. 第3楽章 20' 43
5. 第4楽章 9' 42
バーバラ・ボニー(ソプラノ)
ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
1999年9月録音

第1楽章
再現部の第2主題が主調(ト長調)で再現されるところは、あまり強いカタルシスを感じさせない。多分、バーンスタインやティルソン・トーマスではもっと効果的だったと思う。

第4楽章
Kein Musik ist ja nicht auf Erden, die unser verglichen kann werden.
私たちの音楽に比べられる音楽が地上にあろうか。

の前のところで、第1楽章のイントロが強奏されるところが効果的でなく、不自然である。

ところで、私はシノーポリのマーラー:交響曲全集(4)で、

聖ウルズラは一万一千人の乙女とともに殺された聖女。聖チェチリアとその一族もまた残酷に殺された殉教者。そういう聖女たちが天国では楽しくに暮らしているはいいのですが、やはり彼女らの残酷な最期を知ると、その落差に不気味さを感じます。

と書いたが、聖チェチリア(聖セシリア)のほうは、殉教者ではあるが、それほどひどい殺され方をした人ではないようだ。wikipedia に「音楽家と盲人の守護聖人」とある。私は「あの世では喜びを与える聖人が、この世では地獄のような殺され方をした。あの世は天国だが、この世は地獄」という対比、皮肉、厭世主義を、マーラーは、この第4交響曲で歌ったと捕らえていたが、必ずしもそうではないような気がしてきた。しかし、仮にそのような気味の悪い題材ではないと捕らえたとしても、この第4交響曲の第4楽章は演奏するのが難しいと思う。

シャイーのマーラー:交響曲第4番。その第1 - 3 楽章はシノーポリのより良く、第4楽章はシノーポリに負けると思う。

あと、この第4交響曲をスコアを見ながら聞いてみて思ったが、これは、第5交響曲につながり深いと思った。第 2 - 4 交響曲を『角笛交響曲』としてひとまとめにしているが、それに第5番を含めてもいいのではないかと私は思う。その点については、また後日書くことにする。

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2009年7月 5日 (日)

ラズモフスキー弦楽四重奏団のショスタコーヴィチ全集


Shostakovich


SHOSTAKOVICH
COMPLETE STRING QUARTETS
RASUMOWSKY QUARTETT
Dora Bratchkova, 1st violin
Ewgenia Grandjean, 2nd violin
Gerhard Müller, viola
Alina Kudelevic, cello
Recorded June - December, 2005
OEHMS CLASSICS

CD 1
1st Quartet in C major op. 49 (1938)
2nd Quartet in A major op. 68 (1944)
3rd Quartet in F major op. 73 (1946)

CD 2
4th Quartet in D major op. 83 (1949)
5th Quartet in B - flat major op. 92 (1952)
6th Quartet in Gmajor op. 101 (1956)

CD 3
7th Quartet in F - sharp minor op. 108 (1960)
8th Quartet in C minor op. 110 (1960)
9th Quartet in E - flat major op. 117 (1964)
11th Quartet in F minor op. 122 (1966)

CD 4
10th Quattet in A - flat major op. 118 (1964)
12th Quartet in D - flat major op. 133 (1968)
13th Quartet in B - flat minor op. 138 (1970)
Two Pieces op. 36
Adagio
"Elegy in F - sharp minor", transcription of the aria from the opera "Lady Macbeth of Mzensk"
Allegretto
Polka from the ballet "The Golden Age"

CD 5
14th Quartet in F - sharp major op. 142(1973)
15th Quartet in E - flat minor op. 144 (1974)

この全集は、技巧、表現力、アンサンブルは秀でてないし没個性であり、もう少しで破綻しそうな演奏のように思える(破綻する前にかろうじて曲が終わってしまうので破綻しないのかも...)。それでも、この全集は、私のようなショスタコーヴィチ入門者には、ボロディンQの新旧盤やエマーソンQのより聞きやすい全集だと思った。その理由を説明しようと思って、色々文章を考えてみたが結局、リーフレットにある下記の文章が私の印象を表してるようだ。


About this recording of the complete works

Even more important than the notation are the questions of choice of tempo and the temporelations. The musicians have kept strictly to the demands of the composer resulting in the slow movements no longer appearing so heavy and pathetic. On the other hand, the waltz in the Second Quartet and the last movement of Quartet No. 9 are now interpreted in their original tempo, to a breathtaking effect. Not least, these recordings come from an understanding of Shostakovich, which questions common ways of interpretation from the historic distance.

ラズモフスキー弦楽四重奏団のショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全集について

(前略)記譜法よりさらに重要なことは、テンポの選び方とテンポの相関性の問題である。演奏者は厳密に作曲者の要求にこたえているので、遅い楽章は、もはやヘビーでもパセティックでもない。他方、第2番のワルツと第9番の終楽章は彼らのオリジナルのテンポであり、はっとさせられる解釈だ。もとよりこの録音は、ショスタコーヴィチの一般的作品解釈を、歴史的隔たりから探り理解するという発想でなされている。

私もこの演奏を聴いて「ショスタコーヴィチももはや古典だ」と主張しているように思った。

ついでに、マキシム・ショスタコーヴィチのコメント。


The new recording of all the quartets by Dmitri Shostakovich by the Rasumowsky Quartet has left the very deepest impression with me. The creative sensuous penetration into the world of Shostakovich’s music, the individual caftsmanship and talent of each member of this excellent ensemble make it possible to count this recording amongst the best interpretations of the music of my father’s altogether. I congratulate sincerely all the members of this wonderful quartet on the magnificent artistic performance and am convinced these CDs will provide the lovers of Shostakovich's music with very great joy.

Maxim Shostakovich, May 2006

このラズモフスキー弦楽四重奏団によるショスタコーヴィチ弦楽四重奏曲全集の新録音は、私に非常に深い印象を残した。彼らのショスタコーヴィチの音楽への創造的で感覚的な浸透、このエクセレントなアンサンブルの各メンバーが持つ個々の傑出した才能、それらがこのレコーディングを、私の父の全音楽の最良の解釈の一つとして数えられることを可能にする。私はこの堂々たる芸術的演奏を為した素晴らしい弦楽四重奏団の全メンバーを祝し、これらの CD がショスタコーヴィチの音楽の愛好者に非常に大きい喜びを提供すると確信している。

マキシム・ショスタコーヴィチ 2006年5月

【追記】上記メンバーの名前を見れば分かるとおり、ラズモフスキー弦楽四重奏団はヴィオラ奏者以外は女性です。

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2009年7月 2日 (木)

ヒラリー・ハーンを追っかける(7)ショスタコーヴィチ


Photo_4


Felix Mendelssohn
Concerto for Violin and Orchestra in E minor, Op. 64
I. Allegro 12' 01
II. Andante 8' 11
III. Allegretto - Allegro 5' 56
Dmitri Shostakovich
Concerto for Violin and Orchestra No. 1 in A minor, Op. 77 *
I. Nocturne 12' 35
II. Scherzo 5' 36
III. Passacaglia 9' 24 - Cadenza 5' 20
IV. Burlesque 4' 36
Hilary Hahn, violin
Oslo Philharmonic Orchestra
Hugh Wolff, Marek Janowski *, conductor
Recorded 2002
SONY

ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲について、渡辺純一さんのショスタコーヴィチ/プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第1番/チャン/ラトル [EMI]をお読みになってから、私の感想をお読みになることをお進めします。渡辺さんは、サラ・チャン盤について書いてますが、私は、ハーン盤について書きます。

まずメンデルスゾーンのほうだが、これはよくわかないからノーコメント。

英語で書かれたハーン自身のライナーノートに、上の2作品は「どちらも作曲者の脂の乗り切った年齢に書かれた作品であることに共通性がある(だから、両者をカップリングしたと言いたいのだろう)」みたいなことが書いてるが、私はそうは思わない。

結論をいうと、第5作でハーンは初めてこけたと思う。いくら、クールさが持ち味のハーンでも、彼女の弾くショスタコーヴィチの第1楽章は味気ない。この楽章は、息の長いフレーズで始まる。第1楽章は「ノクターン」と題されてはいるが、ショパンのノクターンのような情緒はない。これは本当にノクターンなのだろうか。ヴァイオリンの長いフレーズはハーンので5分4秒も続く(ちなみに、オイストラフのは4分36秒、サラ・チャンのは4分50秒ぐらい)。この息の長いフレーズをもしオーボエで吹いたら、どこで息継ぎしたらいいのだろうと、私は思わせられる。オイストラフのでさえ息詰る演奏に聞こえる。ただ、オイストラフの演奏では最初の息の長い旋律の次の旋律、弱音機をつけた旋律が、前の息の長い旋律とのコントラスト(?)において前者を生かしているようにきこえるが、ハーンの演奏にはそれがない(私は、最初、ハーンは弱音気をつけずに演奏しているのではないかと思った)。

これを言ったらおしまいだが、ショスタコ1番は(作曲者がオイストラフが演奏することを前提にして書いた作品であるという意味で、もっといえばオイストラフのためだけに書いた作品であるという意味で)ショスタコーヴィチとオイストラフの共同作品ではないかと思う。オイストラフ&ムラヴィンスキー(1956年)を超える演奏は出ないとあきらめた方がいいと思う。

ハーンは、ライナーノートの中で、ショスタコーヴィチのこの Vn 協奏曲のことや、作曲者の事情を良く知っているような文章を書いている。しかしどういうわけか(つまり作曲者を知ってるはずなのに)ショスタコの D - Es - C - H 音型【注】や、その他ショスタコーヴィチに特有な旋律をあまり重要視していないように聞こえる。それらを軽く扱っているように思える。それは彼女のショスタコ解釈の欠点だと思う。なぜなら、この作品は、ユダヤ音楽の影響(と、池辺晋一郎さんが N 響アワーで言っていた)民族性があり、また前後するが、それらの旋律を作曲者の伝記的側面や作品成立史また当然のことながら作曲者へのシンパシー、作曲家への深い理解をもってフレージングしないと、(作品が)死ぬんじゃないかと思うのだが、私の主観ではハーンの演奏にはそれらが薄い。ハーンの演奏はショスタコーヴィチへの思い入れのなさを感じさせる。取り扱い方が雑というかクールというか、重要フレーズを特別視してないように聞こえる(特別視しなくてもいいが、クールなだけでは良くない気がする)。繰り返すが、ハーンはライナーノートにちゃんと作曲者への研究をうかがわせる記述をしているのに ...。

高い技巧による迫力ある演奏だが、私は、ハーンのショスタコーヴィチに満足できないし、この作品の新しい代表的録音だとは思わない。

あと指揮者が悪いのかも...。

【注】言わずもがなですが、Dmitri Shostakovich のイニシャル。ドイツ語風にすると、D - S - C - H。

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