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2008年10月 6日 (月)

ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べる(1)

Otto_klemperer


Beethoven
Missa solemnis, op. 123
Elisabeth Söderstöm, soprano
Marga Höffgen, contralto
Waldemar Kmentt, tenor
Martti Talvela, bass
New Philharmonia Chorus & Orchestra
Otto Klemperer
Recorded: 30. IX & 1, 4 - 8, 11 - 13. X. 1965
EMI

演奏時間 79'31

第九を聴き比べるのに飽きたので、今度は《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べてみる。といっても、第九を聴き比べるために(難しい言葉でいえば第九受容に)作品123 は重要だと思う。ただ、この作品、あんまり人気ないですね〜。宗教曲というものが日本人にとって、身近じゃないというか、面白くないからだろう。この作品の宗教的観点からの解説は下記が最も適切かつ必要かつ十分だと思う。

・ミサ曲のテキストと《ミサ・ソレムニス》礒山雅(pdfファイル、461KB

私は、この作品は、ベートーヴェンの「私小説」または「第九のための習作」ととらえている。そして、宗教曲というより、ミサ曲の形を借りた交響曲ととらえている。「第九のための習作」「ミサ曲の形を借りた交響曲」という意味で、第九を聴くために参考になると思う。

このミサ曲はカトリックの宗教曲としては、適切な作品ではないであろう(おそらくこの作品は、決してバチカンではその一部でさえ演奏されることはないであろう)。

作品123 のクレドに関して、礒山氏も以下のように指摘している。

「さて、音楽はアレグロ・マ・ノン・トロッポ、4分の4拍子 となり、クレド動機が三たびあらわれます。これは、新たに聖霊への信仰告白(13)が始まることに対応した処置で、ここから新しい段落を起こすことは、モーツァルトの多くのミサ曲にも見られる扱い方です。しかしそのテキストは、クレド動機(歌詞付き)に重ねて早口で唱えられるに過ぎず、回帰したクレド動機による音楽の力強い展開に圧倒されています(譜例12)」

ベートーヴェンは自分の好きなところだけ、チョイスして、巨大な音楽を書いたように思える。反対に無視された部分は、上記で指摘されている






Et in Spiritum sanctum,
Dominum, et vivificantem:
qui ex Patre Filioque procedit.
Qui cum Patre et Filio
simul adoratur,
et conglorificatur:
qui locutus est per Prophetas.
Et unam sanctam
catholicam et apostolicam Ecclesiam.
Confiteor unum baptisma
in remissionem peccatorum.

そして(信じます)、聖霊を、
主にして生命を与える者を。
それは父と子から発し、
父と子と
変わりなく拝せられ、
栄光を共にします。
それは預言者たちによって語られたもの。
そして(信じます)、ひとつの聖なる
普遍的な、使徒伝来の教会を。
一である洗礼への信仰を告白します、
それは罪の許しを得させるもの。


「クレド」は、父と子と聖霊が一体であること(すなわち三位一体)を押さえているのだから、上の「聖霊を信じます」というコンフェッションも大事だと思うのだが、ベートーヴェンの音楽を聴くとこの箇所は何を歌っているのか聴き取れない。それに対し、"Et vitam venturi saeculi"(来るべき世の命を信ず)は長い(2つのフーガ)。


ベートーヴェンはミサの典礼文の中で自分の好きなところだけ長い音楽をつけていると思う。ベートーヴェンが選んだ好きな文とは、この "Et vitam venturi saeculi"(来るべき世の命を信ず)と、アニュス・デイの "Dona nobis pacem"(私たちに平和(平安)を与えて下さい)だけだと思う。つまり、当時の彼にとって重大問題は「死に対する不安」と「死の不安から逃れるための、神の恩寵による救いと、それによるこころの平安」だったと私は思う。私が「作品123 はベートーヴェンの私小説ととらえる」というのはそういう意味である。もちろん、アニュス・デイにおける「平和」はこころの平和だけでなく、音楽に進軍ラッパが出てくることからして、当時の世相を表し、世の混沌に対し平和を願う意味もあっただろう。しかし、私はあの部分は、世の中全体に対するベートーヴェンの思いより、彼個人の私生活上のごたごたに対する彼の思いを表すもののように思える。あの進軍ラッパはベートーヴェンを脅かす身の回りの騒動を表しているように聞こえる。たしかにその「進軍ラッパ」は、一度のみならず、インターバルのあと、もう一度強調されて現れるので、それが戦争を意味するととらえるのがもっともだろうが、そのあとがあっさりしているように思える。それは、ベートーヴェンの過去における手法に比べ、あっさりしすぎているように私には思える。私にはあの進軍ラッパは不安神経症による幻聴に聞こえる。


「第九のための習作」「ミサ曲の形を借りた交響曲」というのは作品を聴けばわかるので省略する....などと書いたら、読者におこられるだろうから、一言書いておく。「グローリア」と「クレド」は大まかにいってソナタ形式になっていると思う。ベートーヴェンは、第九の合唱付きの終楽章を書くにあたって、ソナタ形式にしようかどうか迷ったかも知れない。しかし、彼はしなかった。おそらく、私の考えでは、作品123 の「グローリア」と「クレド」の形式的複雑さを、第九の終楽章においては、彼は避けたのだろうと思う。第九という交響曲の特徴は、第1楽章から第3楽章までの難解・複雑と第4楽章の単純・素朴の対比にあると思う。よって、ベートーヴェンは、第九の終楽章を複雑なソナタ形式にしなかったのだと私は思う。もっとも、第九の第4楽章を単純な楽章ととらえるのは表面的で乱暴な捉え方であるということは私も承知している。


ベーム、バーンスタイン、カラヤンなどと聴き比べてみたが、上記クレンペラー盤が一番わかりやすい演奏だった。その詳しい比較は後日書く。

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