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2008年10月25日 (土)

ヒラリー・ハーンを追っかける(4)


Hahn

Samuel Barber (1910 - 1981)
Concerto for Violin and Orchestra, Op.14
I. Allegro 10:33
II. Andante 9:07
III. Presto in moto (perpetuo) 3:25
Edgar Meyer (*1960)
Violin Concerto
Movement I 10:24
Movement II 16:04
Hilary Hahn, violin
Saint Paul Chamber Orchestra
Hugh Wolff
1999年録音
SONY

「本作の録音は数多く、アイザック・スターンやイツァーク・パールマン、ギル・シャハム、ジョシュア・ベル、ヒラリー・ハーン、ジェイムズ・エーネスといった演奏家によって取り上げられてきた。スターンがレナード・バーンスタインの指揮とニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団との共演で1964年に行なった録音は、ロマン主義的な解釈で定評があるのに対して、ヒラリー・ハーンがヒュー・ウルフの指揮するセントポール室内管弦楽団と共演した1999年の録音は、「醒めた新古典主義的な見方」によって高い称賛を浴びた。」

「ハーバート・ボーメルは、1939年から1940年のシーズンにソリストとして、カーティス音楽院交響楽団と共演してこれを演奏したのである。指揮はフリッツ・ライナーだった。この演奏に興味を惹かれたユージン・オーマンディは、1941年2月にフィラデルフィア音楽院においてアルバート・スポールディングを独奏に迎え、フィラデルフィア管弦楽団を指揮して公開初演を行なう予定を立てた。(実際の初演は2月7日であった。)これらに続いて、2月11日にカーネギーホールで再演が行なわれると、その頃からたちまちヴァイオリンと管弦楽との定番の楽曲になった。実際バーバーの協奏曲は、あらゆる20世紀の協奏曲の中で最も演奏回数の多い作品の一つである。— ヒラリー・ハーンによる2000年の録音への解説文」

上記は、バーバーのヴァイオリン協奏曲作品14について、wikipedia からコピペしたもの。wikipedia に、ハーンによるライナー解説文が載ってるということは、ハーンの書く文章は、良いと見なされているのだろう。

彼女は自分のアルバムのライナーを自分で書いている。昔で言えば、グールドみたいなことをやっている。彼女は「目立ちたがりの書きたがり」でライナーを書いているというより、それらを書くだけの知性なり文才を持ち合わせているのだろう。

このアルバムもそのような彼女の魅力がよく現れていると思う。

バーバーもメイヤーも「これは」というほどの名曲ではないし、熱演ではないが、時々取り出して聴いてみたくなる不思議な魅力を持つアルバムに仕上がっている。そういう魅力が彼女の人気の秘密かも。

バーバーとカップリングされているエドガー・メイヤー Edgar Meyer は、現代アメリカの作曲家というよりコントラバス奏者で、世代的には(19才も歳が離れているので)ハーンと同世代とは言えないが、それはハーンが若すぎるからであり、ハーンの仲間と言っていい人(出会いのいきさつやこのヴァイリン協奏曲作曲のいきさつもライナーに書かれてある)。ハーンに捧げられたこのヴァイリン協奏曲は、バーバーよりむしろこちらがメインと言ってもよいぐらい聞きやすく風情がある佳作(ジャケットの秋の景色がよく似合っている)。エドガー・メイヤーの作曲家としての実力が、ハーンによって証明されていると言って良い。

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2008年10月23日 (木)

ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べる(7)

ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べる(4)において、私が「アニュス・デイ」と「ヨハネによる福音書第20章第19章」を結びつけたことを奇異に思われる読者がいると思うので補足する。

「ヨハネによる福音書第20章第19章」をもとにしたバッハのカンタータが二つある。第42番と第67番である。それらは、復活祭後第1日曜日のためのカンンタータであり、いずれも平和を祈念した明るいカンタータである。「ヨハネによる福音書第20章第19章」において、イエスが「あなたがたに平和があるように」と言ったのは、ヘブライ語で「シャーローム」と言ったのではなかろうか。「シャーローム」はユダヤ人の間でよく使われた挨拶の言葉で、特に「恒久平和」とか「戦争に対する平和」という意味ではない。そして「シャーローム」が「ヨハネによる福音書第20章第19章」において「あなたがたに平和があるように」と訳され、さらにその「シャーローム」が、ミサ典礼文のアニュス・デイにおいて「Dona nobis pacem / 私たちに平和をお与え下さい」へと転用されたとすれば、それは誤訳による転用である。ベートーヴェンは、アニュス・デイにおける「Dona nobis pacem / 私たちに平和をお与え下さい」が誤訳による転用であることを知っていて、あえてその誤訳を利用し拡大解釈したのではないだろうか。

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モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲聴き比べ(7)

Manze


Mozart
3 Violin Concertos
Violin Concerto No. 3 in G major, K. 216
Violin Concerto No. 4 in D major, K. 218
Violin Concerto No. 5 in A major, K. 219
All cadenza by Andrew Manze
The English Concert
Andrew Manze, violin & director
2005年録音
harmonia mundi

Bunchou さんおすすめの「モーツァルト: ヴァイオリン協奏曲/アンドリュー・マンゼ/イングリッシュ・コンサート」を買ってみた。

これは音がいい。

本当は、値段がそんなに変わらない SACD 盤を注文したが、入手できなかった。残念。

演奏は、まず、

「The English Consert は、こんなに演奏がうまかったのか」と思うほど、The English Consert がいい。アンドリュー・マンゼは指揮者として優れているようだ。

The English Consert は、ピノック指揮の「ブランデンブルク協奏曲」を持っているが、それは、まあ...それなりというところだった。それに対して、このマンゼ指揮の「モーツァルト: Vn 協奏曲」の The English Consert は、ピノックの音より繊細で、3曲とも細かいニュアンスを出すことに成功していると思う。

マンゼのヴァイオリンは、

K. 216(No. 3) は、スターンの貫禄に負ける。

K. 218(No. 4) は、元気のよいムターの新旧盤の方が聴き応えがあるように思う。しかし、

K. 219(No. 5) は、上記の指揮のうまさと、マンゼの弾くピリオド楽器の演奏法のノン・ヴィブラートと弱めのヴィブラートの絶妙なブレンド。また、あまり高音に頼らない音色が美しい。また、この人は時々、フラジオレットみたいな奏法をしているが、それがわざとらしくなく、自然だ。ムターも弓を弦に弱くこすりつけるような変な奏法をやっているが、あれは下品だ。それに対して、マンゼのは、自然であり、あたかもそういう奏法が昔、存在したかのように思える(学術的根拠不明)。
それから(これは、全3曲に関していえるが)テンポの微妙な揺らし方、適切なデュナーミクが心地よい。第1楽章のアインガングへの入り方、その間の取り方が良いし、その微妙なニュアンスが、K. 219 の3つの楽章に生きている。第2楽章は美しく、第3楽章のトルコ風音楽のところで、バチンバチンなる音響効果(もしかして、バルトークピチカート?)も良かった。

K. 219 は、3つの楽章のバランス、ニュアンスが、私がこれまで聴いた中でベストであり、K. 219 の最良の演奏だと思う。

Bunchou さん、ありがとうございました。

 

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2008年10月14日 (火)

ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べる(6)

Gardiner


Beethoven
Missa solemnis, op. 123
Charlotte Margiono, soprano
Catherine Robbin, mezzo-soprano
William Kendall, tenor
Alastair Miles, bass
The Monteverdi Choir
Orchestre Révolutionnaire et Romantique
John Eliot Gardiner
1989年録音
ARCHIV

演奏時間 71'40

独唱は、ソプラノがほぼ真ん中の向かってやや右、アルトが真ん中のやや左、テノールはアルトの左隣(その3人は並んで歌っているように聞こえる)、バスだけは左端から聞こえる。

合唱は、右からバス、テノール、アルト、ソプラノ。アルトは、一部かあるいは全員カウンターテナーだと思う。

そして、この《ミサ・ソレムニス》は正しいラテン語の発音で歌われていると思う。根拠はない。ガーディナー盤だからそう思うだけである。

HMV のユーザーレビューに、

「クレド後半の高速合唱が圧巻。同じようなスピードでジンマンもやっているけど精度が違う。」

と書いてあるが、まさにその通りだと思う。そういう充実した合唱と独唱を聴かせるのに(Orchestre Révolutionnaire et Romantique も充実していると思う)、アニュス・デイがあっさりしているのが気に食わない。

なお、サンクトゥスのホサナ「85 Osanna in excelsis / 天にはホサナ」は、いわゆる OVPP (One Voice Per Part)、つまり、合唱ではなく独唱者が歌っている。

(繰り返して書くが)そういう凝ったことをやっていて、サンクトゥス 〜 ベネディクトゥスまでは、非常に良いと思わせたのに、アニュス・デイがあっさり終わって、アニュス・デイが全然神秘的でないのが惜しいし気に食わない。

ガーディナー盤を聴いて初めて気づいたが、ベネディクトゥスの第一声はグレゴリオ聖歌みたいに非旋律的に聞こえる。

ついでに書くが、ガーディナー盤を聴くと《ミサ・ソレムニス》作品123は、独唱と合唱が渾然一体となった複雑な形式を持つ作品に聞こえるが、実は、それは、グローリア、クレドの終わりの部分などだけであって、全体的には、キリエ第1行目のように合唱が先行し独唱が後をつける、または、キリエ第2行目(Christe eleison)のように、独唱が先行し合唱が後を付けるという形が基本であって、その意味では整然とした声楽の形式からなる作品だと思う。つまり、あまりごちゃごちゃした演奏は私は好まない。その点、ショルティ旧盤は良いと思う。

ついでに余計なことを書くが、このガーディナー盤の CD ジャケットのベートーヴェンの肖像画は、私、大好きです。ベートーヴェンの肖像画ではハンサムでかっこいい下記の肖像画が有名だが、私は、上の肖像画のほうが好きです。部屋に張っておきたいほど。

Beethoven


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2008年10月12日 (日)

ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べる(5)

Solti1


Beethoven
Missa solemnis, op. 123
Lucia Popp, soprano
Yvonne Minton, contralto
Mallory Walker, tenor
Gwynne Howell, bass
Chicago Symphony Chorus
Chicago Symphony Orchestra
Georg Solti
1977年5月録音
LONDON

演奏時間 81'09

私の好きなルチア・ポップが歌っているので買ってみたのだが、期待以上の素晴らしい名演だった。録音も良いのではないかと思う。

クラシック音楽の CD を買うとき、期待したのがあまり良くなくて、期待してなかったのが良かったりすることが多い(したがって、良さそうなのも悪そうなのも全部買って聴いてみないとわからない。おかげでお金がどんどんなくなる)。

これは後者である。

改めて言うまでもないが、

ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》には以下の4つの条件が欠けてはならない。

1. 独唱者のアンサンブルの良さ
2. 合唱のうまさ
3. 2とダブるが合唱指揮者のうまさ。合唱指揮者と本指揮者(つまりこの場合はショルティ)の連携の良さ
4. 指揮者の解釈の正しさ

上記、ショルティ旧盤は上の4つの条件を満たしている。

この録音は面白いことに、独唱、合唱が向かって右からソプラノ、アルト、テノール、バスと並んでいる。

Solti2


Beethoven
Missa soleminis, op.123
Julia Varady, soprano
Iris Vermillion, mezzo-soprano
Vinson Cole, tenor
Rene Pape, bass
Rundfunkchor Berlin
Berliner Philharmoniker
Georg Solti
1994年3月、ライヴ録音。
LONDON

演奏時間 77'16

こっちは、期待したのに、あまり良くなかった。
デジタル録音なのに、録音があまり良くなく、演奏も感動に薄い。
ベルリン放送合唱団(Rundfunkchor Berlin)もイマイチ。


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2008年10月10日 (金)

ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べる(4)

Zinman


Beethoven
Missa solemnis, op. 123
Luba Orgonasova, soprano
Anna Larsson, alto
Rainer Trost, tenor
Franz-Josef Selig, bass
Schweizer Kammerchor
Tonhalle Orchestra Zurich
David Zinman
2001年5月録音
ARTE NOVA

演奏時間 65'57

この演奏は、演奏時間が短く聴きやすいだけでなく、正しい解釈によるものだと思う。とくに「ベネディクトゥス」に入る前の "Präludium" (プレルーディウム、前奏曲)からラストまでの解釈が良い(ミサ典礼文を訳したので参照のこと。"Präludium" は85行目と86行目の間)。

ジンマンの《ミサ・ソレムニス》について、アマゾンのカスタマーレビューに投稿されてある haubenstock という人のレビューが参考になる。

「クレドの二重フーガから後半はstrettaになり、どの演奏者が最初にゴールにつくのかの短距離走のような感じです。」

CD についているリーフレットには、"Schweizer Kammerchor"(スイス室内合唱団)のメンバー表がのっているが、総勢80名あまりのメンバーの名前が書かれてある。もしこれらの人々が、この演奏で歌ってるとしたら、その80名あまりが、200〜400メートルぐらいを一気にゴール目指して駆け込んでいることになる。

ちなみに、作品123の「クレド」の二重フーガのエンディングは、"Grave"(ジンマンの CD でトラック14)になるが、この部分で4人の独唱者を中心に歌われる「アーメン」は第九交響曲の下記カデンツァに似ているような気がする(midi)。

Beethoven_125_4_1

さて、ベートーヴェンがわざわざ85行目と86行目の間に "Präludium"(前奏曲)という音楽を入れたのは「ここから音楽が変わる」というシグナルだと思う。その前奏曲は「ベネディクトゥス」のための前奏曲だと思うのだが、そもそも「ベネディクトゥス」とは何なのだろう。そして、ベートーヴェンは何のために、ここにわざわざ前奏曲を置いたのだろうか。

ラテン語 "Benedictus" はおそらく「ほめられる」「たたえられる」「賛美される」という意味の名詞形だと思う。

礒山雅氏の資料によると、

『カトリック大事典』によれば、「感謝の賛歌Sanctus」は、「奉献文のなかで、司式者の感謝の祈り(叙唱)に答えて、会衆が歌う感謝と賛美の歌」です。それは東方教会から5世紀頃西方に入り、7世紀に〈ベネディクトゥス〉が付け加えられました。当初は簡単な旋律で歌われていましたが、11世紀には聖歌隊のためのものとなって複雑化し、それに対応して、司式司祭が叙唱後の奉献文を、沈黙のうちに唱える習慣が生まれました。「こうして聖歌隊が『聖なるかな』を歌い続けている間に、司祭は奉献文の祈りを続け、聖体制定句の後、司祭の沈黙の祈りと平行して後半の『ほむべきかな』が歌われるようになった」(国井健宏)のです。

また、礒山氏は、"Präludium" (前奏曲)について、

「この部分が短く終わると、『プレルーディウム』と題された部分に入り、ソステヌート・マ・ノン・トロッポで、静かな和声楽句が、ひとしきり奏されます(譜例13)。これは、パンとぶどう酒がキリストの肉と血に変ずること(聖変化)への、期待を込めた祈りのひとときと見るべきでしょう。」

さらに、

「このあたりで、(ベートーヴェンの)《ミサ・ソレムニス》は、典礼にもっとも接近しています。」

と、指摘している。

キリスト教になじみの薄い我々にとって、それらの指摘はピンと来ない。そこで、私なりに調べてみた。まず、私の手元にある「ルーテル教会式文」によると次のようにある(本来ならカトリックの式文が望ましいが、手元にない。ただ、ルーテル教会とカトリック教会の司式はほぼ同じなのでひどいズレははないと思う)。

「ルーテル教会式文」では「みことばの部」である「信仰の告白(クレド)」のあと「奉献の部」に続き「聖餐の部」に入る。

(そもそも「ルーテル教会式文」は、

1. 開会の部
2. みことばの部
3. 奉献の部
4. 聖餐の部
5. 派遣の部

の5つに分かれている)

3.奉献の部とは、献金などが行われる部分であり、文字通り「神に捧げ物を捧げる」儀式だと思う。そのあと、4.聖餐の部に入る。

4.聖餐の部では、まず讃美歌が歌われ、次に牧師と信徒により簡単な「序詞」が交わされる。

次に「サンクトゥス 〜 ベネディクトゥス」が歌われる。

そのあと「設定」というくだりに入る。それは司式者(牧師)によって次のような言葉が発せられる。

「私たちの主イエス・キリストは苦しみを受ける前日、パンを取り、感謝し、これを裂き、弟子たちに与えて言われました。『取って食べなさい。これはあなたがたのために与える私のからだである。私の記念のため、これを行いなさい』。食事ののち、杯をも同じようにして言われました。『取って飲みなさい。これは罪の赦しのため、あなたがたと多くの人々のために流す私の血における新しい契約である私の記念のため、これを行いなさい』。」

牧師は上の言葉を述べながら、用意されたパンとぶどう酒の覆いを取る。

その後「主の祈り」が唱えられる。

「天にましますわれらの父よ。
「願わくはみ名をあがめさせたまえ
(以下省略)

その次に下記の「平和の挨拶」が簡単に交わされ、

(司式者)主の平和が共にあるように。
(会衆)また、あなたとともに。

その次に「アニュス・デイ」が歌われ、そのあと、牧師によって

「洗礼の礼典にあずかったかたは、聖卓へお進みください」

という言葉に促されて聖餐式(カトリック教会では聖体拝領)が執り行われる。聖餐式が終わると聖餐の感謝が牧師と信徒によって簡単に唱えられ、4.聖餐の部が終わる。

以上、「ルーテル教会式文」から見てもわかる通り、ミサ曲の「サンクトゥス」から「アニュス・デイ」はまさしく聖餐式(聖体拝領)のための音楽なのである。そのなかで、ベートーヴェンは「82 聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな 83 万軍の神なる主 84 天と地はあなたの栄光に満ちています」という大仰な歌詞ではなく「ベネディクトゥス」こそ、彼自身がキリスト教の神秘を表すにふさわしい歌詞だと見なしたのだろう。

ところで「ベネディクトゥス」の歌詞、


86 Benedictus
87 qui venit in nomine Domini
88 Osanna in excelsis


たたえよ
主のみ名によってこられる方を
天にはホサナ



は、イエスがエルサレムに入場するときの群衆からの歓声

「そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。』」(マタイ21章9節)

から取られているのであるが、この「祝福」する主体は誰であろうか。それは神である。

日本語では「祝福」とは「人が人の幸福を祝い祈ること」に使われる場合が多いが、Benedictus における祝福は「神の祝福」である。広辞苑を含め大概の国語辞典には、上記の二つの意味が書いてあるようだ。

1. 幸福を喜び祝うこと。また、幸福を祈ること。「結婚を—する」「前途を—する」
2. キリスト教で、神の恵みが与えられること。また、神から与えられる恵み。

ちなみにルター訳聖書では、マタイ21章9節の Benedictus を単に "Gelobt sei"(ほめられよ)と訳してある。

ところが、面白いことに、"Benedictus" および "Gelobt sei"(ほめられよ)を、日本人的に誤解して「みんなの祝福があるように」と解するほうが、ベートーヴェンの解釈に合ってるような気がする。というのは、ベートーヴェンの "Benedictus" の音楽では「主の名によって来られる方」が「受難を経なければならないキリストであること」は、まだ表されていないと思うからである。ベートーヴェンの "Benedictus" では、イエスは人間から祝福される(美しくも頼もしい)ヒーローに過ぎない。イエスが苦闘のすえ、死を克服して「神の小羊」になるのは、ベートーヴェンの音楽の、まさに、"Agnus Dei" においてであると思う。"Agnus Dei" という楽章にこそ、キリストのヒーローから神への変化というテーマが力強く、また明確に歌われていると思う。私はそのようにとらえている(もっとも、キリストの神への変化というテーマは、オペラの前奏曲がそうであるように "Präludium" においてすでに提示または暗示されていると思う)。

「ヒーローから神への変化」というストーリーが、"Präludium" (前奏曲)から、"Agnus Dei" において、適切に表されているという意味で、私は、ジンマンの《ミサ・ソレムニス》は正しい解釈であると主張するのである。ベーム盤の「アニュス・デイ」におけるルートヴィヒの歌唱は強すぎて良くないし、バーンスタイン/コンセルトヘボウ盤(78年ライヴ)におけるエッダ・モーザーのヒステリックな歌唱はもっと良くない。

ベートーヴェンが、アニュス・デイの「97 Dona nobis pacem / 私たちに平和をお与え下さい」で戦争のない平和な世界を祈願したと解することに私は勿論異論はないが、私にはアニュス・デイの音楽は、キリストが、復活後、弟子たちの前に現れ「あなたがたに平和があるように」と告げる下記の場面が、合っているように思える。その場面でキリストはまだ昇天していない。まるで幽霊のようにあの世とこの世を行ったり来たりしている状態である(仏教で言うところの初七日である)。それは「ヨハネによる福音書第20章第19章」に出てくるキリスト。手に「釘跡」があり、わき腹に穴があるキリストである。作品123の「アニュス・デイ」が、音楽的に2つの極を持ち、その間を行ったり来たりして、不安定にゆらいでいるのは、キリストがまだ昇天していない「不安定な状態(人間ではないが神でもない)」を表しているのではないかと思う。「ディディモと呼ばれるトマス」がキリストの復活に確信を持てなかったように(それどころか彼は信じないと言い切っている)、ベートーヴェンの音楽もまた確信を持てずにゆらぐが、ついには最後のティンパニがキリストの昇天を表していると解釈してもいいかも知れない。ジンマンの《ミサ・ソレムニス》は、そういうことまで私に感じさせる。


その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」


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2008年10月 6日 (月)

ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べる(3)

Kubelik



Beethoven
Missa solemnis, op. 123
Helen Donath, Sopran
Brigitte Fassbaender, Alt
Peter Schreier, Tenor
John Shirley-Quirk, Bass
Chor des Bayerischen Rundfunks
Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
Rafael Kubelik
1977年3月10日、ライヴ録音、ミュンヘン、ヘルクレスザール
ORFEO

演奏時間 80'34

ベームのミサ・ソレムニスにおいて、アナログで録音されたものは、やはり、アナログで聴かないとダメとかなんとか考えたのがばからしくなるような明快な演奏。これは、ベーム盤が持っていた欠点をすべて逆に考えればいいと思う。

独唱者が上手い。
合唱が上手い。
音楽の組み立て方が上手い。

たとえば、ベーム盤の楽章間のコントラスト、すなわち、私が「グローリア、クレド」と「サンクトゥス 〜 アニュス・デイ」の「動」と「静」の対比とか書いてたのが意味なく思えてくる。ベーム盤には陰影とか隠し味があるように聞こえて、実際はそうじゃないことがわかる。ベーム盤は失敗作だ。もともと《ミサ・ソレムニス》という作品には陰影はないのだ。
ベートーヴェンは、第九にしても、このミサ・ソレムニスにしても、やはり楽譜の通り演奏すれば良い演奏になるような気がする。

繰り返し書くが、

独唱者が上手い > やはり役者が上なのか(歌手も指揮者も)。アンサンブルが美しいし、聴かせどころで上手い。

合唱が上手い > どっちがオペラ合唱団かわからん。バイエルン放送協会合唱団のほうが歌が上手いだけでなく、劇的表現が上手いし、ムード満点。

音楽の組み立て > これはクレンペラー盤にも言えると思うのだが、私のように「ミサ・ソレムニスはベートーヴェンの私小説だ」とい奇妙な解釈も受け入れるし、ベートーヴェンの言葉「こころから出てこころにかえる」も受け入れる。

ひとつだけネタをばらせば、アニュス・デイの例の軍隊音楽は、独唱と合唱の力でねじ伏せられている感じがある。そして、やはり最後のティンパニは不気味に響く。それらだけは、どんな指揮者が指揮しても謎めいて聞こえるのではないだろうか。ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》という音楽全体に優れた統一感と、構成と様式の美しさをもたらしたクーベリックでさえも、それらは力でねじ伏せているように感じる。

ちなみに、録音の問題にふれれば、これは放送音源である。

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ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べる(2)

Bohm


ベートーヴェン
ミサ・ソレムニス ニ長調 作品123
マーガレット・プライス(ソプラノ)
クリスタ・ルートヴィヒ(アルト)
ヴィエスワフ・オフマン(テノール)
マルティ・タルヴェラ(バス)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ゲルハルト・ヘッツェル(ヴァイオリン・ソロ)
ペーター・プラニヤフスキー(オルガン)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
カール・ベーム
1974年10月21〜24日、ウィーン、ムジークフェラインザール
DG

演奏時間 88'34

これは、LP 盤を持っているので「ミサ曲のテキストと《ミサ・ソレムニス》礒山雅」pdfファイル、461KBのミサ典礼文を見ながら、久しぶりにアナログでじっくり聴いてみた。結論から先に言うと、LP 盤で聴くほうが CD 盤で聴くより、作品と演奏をよく理解できる。その上さらに、上記ベーム盤は、必ずしも作品の本質に迫ってないことがわかった...ような気がする。

その前に言っておかなければならないが、アナログで録音されたものは、やはり、アナログで聴かないと、指揮者の本当の解釈が伝わらないケースは存在すると思う。上記 CD 盤とアナログ盤を聴き比べると、えらく印象が違う。困ったもんだ。繰り返すが、アナログ環境で録音されたものはアナログ環境で再生しないと指揮者の解釈が伝わらないという説が真だとすると、アナログ環境で録音された音源は、全部、アナログ環境で聴かないとダメということになる。そうなると、クラシック音楽において(またクラシック以外のジャンルにおいても)アナログ環境で録音された音源をリマスターした CD は「偽」ということになってしまう。上記 CD 盤はアナログ盤の雰囲気が伝わってこないばかりか指揮者の解釈も伝わらないという重大な欠陥もあるように思える(もっとも、上の場合、私はベームのミサ・ソレムニス アナログ盤を聴いて、はからずもベームの解釈が作品の本質に迫っていないことがわかったわけだが...)。もし上記のようなことが多々あるならば、過去の遺産のリスニングの不可能性を受け入れなければならなくなるのかも知れない。ただ、上記 CD は「例外的に」音楽を伝えない CD 盤だったのだろう。そして、そのような「例外的に」音楽を伝えない CD 盤を「例外」と認識できるリスナーは、それでよし。

ここで、あえて、ベームの《ミサ・ソレムニス》のアナログ盤と CD 盤の印象の違いに焦点を当てて書いてみる。

・キリエ 12'18
不思議なことに、LP 盤のほうが音の分離が良い。LP 盤のほうがオケ、合唱、独唱の音がくっきり聞こえる。そのためか、演奏がより堂々たるゆっくりしたテンポに聞こえる。ベームはここで、キリエとアニュス・デイ(17'18)の音楽的対等性を示しているかようだ(あたかも両者の演奏時間が同じに思えるほどだ)。

礒山氏の解説にあるように「憐れんでください eleison」という命令形動詞は、ラテン語では “miserere”、ドイツ語では “erbarme dich” に相当する。"Christe" と "Agnus Dei" は同義なので「Christe eleison」と「Agnus Dei miserere nobis」は同じことを歌っているわけだ。

「この言葉(ヨハネ 1.29)を採用して呼びかけに変え、そこに『私たちを憐れんでください』という応答を組み合わせて反復したのが、〈アニュス・デイ〉のテキストです。こうした憐れみの祈りがミサ曲歌詞の基調をなすものであり、〈キリエ〉の出発点に帰るものであることは、言うまでもありません」

「キリエ」は、般若心経でいえば、冒頭からいきなり「羯諦羯諦波羅羯諦」を歌っていることになる。「キリエ」と「アニュス・デイ」の違いは前者が「回心の祈り(懺悔)」を受けるものであり、後者が「聖体拝領のさなか」に歌われるという違いだけなのだ。

さて、ベーム指揮の問題点は、マーガレット・プライスの歌唱にあると思う。この人一人がアンサンブルを乱しているように思える。第1声の「キーリエ」は「オーリエ」に聞こえる。力が入りすぎているのだ。これはベームのミスだ。ルートヴィヒが上手いだけにプライスは下手に聞こえる。

・グローリア 18'36
「グローリア」「クレド」は「動」であり「サンクトゥス」以降は「静」であること。ベームの指揮はその両者の対比を強調したこと。それらは、LP 盤で聴きなおしてみて改めてわかった。

LP 盤を聴いて改めて感じたことがもう一つある。それは、


Cum Sancto spiritu
in gloria Dei Patris
Amen


あなたは聖霊とともに
父なる神の栄光のうちにあられます
アーメン



が、延々と歌われるのが、CD ではエキサイティングではあったが、大げさすぎるように聞こえた。
それに対し、LP では、この大フーガは、その前の部分とのつながりがよく、その前の音楽の流れに乗っかって自然に聞こえる。
ここは、三位一体(あなた=イエス・キリスト、聖霊、父なる神の一体)を唱えている。

ところで、私は、クレドにおいて "Et in Spiritum sanctum"(そして聖霊を信じます)から "in remissionem peccatorum"(それは罪の許しを得させるものです)までの部分がすっ飛ばされていて「父と子と聖霊が一体であること(すなわち三位一体)」が軽んじられていると「ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べる(1)」で指摘したが、それ(三位一体の教義)は、グローリアにおける大フーガ "Cum Sancto spiritu in gloria Dei Patris Amen"(あなたは聖霊とともに父なる神の栄光のうちにあられます)で、すでに強調されているので、ベートーヴェンはクレドではその強調の重複を避けたのであろう。そのことも、LP 盤を聴いて初めてわかったように思う。

・クレド 21'44
素晴らしいクレドである。"Et vitam venturi saeculi Amen"(来るべき世の命を信ず アーメン)は、合唱が上手い。ここでも、SATB の4声がよく聴き取れる。この合唱は、さすがにオペラ指揮者ベームの面目躍如。

ところがである。クレドの最後は、独唱で閉められるが、ここがまたいまいちだ。合唱は良いのに、どうして独唱はダメなのか。

ところで《ミサ・ソレムニス》の合唱は、ヘンデルの《メサイア》の影響があると言われているが、"Et vitam venturi" を聞く限り両者はまったく異次元の宇宙に属していると思う。《メサイア》のソプラノは少年合唱、アルトはカンターテナーで歌われたはずだ。なぜなら、ヘンデルの時代は、女性は宗教音楽を歌うことを禁じられていたはずだ(あるいはもう解禁になっていたかも)。私は《メサイア》ではソプラノ・アルト合唱の超絶技巧はあり得ないと思う。

・サンクトゥス - ベネディクトゥス 18'17
上で述べた通り、ここで音楽が動から静に変わる。ベームは、その静を終楽章まで保持しているように聞こえる。しかし、それによって、作品123 を、グローリア、クレドの「動」、サンクトゥス以降の「静」という対比のパターンに閉じ込めてしまったかも知れない。あるいは、サンクトゥス以前とサンクトゥス以後に、音楽を切り離してしまったかも知れない。


Pleni sunt coeli et terra gloria tua
Osanna in excelsis


天と地はその栄光に満ちています
いと高きところにホサナ



で、ちょっと盛り上がるが、それは、その後の "Praeludium"と、ヴァイオリン・ソロおよびオブリガートのベネディクトゥスを美しく聴かせるためだけの音楽的な盛り上げの意味しか持たないように聞こえるのがベームの解釈の中途半端かも。
ベネディクトゥスの平安の世界。
ベームの指揮は、そこが美しい故にむしろ、クレドの激しさとの不連続性を感じさせる。


ところで、何故、グローリア、クレドでは多くの歌詞が歌われるのに対して、サンクトゥス以降は歌詞が少しであるのか。その理由は、言わずもがなだが、後者が聖体拝領のバック・グラウンド・ミュージックだからである。その間、聖体拝領が執り行われるのである。

ベネディクトゥスでの、ルートヴィヒの歌唱が素晴らしい。それを、きばったプライスがダメにしている。ヴァイオリン・ソロも素晴らしいのに..。

クレドのすごいフーガの後、その興奮を冷ますという目的で「サンクトゥス - ベネディクトゥス」が置かれたとして、それを「起承転結」の「転」ととらえるならば「結」のアニュス・デイをベームは如何に解釈しているか。

・アニュス・デイ 17'18
独唱者のアンサンブルがベストではない。それは、この盤の欠点である。ソプラノはヤノヴィッツでよかったのではないだろうか。
このアニュス・デイは、CD で聴くときれいだが微妙なニュアンスに欠け、LP で聴くと微妙なニュアンスと傷が両方聞こえるような気がする。要は、LP 盤と CD 盤を聴き比べられると、より深く聴けるということか。

「ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べる(1)」にて、私は「アニュス・デイ」でベートーヴェンは宗教音楽を書くよりむしろ私小説を書いたと指摘したが、ベームの演奏はその点中途半端だと思う。彼の演奏は世俗音楽と宗教音楽の折衷に終わっているように思える。

最後の "Dona nobis pacem" のあとのティンパニは「ジークフリートの葬送行進曲」の出だしに似てるような気がした。この曲は、最後は主人公の死で終わるのか?

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ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べる(1)

Otto_klemperer


Beethoven
Missa solemnis, op. 123
Elisabeth Söderstöm, soprano
Marga Höffgen, contralto
Waldemar Kmentt, tenor
Martti Talvela, bass
New Philharmonia Chorus & Orchestra
Otto Klemperer
Recorded: 30. IX & 1, 4 - 8, 11 - 13. X. 1965
EMI

演奏時間 79'31

第九を聴き比べるのに飽きたので、今度は《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べてみる。といっても、第九を聴き比べるために(難しい言葉でいえば第九受容に)作品123 は重要だと思う。ただ、この作品、あんまり人気ないですね〜。宗教曲というものが日本人にとって、身近じゃないというか、面白くないからだろう。この作品の宗教的観点からの解説は下記が最も適切かつ必要かつ十分だと思う。

・ミサ曲のテキストと《ミサ・ソレムニス》礒山雅(pdfファイル、461KB

私は、この作品は、ベートーヴェンの「私小説」または「第九のための習作」ととらえている。そして、宗教曲というより、ミサ曲の形を借りた交響曲ととらえている。「第九のための習作」「ミサ曲の形を借りた交響曲」という意味で、第九を聴くために参考になると思う。

このミサ曲はカトリックの宗教曲としては、適切な作品ではないであろう(おそらくこの作品は、決してバチカンではその一部でさえ演奏されることはないであろう)。

作品123 のクレドに関して、礒山氏も以下のように指摘している。

「さて、音楽はアレグロ・マ・ノン・トロッポ、4分の4拍子 となり、クレド動機が三たびあらわれます。これは、新たに聖霊への信仰告白(13)が始まることに対応した処置で、ここから新しい段落を起こすことは、モーツァルトの多くのミサ曲にも見られる扱い方です。しかしそのテキストは、クレド動機(歌詞付き)に重ねて早口で唱えられるに過ぎず、回帰したクレド動機による音楽の力強い展開に圧倒されています(譜例12)」

ベートーヴェンは自分の好きなところだけ、チョイスして、巨大な音楽を書いたように思える。反対に無視された部分は、上記で指摘されている






Et in Spiritum sanctum,
Dominum, et vivificantem:
qui ex Patre Filioque procedit.
Qui cum Patre et Filio
simul adoratur,
et conglorificatur:
qui locutus est per Prophetas.
Et unam sanctam
catholicam et apostolicam Ecclesiam.
Confiteor unum baptisma
in remissionem peccatorum.

そして(信じます)、聖霊を、
主にして生命を与える者を。
それは父と子から発し、
父と子と
変わりなく拝せられ、
栄光を共にします。
それは預言者たちによって語られたもの。
そして(信じます)、ひとつの聖なる
普遍的な、使徒伝来の教会を。
一である洗礼への信仰を告白します、
それは罪の許しを得させるもの。


「クレド」は、父と子と聖霊が一体であること(すなわち三位一体)を押さえているのだから、上の「聖霊を信じます」というコンフェッションも大事だと思うのだが、ベートーヴェンの音楽を聴くとこの箇所は何を歌っているのか聴き取れない。それに対し、"Et vitam venturi saeculi"(来るべき世の命を信ず)は長い(2つのフーガ)。


ベートーヴェンはミサの典礼文の中で自分の好きなところだけ長い音楽をつけていると思う。ベートーヴェンが選んだ好きな文とは、この "Et vitam venturi saeculi"(来るべき世の命を信ず)と、アニュス・デイの "Dona nobis pacem"(私たちに平和(平安)を与えて下さい)だけだと思う。つまり、当時の彼にとって重大問題は「死に対する不安」と「死の不安から逃れるための、神の恩寵による救いと、それによるこころの平安」だったと私は思う。私が「作品123 はベートーヴェンの私小説ととらえる」というのはそういう意味である。もちろん、アニュス・デイにおける「平和」はこころの平和だけでなく、音楽に進軍ラッパが出てくることからして、当時の世相を表し、世の混沌に対し平和を願う意味もあっただろう。しかし、私はあの部分は、世の中全体に対するベートーヴェンの思いより、彼個人の私生活上のごたごたに対する彼の思いを表すもののように思える。あの進軍ラッパはベートーヴェンを脅かす身の回りの騒動を表しているように聞こえる。たしかにその「進軍ラッパ」は、一度のみならず、インターバルのあと、もう一度強調されて現れるので、それが戦争を意味するととらえるのがもっともだろうが、そのあとがあっさりしているように思える。それは、ベートーヴェンの過去における手法に比べ、あっさりしすぎているように私には思える。私にはあの進軍ラッパは不安神経症による幻聴に聞こえる。


「第九のための習作」「ミサ曲の形を借りた交響曲」というのは作品を聴けばわかるので省略する....などと書いたら、読者におこられるだろうから、一言書いておく。「グローリア」と「クレド」は大まかにいってソナタ形式になっていると思う。ベートーヴェンは、第九の合唱付きの終楽章を書くにあたって、ソナタ形式にしようかどうか迷ったかも知れない。しかし、彼はしなかった。おそらく、私の考えでは、作品123 の「グローリア」と「クレド」の形式的複雑さを、第九の終楽章においては、彼は避けたのだろうと思う。第九という交響曲の特徴は、第1楽章から第3楽章までの難解・複雑と第4楽章の単純・素朴の対比にあると思う。よって、ベートーヴェンは、第九の終楽章を複雑なソナタ形式にしなかったのだと私は思う。もっとも、第九の第4楽章を単純な楽章ととらえるのは表面的で乱暴な捉え方であるということは私も承知している。


ベーム、バーンスタイン、カラヤンなどと聴き比べてみたが、上記クレンペラー盤が一番わかりやすい演奏だった。その詳しい比較は後日書く。

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2008年10月 1日 (水)

ベートーヴェンの第九交響曲を聴き比べる(8)

Isserstedt


ベートーヴェン
交響曲 第9番 ニ短調 作品125《合唱》
ジョーン・サザーランド(ソプラノ)
マリリン・ホーン(アルト)
ジェイムズ・キング(テノール)
マルッティ・タルヴェラ(バス)
ウィーン国立歌劇場合唱団
合唱指揮:ヴィルヘルム・ピッツ
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ハンス・シュミット=イッセルシュテット
1965年スタジオ録音
DECCA

演奏時間
第1楽章 16'38
第2楽章 10'10
第3楽章 15'50
第4楽章 25'46

私は、比較するために、各楽章の演奏時間をしきりに書いているが、どうもどれも大差ないようである。意外に第九交響曲の演奏時間はピリオド演奏をのぞいて似たような演奏時間になるようだ(70分足らず)。あるいは、そのぐらいの演奏時間が私の好みに合うということか。

さて、イッセルシュテットの第九は、惜しむらくは、録音が良くない。どうも第九交響曲は録音しにくい作品のようである。いままで、紹介した中では、ジンマン、Jos van Immerseel、ラトルのが良かった(新しいデジタル録音だから当たり前だが...)。あと、スウィトナー(1980-83年、DENNON)のもいいようだ。サヴァリッシュの第九はあまり良くなかった。

イッセルシュテットのは DECCA なのでもっといい音にリマスタリングできるんじゃないかと思うのだが...。ところで、近くイッセルシュテットのベートーヴェン交響曲 SHM-CD 盤が発売されるようだが、私はあまり期待してない。どうも SHM-CD はインチキ商品のように思える。

もと(マスター)が良くなければ、高級素材を使っても良くならないでしょ! SHM-CD 盤で再発売される商品は、多分、もとをいじって良くなったように思わせ、高値で再発売して儲けようという魂胆だろう。あの高価な価格はもとをいじる手間賃のように思える。SHM-CD というのは、従来商品との差別化の口実のように思える。イッセルシュテットの第九は悪くないので、試しに買ってみようかと思うが、1000円の廉価盤が2500円とは...。買うのやめた。

イッセルシュテットの第九は録音が良くないと書いたが、1965年の音としては、最良のほうだろう。ただ私の好みに合わないだけかも知れない。もっと色艶が欲しかった。おそらくアナログ盤ならそれが聴けると思う(そういえば、私はイッセルシュテット指揮ウィーン・フィル&バックハウスのベートーヴェン: Pf 協奏曲の LP 盤を持っていたのだが紛失した。聴いてみたい)。

肝心の演奏だが、これは、ユザーレビューなどに書いてある通りである。すなわち「余計なものを廃したウィーン・フィルそのもの」である。

余談だが「ピリオド」という言葉はこのような音のために使うのではないだろうか。なぜなら、イッセルシュテットのベートーヴェンを聴けば、60年代のウィーン・フィルの音が現在のウィーン・フィルの音と違うことを知ることができるわけで、それは60年代という「ピリオド」のウィーン・フィルの音だから、それを真の意味での「ピリオド」と言えるからである。つまり「ピリオド」という概念は、いきなり、ベートーヴェンの時代までさかのぼらなくても、まずは、1960年代とか、今世紀前半に、さかのぼればいいのじゃないかと思う。それだけでもかなり奏法や音が変わると思う。

話題をイッセルシュテットのベートーヴェンに戻す。
第3楽章までは文句なし。こういう演奏なら、私の嗜好からすれば、はまりそう。病みつきになりそう。中毒しそう。実際、イッセルシュテットの隠れファンは多いようだ。バーンスタインのウィーン・フィルによるベートーヴェンをあまり受け付けなかった私にとって、イッセルシュテットのベートーヴェンは、隠れた名盤に思えた。
(バーンスタインのベートーヴェンは NYP のが良い)
ところが、最終楽章にいたって、がっくりきた。4人の独唱者があまり良くない。イッセルシュテットという人は声楽曲を演奏するセンスがないのか、とにかく4人の独唱者のアンサンブルが良くない。それ以外は良いのに、なんでそこだけ良くないのか。ウィーン国立歌劇場合唱団も良く歌っているのに...。

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