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2008年10月10日 (金)

ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べる(4)

Zinman


Beethoven
Missa solemnis, op. 123
Luba Orgonasova, soprano
Anna Larsson, alto
Rainer Trost, tenor
Franz-Josef Selig, bass
Schweizer Kammerchor
Tonhalle Orchestra Zurich
David Zinman
2001年5月録音
ARTE NOVA

演奏時間 65'57

この演奏は、演奏時間が短く聴きやすいだけでなく、正しい解釈によるものだと思う。とくに「ベネディクトゥス」に入る前の "Präludium" (プレルーディウム、前奏曲)からラストまでの解釈が良い(ミサ典礼文を訳したので参照のこと。"Präludium" は85行目と86行目の間)。

ジンマンの《ミサ・ソレムニス》について、アマゾンのカスタマーレビューに投稿されてある haubenstock という人のレビューが参考になる。

「クレドの二重フーガから後半はstrettaになり、どの演奏者が最初にゴールにつくのかの短距離走のような感じです。」

CD についているリーフレットには、"Schweizer Kammerchor"(スイス室内合唱団)のメンバー表がのっているが、総勢80名あまりのメンバーの名前が書かれてある。もしこれらの人々が、この演奏で歌ってるとしたら、その80名あまりが、200〜400メートルぐらいを一気にゴール目指して駆け込んでいることになる。

ちなみに、作品123の「クレド」の二重フーガのエンディングは、"Grave"(ジンマンの CD でトラック14)になるが、この部分で4人の独唱者を中心に歌われる「アーメン」は第九交響曲の下記カデンツァに似ているような気がする(midi)。

Beethoven_125_4_1

さて、ベートーヴェンがわざわざ85行目と86行目の間に "Präludium"(前奏曲)という音楽を入れたのは「ここから音楽が変わる」というシグナルだと思う。その前奏曲は「ベネディクトゥス」のための前奏曲だと思うのだが、そもそも「ベネディクトゥス」とは何なのだろう。そして、ベートーヴェンは何のために、ここにわざわざ前奏曲を置いたのだろうか。

ラテン語 "Benedictus" はおそらく「ほめられる」「たたえられる」「賛美される」という意味の名詞形だと思う。

礒山雅氏の資料によると、

『カトリック大事典』によれば、「感謝の賛歌Sanctus」は、「奉献文のなかで、司式者の感謝の祈り(叙唱)に答えて、会衆が歌う感謝と賛美の歌」です。それは東方教会から5世紀頃西方に入り、7世紀に〈ベネディクトゥス〉が付け加えられました。当初は簡単な旋律で歌われていましたが、11世紀には聖歌隊のためのものとなって複雑化し、それに対応して、司式司祭が叙唱後の奉献文を、沈黙のうちに唱える習慣が生まれました。「こうして聖歌隊が『聖なるかな』を歌い続けている間に、司祭は奉献文の祈りを続け、聖体制定句の後、司祭の沈黙の祈りと平行して後半の『ほむべきかな』が歌われるようになった」(国井健宏)のです。

また、礒山氏は、"Präludium" (前奏曲)について、

「この部分が短く終わると、『プレルーディウム』と題された部分に入り、ソステヌート・マ・ノン・トロッポで、静かな和声楽句が、ひとしきり奏されます(譜例13)。これは、パンとぶどう酒がキリストの肉と血に変ずること(聖変化)への、期待を込めた祈りのひとときと見るべきでしょう。」

さらに、

「このあたりで、(ベートーヴェンの)《ミサ・ソレムニス》は、典礼にもっとも接近しています。」

と、指摘している。

キリスト教になじみの薄い我々にとって、それらの指摘はピンと来ない。そこで、私なりに調べてみた。まず、私の手元にある「ルーテル教会式文」によると次のようにある(本来ならカトリックの式文が望ましいが、手元にない。ただ、ルーテル教会とカトリック教会の司式はほぼ同じなのでひどいズレははないと思う)。

「ルーテル教会式文」では「みことばの部」である「信仰の告白(クレド)」のあと「奉献の部」に続き「聖餐の部」に入る。

(そもそも「ルーテル教会式文」は、

1. 開会の部
2. みことばの部
3. 奉献の部
4. 聖餐の部
5. 派遣の部

の5つに分かれている)

3.奉献の部とは、献金などが行われる部分であり、文字通り「神に捧げ物を捧げる」儀式だと思う。そのあと、4.聖餐の部に入る。

4.聖餐の部では、まず讃美歌が歌われ、次に牧師と信徒により簡単な「序詞」が交わされる。

次に「サンクトゥス 〜 ベネディクトゥス」が歌われる。

そのあと「設定」というくだりに入る。それは司式者(牧師)によって次のような言葉が発せられる。

「私たちの主イエス・キリストは苦しみを受ける前日、パンを取り、感謝し、これを裂き、弟子たちに与えて言われました。『取って食べなさい。これはあなたがたのために与える私のからだである。私の記念のため、これを行いなさい』。食事ののち、杯をも同じようにして言われました。『取って飲みなさい。これは罪の赦しのため、あなたがたと多くの人々のために流す私の血における新しい契約である私の記念のため、これを行いなさい』。」

牧師は上の言葉を述べながら、用意されたパンとぶどう酒の覆いを取る。

その後「主の祈り」が唱えられる。

「天にましますわれらの父よ。
「願わくはみ名をあがめさせたまえ
(以下省略)

その次に下記の「平和の挨拶」が簡単に交わされ、

(司式者)主の平和が共にあるように。
(会衆)また、あなたとともに。

その次に「アニュス・デイ」が歌われ、そのあと、牧師によって

「洗礼の礼典にあずかったかたは、聖卓へお進みください」

という言葉に促されて聖餐式(カトリック教会では聖体拝領)が執り行われる。聖餐式が終わると聖餐の感謝が牧師と信徒によって簡単に唱えられ、4.聖餐の部が終わる。

以上、「ルーテル教会式文」から見てもわかる通り、ミサ曲の「サンクトゥス」から「アニュス・デイ」はまさしく聖餐式(聖体拝領)のための音楽なのである。そのなかで、ベートーヴェンは「82 聖なるかな 聖なるかな 聖なるかな 83 万軍の神なる主 84 天と地はあなたの栄光に満ちています」という大仰な歌詞ではなく「ベネディクトゥス」こそ、彼自身がキリスト教の神秘を表すにふさわしい歌詞だと見なしたのだろう。

ところで「ベネディクトゥス」の歌詞、


86 Benedictus
87 qui venit in nomine Domini
88 Osanna in excelsis


たたえよ
主のみ名によってこられる方を
天にはホサナ



は、イエスがエルサレムに入場するときの群衆からの歓声

「そして群衆は、イエスの前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。』」(マタイ21章9節)

から取られているのであるが、この「祝福」する主体は誰であろうか。それは神である。

日本語では「祝福」とは「人が人の幸福を祝い祈ること」に使われる場合が多いが、Benedictus における祝福は「神の祝福」である。広辞苑を含め大概の国語辞典には、上記の二つの意味が書いてあるようだ。

1. 幸福を喜び祝うこと。また、幸福を祈ること。「結婚を—する」「前途を—する」
2. キリスト教で、神の恵みが与えられること。また、神から与えられる恵み。

ちなみにルター訳聖書では、マタイ21章9節の Benedictus を単に "Gelobt sei"(ほめられよ)と訳してある。

ところが、面白いことに、"Benedictus" および "Gelobt sei"(ほめられよ)を、日本人的に誤解して「みんなの祝福があるように」と解するほうが、ベートーヴェンの解釈に合ってるような気がする。というのは、ベートーヴェンの "Benedictus" の音楽では「主の名によって来られる方」が「受難を経なければならないキリストであること」は、まだ表されていないと思うからである。ベートーヴェンの "Benedictus" では、イエスは人間から祝福される(美しくも頼もしい)ヒーローに過ぎない。イエスが苦闘のすえ、死を克服して「神の小羊」になるのは、ベートーヴェンの音楽の、まさに、"Agnus Dei" においてであると思う。"Agnus Dei" という楽章にこそ、キリストのヒーローから神への変化というテーマが力強く、また明確に歌われていると思う。私はそのようにとらえている(もっとも、キリストの神への変化というテーマは、オペラの前奏曲がそうであるように "Präludium" においてすでに提示または暗示されていると思う)。

「ヒーローから神への変化」というストーリーが、"Präludium" (前奏曲)から、"Agnus Dei" において、適切に表されているという意味で、私は、ジンマンの《ミサ・ソレムニス》は正しい解釈であると主張するのである。ベーム盤の「アニュス・デイ」におけるルートヴィヒの歌唱は強すぎて良くないし、バーンスタイン/コンセルトヘボウ盤(78年ライヴ)におけるエッダ・モーザーのヒステリックな歌唱はもっと良くない。

ベートーヴェンが、アニュス・デイの「97 Dona nobis pacem / 私たちに平和をお与え下さい」で戦争のない平和な世界を祈願したと解することに私は勿論異論はないが、私にはアニュス・デイの音楽は、キリストが、復活後、弟子たちの前に現れ「あなたがたに平和があるように」と告げる下記の場面が、合っているように思える。その場面でキリストはまだ昇天していない。まるで幽霊のようにあの世とこの世を行ったり来たりしている状態である(仏教で言うところの初七日である)。それは「ヨハネによる福音書第20章第19章」に出てくるキリスト。手に「釘跡」があり、わき腹に穴があるキリストである。作品123の「アニュス・デイ」が、音楽的に2つの極を持ち、その間を行ったり来たりして、不安定にゆらいでいるのは、キリストがまだ昇天していない「不安定な状態(人間ではないが神でもない)」を表しているのではないかと思う。「ディディモと呼ばれるトマス」がキリストの復活に確信を持てなかったように(それどころか彼は信じないと言い切っている)、ベートーヴェンの音楽もまた確信を持てずにゆらぐが、ついには最後のティンパニがキリストの昇天を表していると解釈してもいいかも知れない。ジンマンの《ミサ・ソレムニス》は、そういうことまで私に感じさせる。


その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

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