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2008年10月 6日 (月)

ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べる(2)

Bohm


ベートーヴェン
ミサ・ソレムニス ニ長調 作品123
マーガレット・プライス(ソプラノ)
クリスタ・ルートヴィヒ(アルト)
ヴィエスワフ・オフマン(テノール)
マルティ・タルヴェラ(バス)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ゲルハルト・ヘッツェル(ヴァイオリン・ソロ)
ペーター・プラニヤフスキー(オルガン)
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
カール・ベーム
1974年10月21〜24日、ウィーン、ムジークフェラインザール
DG

演奏時間 88'34

これは、LP 盤を持っているので「ミサ曲のテキストと《ミサ・ソレムニス》礒山雅」pdfファイル、461KBのミサ典礼文を見ながら、久しぶりにアナログでじっくり聴いてみた。結論から先に言うと、LP 盤で聴くほうが CD 盤で聴くより、作品と演奏をよく理解できる。その上さらに、上記ベーム盤は、必ずしも作品の本質に迫ってないことがわかった...ような気がする。

その前に言っておかなければならないが、アナログで録音されたものは、やはり、アナログで聴かないと、指揮者の本当の解釈が伝わらないケースは存在すると思う。上記 CD 盤とアナログ盤を聴き比べると、えらく印象が違う。困ったもんだ。繰り返すが、アナログ環境で録音されたものはアナログ環境で再生しないと指揮者の解釈が伝わらないという説が真だとすると、アナログ環境で録音された音源は、全部、アナログ環境で聴かないとダメということになる。そうなると、クラシック音楽において(またクラシック以外のジャンルにおいても)アナログ環境で録音された音源をリマスターした CD は「偽」ということになってしまう。上記 CD 盤はアナログ盤の雰囲気が伝わってこないばかりか指揮者の解釈も伝わらないという重大な欠陥もあるように思える(もっとも、上の場合、私はベームのミサ・ソレムニス アナログ盤を聴いて、はからずもベームの解釈が作品の本質に迫っていないことがわかったわけだが...)。もし上記のようなことが多々あるならば、過去の遺産のリスニングの不可能性を受け入れなければならなくなるのかも知れない。ただ、上記 CD は「例外的に」音楽を伝えない CD 盤だったのだろう。そして、そのような「例外的に」音楽を伝えない CD 盤を「例外」と認識できるリスナーは、それでよし。

ここで、あえて、ベームの《ミサ・ソレムニス》のアナログ盤と CD 盤の印象の違いに焦点を当てて書いてみる。

・キリエ 12'18
不思議なことに、LP 盤のほうが音の分離が良い。LP 盤のほうがオケ、合唱、独唱の音がくっきり聞こえる。そのためか、演奏がより堂々たるゆっくりしたテンポに聞こえる。ベームはここで、キリエとアニュス・デイ(17'18)の音楽的対等性を示しているかようだ(あたかも両者の演奏時間が同じに思えるほどだ)。

礒山氏の解説にあるように「憐れんでください eleison」という命令形動詞は、ラテン語では “miserere”、ドイツ語では “erbarme dich” に相当する。"Christe" と "Agnus Dei" は同義なので「Christe eleison」と「Agnus Dei miserere nobis」は同じことを歌っているわけだ。

「この言葉(ヨハネ 1.29)を採用して呼びかけに変え、そこに『私たちを憐れんでください』という応答を組み合わせて反復したのが、〈アニュス・デイ〉のテキストです。こうした憐れみの祈りがミサ曲歌詞の基調をなすものであり、〈キリエ〉の出発点に帰るものであることは、言うまでもありません」

「キリエ」は、般若心経でいえば、冒頭からいきなり「羯諦羯諦波羅羯諦」を歌っていることになる。「キリエ」と「アニュス・デイ」の違いは前者が「回心の祈り(懺悔)」を受けるものであり、後者が「聖体拝領のさなか」に歌われるという違いだけなのだ。

さて、ベーム指揮の問題点は、マーガレット・プライスの歌唱にあると思う。この人一人がアンサンブルを乱しているように思える。第1声の「キーリエ」は「オーリエ」に聞こえる。力が入りすぎているのだ。これはベームのミスだ。ルートヴィヒが上手いだけにプライスは下手に聞こえる。

・グローリア 18'36
「グローリア」「クレド」は「動」であり「サンクトゥス」以降は「静」であること。ベームの指揮はその両者の対比を強調したこと。それらは、LP 盤で聴きなおしてみて改めてわかった。

LP 盤を聴いて改めて感じたことがもう一つある。それは、


Cum Sancto spiritu
in gloria Dei Patris
Amen


あなたは聖霊とともに
父なる神の栄光のうちにあられます
アーメン



が、延々と歌われるのが、CD ではエキサイティングではあったが、大げさすぎるように聞こえた。
それに対し、LP では、この大フーガは、その前の部分とのつながりがよく、その前の音楽の流れに乗っかって自然に聞こえる。
ここは、三位一体(あなた=イエス・キリスト、聖霊、父なる神の一体)を唱えている。

ところで、私は、クレドにおいて "Et in Spiritum sanctum"(そして聖霊を信じます)から "in remissionem peccatorum"(それは罪の許しを得させるものです)までの部分がすっ飛ばされていて「父と子と聖霊が一体であること(すなわち三位一体)」が軽んじられていると「ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べる(1)」で指摘したが、それ(三位一体の教義)は、グローリアにおける大フーガ "Cum Sancto spiritu in gloria Dei Patris Amen"(あなたは聖霊とともに父なる神の栄光のうちにあられます)で、すでに強調されているので、ベートーヴェンはクレドではその強調の重複を避けたのであろう。そのことも、LP 盤を聴いて初めてわかったように思う。

・クレド 21'44
素晴らしいクレドである。"Et vitam venturi saeculi Amen"(来るべき世の命を信ず アーメン)は、合唱が上手い。ここでも、SATB の4声がよく聴き取れる。この合唱は、さすがにオペラ指揮者ベームの面目躍如。

ところがである。クレドの最後は、独唱で閉められるが、ここがまたいまいちだ。合唱は良いのに、どうして独唱はダメなのか。

ところで《ミサ・ソレムニス》の合唱は、ヘンデルの《メサイア》の影響があると言われているが、"Et vitam venturi" を聞く限り両者はまったく異次元の宇宙に属していると思う。《メサイア》のソプラノは少年合唱、アルトはカンターテナーで歌われたはずだ。なぜなら、ヘンデルの時代は、女性は宗教音楽を歌うことを禁じられていたはずだ(あるいはもう解禁になっていたかも)。私は《メサイア》ではソプラノ・アルト合唱の超絶技巧はあり得ないと思う。

・サンクトゥス - ベネディクトゥス 18'17
上で述べた通り、ここで音楽が動から静に変わる。ベームは、その静を終楽章まで保持しているように聞こえる。しかし、それによって、作品123 を、グローリア、クレドの「動」、サンクトゥス以降の「静」という対比のパターンに閉じ込めてしまったかも知れない。あるいは、サンクトゥス以前とサンクトゥス以後に、音楽を切り離してしまったかも知れない。


Pleni sunt coeli et terra gloria tua
Osanna in excelsis


天と地はその栄光に満ちています
いと高きところにホサナ



で、ちょっと盛り上がるが、それは、その後の "Praeludium"と、ヴァイオリン・ソロおよびオブリガートのベネディクトゥスを美しく聴かせるためだけの音楽的な盛り上げの意味しか持たないように聞こえるのがベームの解釈の中途半端かも。
ベネディクトゥスの平安の世界。
ベームの指揮は、そこが美しい故にむしろ、クレドの激しさとの不連続性を感じさせる。


ところで、何故、グローリア、クレドでは多くの歌詞が歌われるのに対して、サンクトゥス以降は歌詞が少しであるのか。その理由は、言わずもがなだが、後者が聖体拝領のバック・グラウンド・ミュージックだからである。その間、聖体拝領が執り行われるのである。

ベネディクトゥスでの、ルートヴィヒの歌唱が素晴らしい。それを、きばったプライスがダメにしている。ヴァイオリン・ソロも素晴らしいのに..。

クレドのすごいフーガの後、その興奮を冷ますという目的で「サンクトゥス - ベネディクトゥス」が置かれたとして、それを「起承転結」の「転」ととらえるならば「結」のアニュス・デイをベームは如何に解釈しているか。

・アニュス・デイ 17'18
独唱者のアンサンブルがベストではない。それは、この盤の欠点である。ソプラノはヤノヴィッツでよかったのではないだろうか。
このアニュス・デイは、CD で聴くときれいだが微妙なニュアンスに欠け、LP で聴くと微妙なニュアンスと傷が両方聞こえるような気がする。要は、LP 盤と CD 盤を聴き比べられると、より深く聴けるということか。

「ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴き比べる(1)」にて、私は「アニュス・デイ」でベートーヴェンは宗教音楽を書くよりむしろ私小説を書いたと指摘したが、ベームの演奏はその点中途半端だと思う。彼の演奏は世俗音楽と宗教音楽の折衷に終わっているように思える。

最後の "Dona nobis pacem" のあとのティンパニは「ジークフリートの葬送行進曲」の出だしに似てるような気がした。この曲は、最後は主人公の死で終わるのか?

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