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2008年9月 7日 (日)

ベートーヴェンの第九交響曲を聴き比べる(2)

 詩というものは、読んだり歌ったりして気持ちよければそれでよい。しかし、それを訳す場合は、それだけではいけない。どうしても、細かいニュアンスにこだわりたくなる。私は、シラーの原詩《歓喜に寄す》とベートーヴェンが第4楽章に用いた《歓喜の歌》を試訳してみた(試訳1試訳2)。シラーの原詩は、ヴァース(独唱部)8行と、コーラス(合唱部)4行が、1セットになっていて、それが9回繰り返され、全108行である。ヴァース(独唱部)8行は、2x4行が韻律をなしていて、音節数は、日本風にいえば、八七調である。コーラス(合唱部)4行は、八七七八調である。ベートーヴェンはシラーの原詩《歓喜に寄す》から、その3分の1にあたる36行をとって作曲した。

この詩は、第1,2行から難しい。

Freude, schöner Götterfunken,
(喜び、美しい神々の火花)
Tochter aus Elysium,
(エリュシオンの娘)

いきなり、文章になってない、三つの名詞に対する呼びかけに始まるが、それらの三つの名詞群「喜び」「美しい神々の火花」「エリュシオンの娘」の関係がわからない。

私が持っている30年ほど前に購入したロベルト・シンチンゲルの「現代独和辞典」には付録にレトリック(修辞法)の解説が載っていて、この詩が取り上げられていた。それによると、

13-3 思考のあや
13-3-1 頓呼法(Apostrophe, Anruf)
 話し手(作者)が現実から一歩離れて、虚構の現実の中で呼びかける.
Freude, schöner Götterfunken,
Tochter aus Elysium,
Wir betreten feuertrunken,
Himmlische, dein Heiligtum! (Schiller)
Alter Freund! Immer getreuer Schlaf! (Goethe)

とある。
ゲーテの例は、

Alter Freund! Immer getreuer Schlaf!
(古い友(旧友)よ! いつも誠実な眠りよ!)

「古い友」と「誠実な眠り」は、同じものを意味し、この行は同じものへの呼びかけである。それに対し、シラーの三つの言葉「喜び」「美しい神々の火花」「エリュシオンの娘」は同じものといえるのかどうかわからない。まず、ここが難しい。

さらに、

Wir betreten feuertrunken,
(私たちは火に酔い、)
Himmlische, dein Heiligtum!
(あなたの天の聖殿に入る!)

"Himmlische, dein Heiligtum! あなたの天の聖殿" の "dein あなた" とは、だれだろうか? さらに第5行目の "Deine Zauber あなたの魔法" の "Deine あなた" は、だれなのだろうか? 

ベートーヴェンは、第4楽章のコーダ(Allegro ma non tanto)で下記(midi)のように、第1節をはしょって(つまり第1節から言葉を選んで)、"Freude (Tochter), Tochter aus Elysium! Tochter, Tochter aus Elysium! Deine Zauber, deine Zauber..."と、歌わせている。

Beethoven_125_4_2

ここを聴く限り、"Tochter aus Elysium エリュシオンの娘よ" と呼びかけ、そのあと、"Deine Zauber あなたの魔法は..." と歌われるのだから "Deine あなた" という所有代名詞がさすのは「エリュシオンの娘」となる。すると「シラーの詩の第1節にでてくる所有代名詞 "dein" は『エリュシオンの娘』をさしていると、ベートーヴェンは解釈している」と考えられる。

私も、この詩の第1節に出でくる所有代名詞 "dein" は、"Tochter aus Elysium エリュシオンの娘" をさしていると解釈する。「そうじゃない」と思う人には「では、この "dein あなた" はだれですか?」と聞きたい。"Freude 喜び" であろうか? もしそう解釈すれば、上のベートーヴェンの音楽において、"Freude 喜び" と "Tochter aus Elysium エリュシオンの娘" は意味的に同格ということになるであろう。そういうのを隠喩(メタファー)というのだろうが、上記、ゲーテの詩における「古い友」は「眠り」のメタファーなっているのに比べ、シラーのメタファーは、メタファーになっていないような気がする。最初の2行。ここでシラーは、ただ、三つの言葉を、曖昧に並べただけで、そこにメタファーとか関係性とかを、あえて持たせていないような気がする。この2行はメタファーとかレトリック上の関係性とかの明確さを持ってないからこそむしろ、カッコよく、気持ち良く歌える効果があると、私は考える。ただし「喜び」という感情が人類を兄弟にするという解釈を私は否定するものではない。私は、この第1節の "dein あなた" がさすのは、"Freude 喜び" ではなく、"Tochter aus Elysium エリュシオンの娘" である可能性のほうが高いと主張するのである(注1)


第2節の最初の4行は、訳が二通りある。一つは、2行目までで意味を切って、「大成功(der große Wurf)を成し遂げた者は、友の友となりなさい」と訳す。もう一つは、"Eines Freundes Freund zu sein," という「zu + 不定形」を "der große Wurf" にかけて「友の友になるという大幸運」と訳す。これは、どちらでもいいと思う。「zu + 不定形」は、英語の「to + 不定詞」と同じで、結果に訳すこともあるし、ある語の修飾句として訳す場合もある。

5行目以下、

Ja, wer auch nur eine Seele
(いや、たとえたった一個の魂であっても)
Sein nennt auf dem Erdenrund!
(この世でそれを己がものと呼ぶ者も!)

ここは「魂をたった一個でもいいからゲットした者は」という意味であろう。ここでいう「魂をこの世でそれを己がものと呼ぶ者」とは以下のようなことだと思う。昔私はロックを聴いていたが、たとえば、ジョン・レノンのアルバムに邦題「ジョンの魂」というアルバムがあった。そのアルバムタイトルは「このアルバムは作者の魂である」ということを表していたと思う。芸術作品(文学作品、思想、哲学)に魂が込められていたとして、それに共感できること。シラーの原詩の第22行には、"huldige der Simpathie! 共感することを尊びなさい" と出てくる。したがって、第17-18行(以下、行番号はシラーの原詩の行番号を示す)は「たとえ、友や妻を得なくとも、芸術作品などに込められた魂を自分のものと呼べる者は、その喜びを分かち合え!」といっているのだと思う。

もう一つの解釈は「見捨てられたような、孤独な、ひそやかな、ささやかな魂に心を通わすやさしい心の持ち主は」という解釈である。

私は、"Ja" を日本語の否定語「いや」と訳した。「友や妻を得た者でなくてもいい」との否定である。他方、後者 "Ja" は「そうだ、さらにいえば...」と訳されることになろう。

ちなみに、"Eines Freundes Freund 友の友" は、言葉遊びに過ぎないと思う。意味は、"Eines Menschen Freund ある人の友" でかまわないと思う。これはタモリの『笑っていいとも』に出てくる友達の輪(友達の友達は皆友達)というイメージでいいと思う。

第19 - 20行

Und wer's nie gekonnt, der stehle
(だがそれさえもできなかった者は)
Weinend sich aus diesem Bund.
(泣きながらこのきずなから忍び出よ。)

で、シラーは読者をつきはなしているのだろうか。私の解釈は「生きている人間で、他者に共感できない者など、ひとりもいないのだから、このきずなから出て行かなければならない人はいない」という肯定的解釈である。

さて次に、

ベートーヴェンの《歓喜の歌》では、三番に当たる第25行目以降が難しい。ベートーヴェンの音楽でも、この部分から音楽が複雑になる。第28行目を、

Alle Guten, alle Bösen
(善人も悪人もみな)
Folgen ihrer Rosenspur.
(自然が用意した薔薇の足跡を追う。)

と訳したが、ここは、"Folgen ihrer Rosenspur. 彼らの薔薇の道をいく" でかまわない。ただ、"ihrer" を「彼らの」と訳した場合「善人は善の道を、悪人は悪の道をいく」となって悪人が悪の道を行くのは困るので、私はこだわった(注4)。しかし、このこだわりはほとんど意味ない。ただ、所有代名詞 "ihrer" が本当に「彼らの」なのかどうかは気になる。「その(彼女の)」かも知れない。後者の場合、所有代名詞 "ihrer" 女性名詞単数は、Freude(喜び)、Natur(自然)または "Tochter aus Elysium エリュシオンの娘" をさすということが考えられる。というのは、第29行目の "sie" が女性名詞単数の人称代名詞なので同じものをさす可能性があるからである。ところが、第29行目の "sie" という「主語」が「与える」のは、

Küsse gab sie uns und Reben,
(それ(彼女)は私たちに口づけとぶどう酒と)
Einen Freund, geprüft im Tod;
(死の試練を乗り越えた友を与えた)

「口づけ」「ぶどう酒」「死の試練を乗り越えた友」を与えた "sie" はなんだろう? ぶどう酒は自然の恵みなので、 "sie" は「自然」かもしれない。しかし「自然」が「死の試練を乗り越えた友」を与えるだろうか。また「喜び」が「死の試練を乗り越えた友」を与えるだろうか。そもそも、"Einen Freund, geprüft im Tod; 死の試練を乗り越えた友" とはなにか。私は、太宰治の『走れメロス』をイメージした。『走れメロス』は、もともと、シラーのバラード『人質(die Bürgschaft)』(1797年)をもとにした小説らしい。主人公メロスと親友のセリヌンティウスは、あの小説の最後の場面で、お互いにお互いを死の試練を乗り越えた友と呼べるだろう。そして、そういう友情こそ死の試練を乗り越えた友情と呼べるだろう。しかし、それを「自然」が与えるか? 「喜び」が与えるか?

走れメロスのような状況は人間の行為が介在している。その結果である友情は人間の行為無しには生まれない。だからそれを与えたのは、人間の意志と行為であり、自然は無関係であると思う。

また人間に「死の試練を乗り越えた友」を与えるのが「喜び」であろうか? それは順序が逆のような気がする。人間は「死の試練を乗り越えた友」や「死の試練を乗り越えた友情」を得て、その結果、喜びの感情を得るのだと思う。「喜びは死の試練を乗り越えた友を与える」というのは因果関係が逆だと思う(注2)。なお、動詞 "gab" は過去形だが、ここは、現在形 "gibt" で解釈してもいいと思う。 "gibt" より "gab" のほうが、語呂がいいから "gab" 過去形にしたのだろうと思う。だが、"Einen Freund, geprüft im Tod;" の "geprüft" (prüfen の過去分詞)は「死の試練を乗り越えた」と過去形に訳すか「これから死の試練を乗り越えなければならない」と現在形あるいは未来形に訳すかでニュアンスが変わると思う。文法的には、"geprüft im Tod" という表現は「すでに死の試練を経た」という完了形のニュアンスになると思う。しかし、私は、ここを「死に試される友」と未来形で訳した。

シラーの原詩の第97行から最終行を見るとわかるように、この詩は最後は死者に捧げられている。この最終の第97-108行をシラーは後に削除したという事実があるようだ。また、この詩が "An die Freude 歓喜に寄す" ではなく、"An die Freiheit 自由に寄す" だったという俗説もある。私には、どうもこの詩は革命の詩のように思える。そして、最後に「冥界の審判者から穏やかな判決(第107-108行)」を得なければならないのは、革命、自由への戦いで戦死した死者ではないかと思う。"Todtenrichter 冥界の審判者" は、辞書に載ってない。これはおそらく、キリスト教の「最後の審判」におけるイエス・キリストのことではなく、ギリシャ神話、エジプト神話にでてくるもので、あの世で死者を裁く冥界の審判者のようである。日本でいえば閻魔大王だろう。いずれにしても、この詩で歌われる兄弟または友は、その審判者から、"ein sanfter Spruch 安けき審判" を得なければならない。シラーは、第30行で、この108 行目の冥界の審判者に裁かれる死者の「死」を先取りしたのでなかろうか。

冒頭にも書いたととおり、詩というものは、読んだり歌ったりして気持ちよければそれでよい。したがって、解釈も自由である。上記はあくまで、私の解釈である。では、ベートーヴェンがこの詩をどう解釈したかについての私の考えたこと、第九交響曲を聴いて私が解釈したことを最後に書く。

第4楽章は、合唱 "Freude, schöner Götterfunken! Götterfunken!" で閉じられ、プレスティッシモの熱狂で終わるわけだが、その前に下記(midi)の美しい言葉が歌われる。

Beethoven_125_4_3

この "Tochter aus Elysium" が、この第4楽章の主人公ではないかと私は思う。「全人類を兄弟にする者」も「やさしい翼」の持ち主も、この「娘 "Tochter aus Elysium"」であって「神」でも「ケルビム」でもないと私は思う。もともと、この詩は、ギリシャ神話のエリュシオンと創世記のケルビムが同時に出てくる。宗教的には多神教と一神教が混ざっている。日本でいえば神仏混淆である。こういう詩においては「神」の概念は飾りである。おそらく、シュトルム・ウント・ドラング時代の名残を持つであろうこの詩は、ロマン的であり、人間讃歌であり、神への讃歌ではないと思う。

ケルビム(Cherub:ドイツ語ではヒェールプと発音する)を重視する解釈もあるが、これは、第31行の「うじ虫」に対比させるために出てきた言葉に過ぎず、キューピッドの意味に解していいと思う。

ついでに書くが、上記、第30行目の"geprüft im Tod" の "Tod 死" に、私は深くこだわったが、これも、第32行の "Gott" と韻を踏むための語であり「神」と対比的に用いられた「死神」の意味であり、とくに「死」という概念にこだわる必要はないかもしれない。

29 Küsse gab sie uns und Reben,
30 Einen Freund, geprüft im Tod;
31 Wollust ward dem Wurm gegeben,
32 Und der Cherub steht vor Gott!

だいたい、この部分で、第31行は、Wollust, ward, Wurm の3語は「w」で頭韻を踏んであり、否定的な表現が強烈である。それを受けた第32行は、その反対の意味を強調する対比であり、壮麗である。ベートーヴェンの音楽もここでリピートされ一段落する。Wurm(うじ虫、足のない虫)は、雅語では「大蛇」(ワーグナーのジークフリートに登場する語)を意味するが、ここでは、文字通り足のない虫、私はあえて「うじ虫」と訳した。米川正夫訳カラマーゾフの兄弟では「虫けらに卑しきなさけ/エンゼルに神の大前」と訳されている。ドミートリが「この虫けらこそおれだ!」という場面である(この一節、シラーの原詩第 31, 32 行目が、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」において取り扱われたことに私は深い感銘を受ける)。そして、原詩では、Wollust、Wurm は「w」の頭韻を得るためだけに用いられたと思える。また、Cherub も Wurm の反対語として用いられただけのような気がする。だとしたら、Tod(死)もそれほど、こだわるべき言葉ではないと思われる。

30 Einen Freund, geprüft im Tod;

は、第29, 31, 32行目が上手く書けたのちに、苦し紛れで、シラーが挿入した一行であるようにも思える。この第30行は、ベートーヴェンの歓喜の歌でも、軽く歌い流される。それに、"geprüft im Tod" は歌いにくい箇所ではないだろうか。

streng geteilt(シラーの原詩では、Schwerd getheilt)第6行

Erdenrund 第18行

にくらべると、"geprüft im Tod;" は「ゲー・プフリューフト・イン・トート」となっていて、「ゲー」をのばさないといけないし、ここ(第31行)だけ、単語が3語あり、しかも、ge - prüftを切り離されなければ歌えない。韻律的にはここは、決してシラーのミスではない。しかし、歌うことを前提に書かれた詩として読めば、ここで引っかかる人もあるであろう。第九交響曲を歌ったことがある人には、多分ここは、歌いにくい箇所だったろうと思う。

話を元に戻せば、この詩が、キリスト教的神でも、ギリシャ・ローマ・ゲルマン的神々に対する讃歌でもないなら、この詩に登場する人物(神格)のなかで一番重要なのは誰か? それは "Tochter aus Elysium" であろう。この「トホター」は「ドーター(娘)」であり、ユングフラウ(処女)でもゲッティン(女神)でもないことに注意しよう。この娘はやがて、妻となり、母となるであろう。このトホターはゲーテ的な永遠に女性的なものと同じイメージであり、グレートヒェンであると思う(注3)

(注1)この "dein あなたの" は「神の」であるという解釈は不可であろう。この "dein" を、カトリックであれプロテスタントであれキリスト教的神、ギリシャローマの神、ゲルマンの神と考えれば、この詩の大意を狭めてしまう。それはシラーの意に反するだろう。また、この詩はスピノザ的汎神論的神を宣伝する詩でもない。この詩に出てくる「神」は、まさしく日本の神仏混淆的「いわしの頭」だと私は思う。

(注2)人間の根源的感情である喜びの感情が、死の試練を乗り越えた友の存在を再確認させ結果的にそれを『与える』という解釈は可能である。

(注3)アダムとイヴのイヴでもいいと思う。イヴはエデンの園を追われたわけだが、元々は楽園に住んでいたのであるから「楽園からの娘」ということになる。そして彼女は、アダムのあばら骨から作られたわけだが、いわば神の娘と呼ばれてもいいと思う。またワーグナーのブリュンヒルデのイメージでもいいと思う。彼女は神の娘であるが後に人間になる。いずれにしても「娘」という言葉と「父の娘」というイメージに私はこだわる。

(注4)最終的には、詩の読みやすさを優先し「善人も悪人もみな / 彼らの薔薇の足跡を追う」と訳した。

(つづく)

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