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2008年5月29日 (木)

グールドのベートーヴェン:ピアノ・ソナタを聴く(4)

グールドのベートーヴェン:ピアノ・ソナタを聴く(3)のつづき


Gould_stockholm

Glenn Gould in Stockholm, 1958

CD 1
モーツァルト:ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K491
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品19
ゲオルク・ルートヴィヒ・ヨッフム指揮
The Swedish Radio Symphony Orchestra

CD 2
ハイドン:ピアノ・ソナタ 変ホ長調 Hob.XVI:49
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110
アルバン・ベルク:ピアノ・ソナタ 作品1

「作品111(第32番 ハ短調)のあわただしい演奏はさらにひどかった。これはベートーヴェンの最高傑作のひとつであり、第五交響曲や《皇帝》と同様、英雄的な意図をもってその主張を堂々と宣言した作品のひとつだが、ベートーヴェンのこの通俗的な側面が嫌いなのだ、とグールドはのちに認めているのである。(グールドいわく、ベートーヴェンとは「うぬぼれ作曲家の史上最高の例」であり「自分の行うことはすべて、ただ自分が行うからこそ正当化される信じていた作曲家」なのである。)嫌いなのだが嫌いだと認めたくない曲を演奏する段になると、独自の不可思議な理由により、テンポを早めて弾く傾向がグールドにはあった。(数か月後、シンシナティのある批評家が、作品111を駆け抜けるように弾いたのはなぜか、と思い切って尋ねてみたところ、グールドは最初「両手をポケットに入れて、そう弾くべきと思ったからだと言い」、それから「さらに、あの作品はやや弱いところがあるので、もっと速いスピードが必要だったのだ、と説明した。・・・」)これとは逆に、何年もたってから、《ゴルトベルク変奏曲》の再録音について論じたとき、グールドは、自分が最も好きな音楽とは、ゆっくり演奏されるのを聴きたい音楽だと語っている。こういう感情を抱くのは、少年時代の古い讃美歌の思い出によると彼は考えていた。
 こうして、作品111の英雄的第一楽章は曲芸になってしまった。これだけの速さで弾けるのはグールドだけかも知れないし、そのように演奏したいと思うのもグールドしかいないだろう。新しい解釈を提示できない限りは、古典的な作品を録音する理由はどこにもないのだ、と彼は再三語っていた。「レコードを作ることに何か口実があるとすれば、それは違う形で演奏することです」とインタビュー・レコード『グレン・グールド ---- コンサート・ドロップアウト』(1968年)で彼は言明している。「つまり、完全に再創造するという観点から作品に取り組むのです。今まで聴いたことがない、と思われるような演奏をするのです。それがうまくできないのなら、もうやめて、その作品は忘れて、なにか別のものをやるべきでしょうね。・・・」だが、この実にグールドらしい理論には本質的な誤解が含まれていた。解釈に関して、演奏者にはかなりの自由が許されている反面、ピアニストが単に自分自身の意向を表現したいがために、あるいは単に他人と違った演奏にしたいがために、ベートーヴェンがはっきりと書いた指定を無視してよい根拠はどこにもないのである。つまり、演奏者の自由には限界があるのであって、例えば《ゴルトベルク変奏曲》のアリアをプレストで弾くことは、グールドであっても許されない。制作後三十年以上たった今日聴いてみても、この作品111の猪突猛進の異常な演奏は、やはり、ぞんざいなやっつけ仕事である。そのやっつけ仕事とは、当時二十三歳だった、ある天才にしかしでかすことのできなかったものなのだと言い添えるべきであるが、それでも、やっつけ仕事であることには変わりはない。(オットー・フリードリック著『グレン・グールドの生涯』120ページより)」

 
長い引用になったが、上記のくだりは正しいと思う。また、上記は、グールドの演奏を理解するのに、非常に参考になると思う。ただ「解釈に関して、演奏者にはかなりの自由が許されている反面、演奏者の自由には限界がある」というフリードリックの考えは、クラシック音楽を面白くなくしてしまう危険性があると思う。クラシック音楽の演奏において「スコアに記述された音」を「知覚される音」に変換するという行為は、より自由であるほうが面白いだろうからである。すなわち「スコアに記述された音」を「知覚される音」に変換する際に、演奏者は「過去に誰もやってないこと」をやりたいと思うだろうし、リスナーもまた「過去に誰もやってないこと」を演奏者に期待するだろう。その際、解釈の自由は、演奏者の欲求でもあり、リスナーの欲求でもある。文学作品への解釈が無数にあるように、クラシック音楽の作品への解釈も無数にあるだろう。そして、クラシック音楽において「知覚される音」そのものが作品の解釈であるならば、その音の表現の在り方も無数であり、解釈に関して演奏者の自由に「限界がある」より「ない」ほうが面白いだろう。ただし条件がある。思うに演奏者は「作曲者が本当に言いたいこと」を外してしまったらNGだ。私は、グールドは作品109(第30番 ホ長調)と作品111(第32番 ハ短調)において、そのNGをやってしまったと思う。他方、上記1958年のストックホルム・スタジオライヴにおける作品110(第31番 変イ長調)は、テンポが遅く安定感がある。それは、演奏の安定感と表現の充実につながっていると思う。スタジオ録音(1956年)の作品110(第31番 変イ長調)もテンポに安定感がある。この二つの「作品110(第31番 変イ長調)」すなわちストックホルム・ライヴとスタジオ録音の作品110(第31番 変イ長調)は「テンポが背かれた作品109(第30番)」と「曲芸になってしまった作品111(第32番)」より、ベートーヴェンが本当に言いたかったことに近いだろう。私は、正しいテンポで演奏されたグールドの作品110(第31番)は良い結果をもたらしたと思う。それに対し、正しくないテンポで演奏された彼の作品109(第30番)と作品111(第32番)は「やっつけ仕事」と言われてもしかたないものだと思う。

演奏時間の比較
前者が1956年スタジオ録音、後者が1958年ストックホルム
第31番 変イ長調 作品110
第1楽章 6'57 8'39
第2楽章 2'07 2'14
第3楽章 10'47 13'04

ところで、グールドに興味があるなら、下記の商品をお薦めする。これは彼の遺産を知るうえで良い記録である。この商品の購入で、私は、グールドのコレクションを完成させることができた。また、それまで分からなかったグールドのアナログ時代のディスコグラフィーを、レコード・ジャケットのミニチュアを手に取りながら、充実したブックレットにより知ることができた。それらは、嬉しいことであった。

Gould_original_jacket1

・グレン・グールド/コンプリート・オリジナル・ジャケット・コレクション(80CD)

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コメント

>思うに演奏者は「作曲者が本当に言いたいこと」を外してしまったらNGだ。

テキスト解釈に於いて、「作曲者が本当に言いたいこと」というのはあり得ません。解釈者が「いかにも作者がそう考えた」かのようにでっちあげられるかが、そうであると読者を説得できるかが、勝負です。

音楽も同じでないでしょうか。クラシックをダメにしている原因の一つが、原点主義。そんなものはわかりもしないのに、「作曲家の意図」「作曲当時の解釈・響き」を金科玉条のものとしてもちだすからだと思います。レオンハルトがあれだけもてはやされたのは、決してバッハ当時の演奏法を発掘しえたからではありません。その理屈がどうであれ、現代では少々奇異なやり方ではあれ素晴らしい音楽を演奏できたからです。

音楽は素晴らしければいいのです。いえ万人にそうでなくてもいい。ただ一人、私にとってそうだったらいいんです。


(まだグールドの作品111は未聴ですが)
とやかく言われるグールドの協奏曲1番、しかしこれは私的には最高の演奏なのです。こうやれば、ベートーベンがまるでみよーかストラヴィンスキーのように響く。ベートーベンの射程が20世紀にまで及んでいるというのを、くっきりと見せてくれたわけです。

同様の驚きは、マルケヴィッチ編曲音楽の捧げものにも感じられました。マルケビッチは、この曲がともすれば調性の枠を超えてしまおうかという音をくっきりと鳴らすのです。それがバッハ風かどうかはわかりません。しかしびっくりするような経験でした。(そう言えばシェーンベルクは、無調音楽はバッハに始まったと述べています。)

コメントありがとうございます。

Wilhelm Backhaus - Beethoven Piano Sonatas 1950 - 1954 Decca Italy
バックハウスのベートーヴェン:ピアノ・ソナタ旧全集(デッカ/イタリア盤)
http://koshiro-m.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/wilhelm-backhau.html

バックハウスのベートーヴェン op. 109, 110, 111(旧盤)を聴きたい。
国内盤は、Amazon.co.jp で入手可能です(下記)。

http://www.amazon.co.jp/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3-%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%82%BD%E3%83%8A%E3%82%BF%E5%85%A8%E9%9B%86-%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%B9-%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0/dp/B00005FKXU/

しかしこれは高いし、音はイタリア盤のほうが良かったし・・・。イタリア盤、どこかに売ってませんか? 

バックハウスのベートーヴェン op. 109, 110, 111(旧盤)を聴きたい・・・いや、聴かねばならぬ・・・他の演奏者が演奏する op. 109, 110, 111をレビューするためにも・・・と、思っていたら、あっ、そういえば、グールドのop. 109, 110, 111もバックハウスのそれと同様に良かったことを思い出し、昨日今日聴いてみました。その結果・・・

[本題]

グールドのベートーヴェン op. 109, 110, 111 に対するオットー・フリードリックの言及は間違いだと思うようになりました。

したがって私の上記記事の内容も訂正します。

グールドのベートーヴェン op. 109, 110, 111 いずれも良いですね。NG ではありません。op. 109の第3楽章第4変奏「テーマよりやや遅く」を速く弾いているのも良いし、op. 111第1楽章のテンポも良い。作曲者の指示を無視しても、「作曲者が言いたいこと」を実現する演奏は存在すると考えます(その代表がグールド)。

>思うに演奏者は「作曲者が本当に言いたいこと」を外してしまったらNGだ。

オイストラフのショスタコVn協奏曲、高橋アキのモートン・フェルドマンのように、作曲者と演奏者の共同作業のような録音が存在する。また、R.シュトラウスから指導された経験を持つショルティ、ベームは
R.シュトラウスがうまい。演奏家が作曲者に接近することは大事だと思います.

「作曲者が言いたいこと」「作曲家の意図」「作曲当時の解釈・響き」を研究することは有意義でしょう。

そして、レオンハルト/アーノンクールのバッハ・カンタータ全集の魅力は彼らの研究成果&新しさだったと思います。新しさ、若々しさというのは魅力です。新しく若々しく、とんでもない解釈・響きによるモートン・フェルドマンが出てきて欲しい。

>ただ一人、私にとってそうだったらいいんです。

その通りだと思います。

極端に言えばベーやんのソナタはリヒテルの熱情が2枚あれば足る。私は普段からそういう意見ですから、変なことを言ってもご容赦。(バックハウスの旧盤は持っておりません。)

さっそくグールドのベーやんノソナタをかき集めて聴いてみました。グールドはリズムの運動感の輝きが命だと思うのですが、110とか111に濃厚に感じられる「老い」の感情には辟易している様子が感じられます。どんなに輝かしくリズムを作っても、老いの感情がひたひた迫ってくるんですもんね。111の序奏なんかはそれでも立派にやってますが、主部では暴発。そいでも第二楽章の変奏曲は終結に向かって集中させていき、立派な演奏だって思いますけど。老いと言ったら「フーガの技法」もそうですが、こっちではグールドは共感に満ちたすばらしい演奏をやってるんですがね?

ベーやんの老いは個人的な感情に満ちているのに、バッハのそれは個人のあれやこれやが普遍性へ昇華したとでもいうのでしょうかねえ、同じ老いといっても全然ちがいますけどね。そこかな。グールドがベーやんをやるとしたら、大げさな中期や、老いの衰退の後期より、なんでもないような顔でびっくりするような前衛的な音を繰り出す前期の方が、確かに向いているでしょうね。

棚をひっくり返して、ケンプの新旧とかギレリスとかリヒテルのをいっぱい掘り出しました。(ギレリスは協奏曲で2つ全集作ってまして、両方全然違って面白い。)これから聴きます。

リヒテル/グールド/シフ この辺が、ベーやん演奏ベクトルの3つの極点のような気がします。そう勝手に思ってます。

コメントありがとうございます

ベートーヴェンは、傑作の森以前から革新的だったと思います。また彼は若いときに頂点に立った人間だったと思います(交響曲では第3番ですでに頂点。多分30代ですね。ベートーヴェンには余裕があったという気がする。たとえばブルックナーの7番を彼の頂点だとみなした場合、ブルックナーが7番を書いたのは70代? 遅すぎる。

ワルトシュタインは、「冒頭からして、とても陰鬱」とアリス=紗良・オットが言っています・・・もしかしたら、グロテスクかも。

第5交響曲の第1楽章再現部の前に奏される「オーボエ・ソロ」。初めてこの作品を聞いた聴衆は、その場面で「音が消えた。ふざけんな」と思ったでしょう(これはトロンボーンさんの受け売り)。また調性についても複雑(ウィキペディアの受け売り)。(第5番はあまりに有名すぎてその前衛性が見えにくくなっていると思う)。ハ短調からハ長調への移調にこだわる・・・第4楽章は、親しみやすく聞きやすくドミソ・・・これは彼が親しみやすさと前衛性のバランスをとったからでしょう。

第9交響曲は、第1〜3楽章が複雑怪奇で革新・前衛的なのに、フィナーレの合唱が始まるとつまらなくなる・・・ただし迫力あるし感動させられますけど・・・。それは第5交響曲の場合のバランス感覚ではななく、老いである・・・と言っていいかも知れません。それと同様、ハンマークラヴィーア以後の3曲は、アマチュアが弾くことができる作品、快感を覚えることができる作品であり、それもまた老いと言っていいかも・・・

グールドのピアノソナタは1、2、3番が良いです。作品2はグールドに合ってます。革新的です。

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