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2008年5月 9日 (金)

グールドのベートーヴェン:ピアノ・ソナタを聴く(2)

Photo

ベートーヴェン
ピアノ・ソナタ 第30,31,32番
グレン・グールド
録音:1956年(モノラル)

ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 作品109
第1楽章 3'15
第2楽章 2'00
第3楽章 7'40

ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110
第1楽章 6'57
第2楽章 2'07
第3楽章 10'47

ピアノ・ソナタ 第31番 ハ短調 作品111
第1楽章 7'15
第2楽章 15'15

作品109について、『グレン・グールドの生涯』に面白い記述がある。

「このソナタ作品109は、オタワの批評家の超現実主義的な想像をはるかに超えた難問をグールドに与えていたのである。その難問とはグールドのみが生み出しうるものであり、またグールドのみが解決しうるものだった。終楽章の第五変奏には難しいパッセージがある(135-136小節)。それは右手で高音部へと駆け上がっていくもので、グールドの描くところによれば『はっきりとした恐怖』だった。『六度のパターンから三度のパターンに切り替えななくてはならない、それも一瞬にこなす必要がある』とグールドはのちにコットに語っている。『それまでこの曲をいろいろな人の演奏で聴いていたけれども、この瞬間がくると、みな、燃えさかる納屋から引き出される馬のようになった。恐怖が顔に出るんだ。』
 グールドが作品109のわずかな練習を始めたのは、この作品を初めて人前で弾くほんの二、三週間前のことだったが、そのとき彼は、『どこにも問題がないことを確かめておくだけ』と、この難しいパッセージから始めたが、それは間違いだった。弾いてみると、次から次へと具合の悪いことが起き始めた。そして数分もたたないうちに、彼は『この箇所について完全な障壁を作って』しまったことに気づいたのである。この障壁が彼を麻痺させたまま、演奏会はあと三日に近づいた --- 文字通り避けたり止まったりしない限りはこのポイントに到達できなくなった』 --- そこで彼は女中と電気掃除機の教訓を再創造し、彼の呼ぶ、"最後の手段"を試してみた。『それはピアノの横に二台のラジオを置き、最大音量で鳴らす』という試みだった。これは助けにはなったが、問題がすっかり解決したわけではなかった。ラジオをできる限り大きな音で馴らし続けながらグールドは左手の伴奏の重要でない四つの音に精神を集中したのである。しかも『できるだけ非音楽的に』それらの音を弾くことだけに集中したのである。彼はこれをマスターすると最後にラジオのスイッチを切った。難しい右手のパッセージを阻んでいた障壁は消え去った。(77ページ)」

上記「この作品を初めて人前で弾く」は、1953年2月、オタワでの演奏会のことである。

そして「そこで彼は女中と電気掃除機の教訓を再創造し」とは以下のことを受けている。

「だがグールドの才能は想像を絶している。彼が音を聴き、理解し、自分のものとする方法は、普通の人とまったく異なっていたらしい。グールドが自分の奇妙な能力に気づいたのは、十三歳くらいの頃だった。モーツァルトのハ長調フーガ(K394)を練習していたとき、不機嫌な家政婦が電気掃除機のスイッチを入れて練習を邪魔することにした。
『さて、次のような結果になりました。』1964年、トロント音楽院の卒業式の式辞でグールドはその思い出を語っている。『・・・このきらめくような全音階的な音楽は、ヴィブラートの暈(ぼかし)がかかったようになりました。いやむしろ、浴槽で、両耳に水がいっぱいに詰まった状態で歌をうたい、一気に頭を左右に振ったときに得られる効果とでも言いましょうか。そして柔らかいパッセージでは、自分の創り出している響きがまったく聞こえませんでした。もちろん感覚はありました。鍵盤に対する触感はあったのです。・・・自分がやっていることのイメージはつかめましたが、実際には音は聞こえませんでした。しかし奇妙なことは、電気掃除機が介在しなかったときよりも、(モーツァルトのパッセージが)急に素晴らしく聞こえるようになったことです。それも、実際に聞こえなたっか部分がいちばん素晴らしく聞こえたのです。(41ページ)』(中略)先程の電気掃除機の話の続きはさらに磨きがかかる。『新しい楽譜を大急ぎで頭に焼きつけたいときは、何か正反対の雑音を楽器にできるだけ近いところで発生させて、この電器掃除機の効果を擬似的に作り出します。実際どんな雑音でもかまいません。--- テレビの西部劇でも、ビートルズのレコードでも、騒々しい音なら何でも結構。--- モーツァルトと電気掃除機が偶然一緒になったことから学べたのは、想像力という内なる耳は、外からの知覚をどれほど発揮するよりもはるかに刺激的だということなのです。(44ページ)』」

グールドは「内なる耳」を、現実に知覚できるピアノの音よりも重視することがあった。たとえばテルアヴィヴでの公演で、お粗末な楽器しか与えられなかったとき、彼は想像上のピアノで練習した。彼は、自分の弾くピアノの音が聞こえなくても、その「内なる耳」で、それを聴くことができた。難曲である作品109の練習においては、彼は、わざと自分の弾くピアノの音を聞こえなくした。それによって「内なる耳」で、難しいパッセージを克服した。それが最良の手段だった。われわれは、アコースティック楽器を演奏するミュージシャンたちが、自らの出す音が聴衆に、どのように聞こえるかを、認識しうることは想像できる。しかし、その能力を得るために、わざわざ、大きな雑音を鳴らしながら練習するミュージシャンはいないだろう。ところが、グールドにとっては、自分の出す音を聞こえなくすることが、難しいパッセージを克服することに対しても有効な手段であった。そして、それは、グールドが、のちに、スタジオにこもって録音することにのみ自己表現の手段を見出したこと、その結果、レコードから発する人工的な音のみが自分の音楽となってしまったことと符合するような気がする。グールドにとって、自分のピアノの音がベストであることの条件は、天然の音によってではなく、リスナーがレコード再生装置で聴く人工的な音によって満たされる。そして、大袈裟に言えば、リスナーもまた、その音を「内なる耳」で聴くべきなのかも知れない。

上記作品109の終楽章第五変奏の難しいパッセージとは以下の部分だと思う。(midi

Beethoven_109_3_5_2

(つづく)

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コメント

いやあ、譜面の赤い部分はグールドの言っている難しいパッセージではありません。譜面の最後の2小節の右手部分のことですよ。
数えて見てください、右手が六度から三度へ、左は重要でない四つの音符ですよ。ー

Glen さん
はじめまして、開設者KMです

ご指摘ありがとうございました

>譜面の最後の2小節の右手部分のことですよ

そのとおりです。

なお、当該譜例における、おたまじゃくしの色(赤)には意味がありません。

・・・というのは、このページを書いた当時、私は、「Finale」の体験版「PrintMusic」を使っていました。
「PrintMusic」で、レイヤーを2つ以上作るためには2つ目のレイヤーのおたまじゃくしに、赤など、色が付きます。

そして、このページの当該譜例は、私が、赤い色がついた楽譜をそのままスクリーンショット、そして、それをそのままアップロードしたものです。
よって、当該譜例には「意味のない色」があるのです。
色は無視して下さい。

なお、いま現在、当該譜例のデータは私の手元にありません。それは、火災で焼失しました。当該譜例を新たに作成する余裕は、私には、物理的に、ありません。残念です。

よって、Glen さんのご指摘は、とても重要です。

かさねて、ありがとうございました。

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