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2008年2月 3日 (日)

モーツァルト:協奏交響曲 K364 聴き比べ(1)前置き

「モーツァルト:協奏交響曲 変ホ長調 K364」という作品に対し、私は魅力を感じていなかった。そのことを説明するに、私はオットー・フリードリック著「グレン・グールドの生涯」から、長くなるが下記を引用しよう。

「こういった評価の中で最も奇妙だったのが、一生を通して表明した、モーツァルトに対する反感と不満である。インタヴューのときに、モーツァルトは『だめな作曲家』で、彼は『早死にしたのではない。死ぬのが遅すぎたのだ』と語るのをグールドは楽しみとしていた。このグールドらしからぬ無情な宣言の論法は --- モーツァルトの最良の作品は、二十代前半のものである。『嫌悪』するのは、交響曲第四十番ト短調や歌劇《魔笛》のような後期の名曲である。そして、もしモーツァルトが人間の寿命と言われる七十歳まで生きていたら、彼は『ヴェーバーやシュポーアの一種の混血に変わっていただろう』というものだった。こういった非難を行うにあたってモーツァルトの音楽は『快楽主義的(ヘドニスティック)』(グールドお得意の軽蔑語の一つ)であるとか、モーツァルトは、すべてのピアノ曲は対位法的でなければならない私の見解にそぐわないといった趣旨の、説得力に欠けた一連のこじつけをグールドは述べた。こうした言いがかりの中に、おとなをびっくりさせてやろうという子供じみた願望の残響や、音楽史上最も名高い神童への、軽い嫉妬とおぼしきものをみるのはそれほど難しいことではない」234ページより

「ジョナサン・コットとの対話でグールドは、いっそう非難がましく、いっそう逆説的でもある。グールドはモーツァルトのソナタの録音についてこう語る。『これまでで、あれほど楽しかった仕事もない。何しろ、作曲家としてのモーツァルトが本当に嫌いだからね。』自分のモーツァルト嫌いがレコードの中で完全に証明されていることに、そしてその感情ゆえに聴き手が演奏を楽しめないでいることに、グールドは気づいていなかったらしい。だいたい、大音楽家への嫌悪を演奏家が表現するさまを見たり聞いたりして、どこが楽しいというのか。
 だがもう謎はひとつである。あれほどまでに流暢で、しかも耳障りなモーツァルトを弾いたのは、グールドがもともとモーツァルト嫌いだったからなのか、それとも自分の内なる耳で聴いたものがモーツァルトの意図していたものだと誤解したためにモーツァルトを嫌っただけなのか。あるいはモーツァルトのソナタのプラトン的なイデアを聴いたのは、しみじみとしたモーツァルトの音楽にグールド自身が持ち込んだ無情な音色の中だけだったのか。グールドはこういった疑問から逃げた。彼は初期モーツァルトと後期モーツァルトに単純化した対比に議論をそらそうとばかりしていたし、モーツァルトの成長と円熟はひとつの長い衰退であるという考えを繰り返し主張するのだった。『初期のソナタは大好きだよ。初期のモーツァルトは大好きだ。以上、終わり。』グールドはコットにそう語っている。『ハイドンかカール・フィリップ・エマヌエル・バッハのどちらかを手本にとしていて、まだ自分自身を見つけていなかったあの時代のモーツァルトは大好きだね。十八か十九か二十歳のとき、モーツァルトが自分自身を発見したその瞬間(これは世間で言われるような言い方だけれど)、私は興味を失った。なぜかというと、彼が発見したのは、何より芝居がかった才能であって、その後ずっと、歌劇ばかりか器楽曲にまでそれを発揮したからだ。それに十八世紀の劇場のもっていたかなり軽薄な快楽主義を考えるとなると、そういったものに僕はまったく興味を感じない。』
 このくだりからグールドはただの毒舌家になってしまう。ハイドンのソナタが好きだと宣言し(ハイドンのソナタは、晩年にいくつか録音したが、それはモーツァルトよりはるかに素晴らしい録音となった)、次のようにコットに語っている。『ハイドンの場合、この二つのクッキーは同じ抜き型で作ったな、と思うことがまったくない。ところが、どうも、モーツァルトにはそう思えるときがある。モーツァルトは、自分の調子をつかんでからというもの、すべて同じ抜き型で音楽作りをしていたような気がする。』さらにモーツァルトの展開部については --- 『モーツァルトが展開部について学んだことは、決してなかった。だって、当たり前だが、展開するものがなければ、展開部を書かなくてすむからね。』」242ページ

オットー・フリードリックは、非常なグールドのファンだったが、グールドに対し客観的でもあった。上記で、彼は、グールドの「モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集録音」について、「だいたい、大音楽家への嫌悪を演奏家が表現するさまを見たり聞いたりして、どこが楽しいというのか。」と述べ、グールド、またはグールドのモーツァルトに対するスタンスを非難している。フリードリックのこの記述は、厳しくとれば「演奏家は嫌悪する作曲家のピアノ・ソナタ全集を録音すべきではない」ともとれるし「ピアノ・ソナタ全集を録音した演奏家が、その作曲家を嫌悪していることを表明したり、その嫌悪について言及したりするのは愚かな行為だ」と言ってるともとれる。そして、フリードリックは「自分(グールド)のモーツァルト嫌いがレコードの中で完全に証明されていることに、そしてその感情ゆえに聴き手が演奏を楽しめないでいることに、グールドは気づいていなかったらしい。」と述べ「グールドのモーツァルト:ピアノ・ソナタ全集録音」を低く(あるいは悪く)評価している。

私自身は、グールドの「モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集」には重大な過失があると思う。また、グールドの「モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集」のみを聴いて、モーツァルトのピアノ・ソナタを理解できたと錯誤している人は不幸だと思う。

しかし、それでも、上記、グールドのモーツァルト批判には一理あると思う。すなわち、それは上の引用のなかの

『ハイドンの場合、この二つのクッキーは同じ抜き型で作ったな、と思うことがまったくない。ところが、どうも、モーツァルトにはそう思えるときがある。モーツァルトは、自分の調子をつかんでからというもの、すべて同じ抜き型で音楽作りをしていたような気がする。』

というグールドの指摘である。私は、K364(協奏交響曲)と、K207からK219(5つのヴァイオリン協奏曲)との比較において、それを感じなくもない。K207からK219にあった良いものが、K364には失われた気がする。また、K364には、グールドの言うところの「同じ抜き型」と言われても仕方ないような(私の言葉で言えば)「紋切り型の形式、およびそのひけらかし」があるように思える。

以下に、私の考えが誤解であることを願いつつ、K364のいくつかの録音を聴き比べ、この作品についての正しいイメージを得る試みをしてみることにする。

・ヴァイオリンとヴィオラと管弦楽のための協奏交響曲 変ホ長調 K.364(320d)
Sinfonia Concertante für Violine, Viola und Orchester Es-dur K.364(320d)
作曲:1779年の夏あるいは初秋。
初演:不詳
出版:1802年
編成:独奏ヴァイオリン、独奏ヴィオラ。
オーボエ2、ホルン2、ヴァイオリン2部、ヴィオラ2部、バス。

聴き比べたCDは以下の通り

・グリュミオー(Vn)/Arrigo Pellicia(Va)/コリン・デイヴィス/Lso(64年録音)
・スターン/ズーカーマン/バレンボイム/イギリス室内(71年)
・ヨゼフ・スーク/ヨゼフ・コドウセク/プラハ室内(72年)
・クレーメル/キム・カシュカシャン/アーノンクール/Vpo(83年))
・デュメイ(Vn,指揮)/ヴェロニカ・ハーゲン(Va)
 Camerata Academica Salzbug(2000年)

・ムター(Vn,指揮)/Yuri Bashmet(Va)/Lpo(05年)
・ユリア・フィッシャー(Vn)/ゴルダン・ニコリッチ(Va)/
 ヤコフ・クライツベルク指揮/オランダ室内(06年)


1.第1楽章、オケによる提示部、冒頭(midi

K364_1

2.第1楽章、オケによる提示部(上の続き)(midi

K364_7

3.第1楽章、オケによる提示部、第2主題(midi

K364_2

4.第1楽章、提示部、コーダ(midi

K364_3


譜例1, 2, 3, 4は、第1楽章のオケによる提示部である。

冒頭はなんの変哲もない和音とリズムのトゥッティ(譜例1)。型どおりの経過句(譜例2)を経過し、弦のピチカートを伴ってホルン、オーボエにより奏される第2主題(譜例3)。マンハイム風クレッシェンド(「作曲家別名曲解説ライブラリー/モーツァルト/大久保 一執筆」を参照)から、モーツァルトお得意のシンコペーションのリズムを持つコーダ(譜例4。この部分は展開部で再利用されている)で頂点に達するというありきたりな流れ。「ヴァイオリン協奏曲Nos.1-5」には、こんな面白くも何ともない提示部は一つもなかった。それに対し、このK364の「オケによる提示部」のありきたりさは何だ? こんなもんでもって、「モーツァルトはいったい、何を言いたいのか?」...と疑問に思いつつ、ふとスコアの冒頭をよく見ていると、おもわず「やられた!」と叫んでしまった。第1小節と第2小節1拍目の「sfp(スフォルツァンド・ピアーノ、強く そして弱く)」と第2小節3拍目の付点四分音符の「f(フォルテ)」はいったい何なのだろう! これはどう演奏すればいいのだろう? 実際、指揮者はどう演奏するだろうか? この「スフォルツァンド・ピアーノ」と「フォルテ」で「モーツァルトはいったい、何を言いたいのか?」 なんで、第2小節3拍目の付点四分音符でフォルテなのか。このデュナーミクは、面白すぎる!!!

上で述べたこの作品に対する私の否定的見解は、第1楽章第1, 2小節で、いきなり揺らぐ(汗)。


5.第1楽章、ヴァイオリン、ヴィオラによるアンガング(midi

K364_4

ヴァイオリン、ヴィオラによるアンガングは、オクターヴのユニゾンで奏される。

イタリア語で書いてあるのでよく分からないが、スコアの冒頭に、独奏ヴィオラパートは半音高く調弦するようにとの指示らしきものが書いてある。そうすることで、ヴィオラの第2弦はEs、第1弦はBになるので響きが良くなる。よって、独奏ヴィオラパートは、半音低いニ長調で記譜されている。

6.第1楽章、ヴァイオリンソロによるハ短調の経過句(midi

K364_6

7.第1楽章、第2の提示部、ヴァイオリンソロによる新しい第2主題(midi

K364_5

譜例7の「第2の提示部」「新しい第2主題」という表現は上記「名曲解説ライブラリー」の執筆者大久保一氏にしたがった、譜例7は第1楽章においてもっとも親しみやすく魅力的な旋律だ。

この「第2の提示部」は、譜例6のハ短調の経過句が新たに出てくること、および、譜例3の第2主題が出てこない代わりに「新しい第2主題」(譜例7)が演奏されることをのぞいて特徴はない。ただ、譜例7の少し後に出てくる下記の旋律(midi)は可愛くて、私は好きだ。

K364_9

そして「第2の提示部」は、譜例4のコーダで締められる。ワンパターンだ。


8.第1楽章、展開部、冒頭のヴァイオリンソロ(midi

K364_8

展開部は譜例8の「独奏ヴァイオリンのレチタティーヴォ風の独白(大久保一)」に始まる(ト短調)。そのあとは、ヴァイオリンとヴィオラの掛け合い以外は特徴なし。このあたりで、グールドの言葉「モーツァルトが展開部について学んだことは、決してなかった。だって、当たり前だが、展開するものがなければ、展開部を書かなくすむからね」を私は連想する。


再現部は譜例1(第1主題)、譜例6(ハ短調の経過句)、譜例7(新しい第2主題)、譜例3(第2主題)の順に再現し、カデンツァ、コーダでおしまい。型どおりで魅力ない。


・第2楽章
 第2楽章は美しいが、私は感情移入できない。以上。


・第3楽章
 大久保一氏によると、このロンドの「全体の構造は次のように図式化しえよう。A(a-b-c-d-e)-B-A(a-b-c-d-e)-B-A(a-b-コーダ)。Aは、ロンドの主要主題a(譜例9)に始まり、そのあと主調を維持したまま次々と快活な旋律を提出する。aからcまでは管弦楽で、そしてdとeはソロで奏される。d(譜例10)は主題的な実質を備えており、ここでは協奏曲の二重呈示部の手法を暗示していると考えられる。このあとようやく属調のB(譜例11)となるが、旋律も規模も短い推移に過ぎず、すぐにA全体の反復となる。ここでは、主題をすべて独奏楽器が奏すること、dとeが変イ長調、つまり緊張のない下属調に移調されることで変化が計られる。Bも主調で独奏楽器に奏され、三たびロンド主題(譜例9)が戻り、独奏楽器がカデンツァ風に活躍するかなり長いコーダで華やかに閉じられる。」
 
(譜例9、midi
K364_10

(譜例10、midi
K364_11

(譜例11、midi
K364_12


上の大久保一氏の解説は、実に分かりやすい。

私はこのロンドは、あたかもある種の変奏ではないかと思える。このロンドはまさにロンドに他ならない。また和声の進行をみると各主題は変奏にはなっていない。しかし、ロンド全体の曲想の統一性がこのロンドに変奏的効果を与えていないだろうか。そして、このロンドこそ、モーツァルトが「5曲のヴァイオリン協奏曲」で聴かせた「醍醐味」以外のなにものでもないと思う。(つづく)


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コメント

初めまして。


この曲は「協奏曲」ではなく「協奏交響曲」ですから、
演奏においてはソロとオーケストラが
ある意味で対等に扱われていないと、
その面白みがまったく出ないと思います。
特に第一楽章の展開部がそうで、
ヴァイオリンとヴィオラが掛け合っている部分では
オーケストラが色彩豊かな移ろいを演出しているのですが、
ほとんどの場合ソロが出しゃばるばかりで、
台無しになってしまっています。
モーツァルトは協奏的作品における
オケ部分をいかに充実させるかについて、
試行錯誤を繰り返していた人ですから
ソロだけが出しゃばるなんてNGだったハズですよね。
(勝手に僕がそう思ってるだけかもですが…)


第一楽章のオケによる提示部についてですが、
ヴァイオリン協奏曲Nos.1-5のそれと単純比較
するのは得策ではないと思います。
K364のそれは、
やや羅列的なところや二部のヴィオラ、管楽器の使い方など、
むしろJ.Cバッハ等の類型的な協奏交響曲のそれに近いものです。
なので、K364を協奏曲からの発展的な位置にある作品として
見るのは無理があるのではないかと思うのですが
いかがでしょうか?


余談ですが、
展開部についてのグールドの言葉はちょっと驚きです。
彼は、モーツァルトの頃の展開部の書法にはまだ多様性があった
ということを知らなかったのでしょうか。
斬新だったグールドも19世紀的な音楽観からは
完全には逃れられていなかった?
疑問です。

Bunchouさん

コメントありがとうございました。

> この曲は「協奏曲」ではなく「協奏交響曲」ですから、
> 演奏においてはソロとオーケストラが
> ある意味で対等に扱われていないと、
> その面白みがまったく出ないと思います。

上記は、まさにご指摘の通りだと思います。しかし、第3楽章は、堂々たる第1楽章と第2楽章を締める楽章としては、やはり私には不完全な楽章に思えます。アインシュタインや大久保一氏が暗にほのめかすように、この楽章には何か欠けるものがあるように思います。もし、モーツァルトが得意とした、また後に書いたピアノ協奏曲のジャンルであれば、K364のような第3楽章は書かなかったであろうと思います。協奏交響曲というジャンルは、当時大流行だったとはいえ、モーツァルトは、K315f, 320eを未完成に終わらせ、K297bは陰謀によって、かっぱわれてしまうし、唯一の完全なK364を書いて、彼はもう、このジャンルに、こりごりしたのじゃないかと思います。

こんにちは。
返信、ありがとうございます。


第3楽章はなんというか、「芸術的に」演奏されてしまうケースがほとんどですが、この楽章は本来、舞曲的なノリの良さやメリハリの効いたリズム、そしてかなりの「速さ」が必要不可欠だと思うのです。
むしろ激しすぎると感じる位がちょうどイイのではないかと、僕は考えています。
(コンチェルト・ケルン等が適任だと思っています。)
また曲の構造から見ても、音楽内容で聴かせるものでないことは確実かと。

この意味で僕がある程度納得できたのは、ラルキブデッリによる六重奏版(作曲者死後の編曲)だけでした。
他に僕が聴いたものは、行儀の良すぎるものが大半でした。


>こりごりしたのじゃないかと

こりごり、というよりもジャンルとしての可能性の低さを痛感した、というところでしょうか。
後年のウィーンでのクラヴィーア協奏曲では協奏交響曲の要素も巧みに採り入れていますから、モーツァルトはこのジャンルとコンチェルトの発展的な融合にこそ、可能性を見出そうとしていたのかもしれないですね。
そういえばK364も協奏交響曲としてはコンチェルトの要素の強い作品でした。

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