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2008年2月 4日 (月)

モーツァルト:協奏交響曲 K364 聴き比べ(2)グリュミオー、スターン、クレーメル、デュメイ

01

グリュミオー(Vn)/Arrigo Pellicia(Va)/コリン・デイヴィス/Lso(64年録音)

1. Allegoro maestoso 13'07"
2. Andante 11'14"
3. Presto 6'18"

第1楽章
肩の力を抜いた演奏。演奏者のリラックスが聴き手もリラックスさせるような演奏。デイヴィスもグリュミオーも、最も適度な力の入れ方を心得ているという感じで、(私がケチをつけた)この楽章のウィークポイントが目立たない。

第2楽章
第1楽章とは違い、ある程度、力がこもっている。第1,2楽章のこの落差は意外であった。ただ、この落差は意図したものではなかろう。デイヴィスとグリュミオーの演奏スタイルは古いスタイルであり、何か新しいことをやってやろうという意図は感じられない。

第3楽章
技巧的でないのが面白くない。つまり第3楽章は上記の「古いスタイル」が、この楽章の良さを引き出せていないように思える。しかし演奏スタイルが古いがゆえ、デイヴィスとグリュミオーの演奏は、例によって安心して聴ける。

この演奏の欠点をあげるとすれば、それはヴィオラ奏者が弱いこと。




02

スターン/ズーカーマン/バレンボイム/イギリス室内(71年)

1. Allegoro maestoso 13'45"
2. Andante 13'16"
3. Presto 6'27"

若きバレンボイムとズーカーマンがスターンをサポートしているという感じ。ズーカーマンのヴィオラはうまい。美しい。

バレンボイムの指揮は、第1楽章冒頭の「sfp-sfp-f」を意識して表現している。また彼の指揮におけるデュナーミクは、スコアに忠実で正確であるようだ。しかし、それはいささか表現過多であるように思える。この作品は、要するに独奏楽器をのぞけば、弦楽五重奏にオーボエ2、ホルン2がくっついてるだけなのだから、小編成の室内楽でも演奏できるのではないだろうか。バレンボイムのサウンドは私に、グールドのいう「芝居」「劇場」という言葉を思い出させる。とくに、第2楽章の熱演は聴いていて、疲れるというか、眠くなる。それは、まさに「芝居がかった」音楽になっている。コリン・デイヴィスとグリュミオーのストレートな演奏の方に好感が持てる。




07

クレーメル/キム・カシュカシャン/アーノンクール/Vpo(83年)

1. Allegoro maestoso 13'59"
2. Andante 11'06"
3. Presto 6'29"

アーノンクールの指揮は、うまい。たとえば、下記譜例(第1楽章、第27小節、midi)の部分では、バスとホルンに荒々しい音を出させている(他の場所では、アーノンクールはホルンを美しく鳴らしている)。粗さと精密さの同居。それが、アーノンクールの持ち味であろう。その持ち味を好まないリスナーもいるだろうが..。

K364_13

うがったことを言えば、なんだかアーノンクールはわざと粗く演奏しているように思える。形式が充実した第1楽章を、あえて粗く演奏することで、むしろその「形式の充実」をリスナーに意識させないことを狙ったかのようだ。アーノンクールの少々粗い指揮と、独奏者二人の息のあったプレイで、第1楽章は流れが良い。私は、この第1楽章の成功のもとは、その流れの良さだと思う。クレーメルのヴァイオリンは控えめである。そして、クレーメルのヴァイオリンとキム・カシュカシャン(Kim Kashkashian)のヴィオラとの一体感は素晴らしい。第1楽章のカデンツァは、まるで一人の人間が演奏しているかのようだ。この盤の一番の功労者は、クレーメルとキム・カシュカシャンのコンビであろう。第2楽章も同じように流れがよいのだが、それは前半だけで、後半はやはり、眠くなる。第3楽章は第1楽章ほどは良くない。




091

デュメイ(Vn,指揮)/ヴェロニカ・ハーゲン(Va)
Camerata Academica Salzbug(2000年)

1. Allegoro maestoso 13'26"
2. Andante 11'37"
3. Presto 6'13"

これまで取り上げたもの中では、このデュメイの指揮が、第1楽章冒頭の「sfp-sfp-f」を最も忠実に表現しているように思う。私は、この作品は独奏者が指揮をするのは不可能に近いほど難しいと思っていたが、デュメイ盤は、それが間違いであることを証明した演奏といえるだろう。第1楽章再現部においても「sfp-sfp-f」が再現されている。

この盤は、これまで取り上げたどの盤よりも、ヴィオラの存在感がある。ズーカーマンは、ヴィオラ奏者としても多くの良い録音を残しているそうだが、やはり、ヴァイオリニストのイメージが強いので、ヴィオラを弾くときの彼の技巧を聴くとき、ヴァイオリニストとしてのズーカーマンのイメージをぬぐえなかった。カシュカシャンのヴィオラは、まるでヴァイオリンのように聞こえた。それらに対し、ヴェロニカ・ハーゲンのヴィオラだけが、何故かヴィオラ奏者によるヴィオラに聞こえる。ヴェロニカの演奏は決して目立つものではない。それに、二人の独奏者(デュメイ、ヴェロニカ・ハーゲン)の「一体感」は、クレーメル&カシュカシャンに劣る。それどころか、逆に、息があってないというか、あわせてないようにも聞こえる。そのことで、むしろ存在感が増すのか。

そもそも、ベートーヴェン、バッハ、そしてモーツァルトが愛したヴィオラという楽器は、縁の下の力持ちの脇役のはず。ヴェロニカの弾くヴィオラの不思議な存在感は何なのだろう。

彼女のヴィオラは何故か遠くから聞こえる。私の聴くオーディオ装置がヴィオラの音域を、ちゃんと響かせていないのではないかと疑いたくなる。そして、彼女のヴィオラに耳をそばだてたくなる。この作品は、オケもヴィオラは2部だ。

この作品の主役は、まさかヴィオラなのか?

第2楽章を退屈しないで最後まで聴けたのは、この盤が初めてだ。このアンダンテは、まるで迷宮のようだ。不安感をおぼえさせる。ここで、再び「名曲解説ライブラリー」から、大久保一氏の文章を以下に引用する。

「この楽章(第3楽章)は、アインシュタインが、『常に予期しなかったものが起こっている』と評したように、形式的にはきわめて変則的なロンド形式で書かれている。といっても複雑さを求めたものではない。その反対に、快活な旋律を次々に提出し、しかも何らの緊張も興奮も引き起こさないことがねらわれているかのようである。というのは、主題の対照以前に、この楽章では主調 - 属調という形式構成の基本的な緊張関係が徹底して避けられているからである。」

デュメイ盤で第2楽章を退屈せずにまともに聴いた後、第3楽章を聴くと、第3楽章もまた迷宮ではないかと思わせられた。デュメイはピリスと、まるで夫婦のように息のあった共演をするが、この盤における、デュメイとヴェロニカは、デュメイとピリスとの場合とは違った男女関係を思わせる。すなわちデュメイとヴェロニカの演奏は、私に、ワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》を思い起こさせた。もしかしたら、モーツァルトは、叶うことのなかったアロイジア・ヴェーバーとの恋への墓碑としてこの作品を書いたのではないか...というフィクションさえ思いつく。そして、この第3楽章が、まるで、マーラー以降の作曲家が書く終章に通じるかに思えたりする。

この演奏は、間違いなく、これまで取り上げた盤の中ではベストだが、私はこれを聴いて、ますます、この作品が好きになれなくなった。(つづく)

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