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2007年6月25日 (月)

シノーポリのマーラー:交響曲全集(2)

GUSTAV MAHLER
10 Symphonies & Lieder

CD 2
交響曲第2番ハ短調《復活》
5. 第1楽章 21'45"

CD 3
1. 第2楽章 9'10"
2. 第3楽章 12'09"
3. 第4楽章《原光》 5'21"
4. 第5楽章 14'32"
5. 第5楽章(続き) 23'03"

録音:1985年9月

シノーポリのマーラー:交響曲第2番《復活》は、第1番と違って見通し良すぎますね。まるで別人が指揮したかのようです。各楽章がうまく調節されていて全曲のバランスが良く、各楽章の個性も生きてます。そして、第1-4楽章が第5楽章のためにあるということがよくわかります。第5楽章の合唱は、初めて聴いたとき、あっさりしていて物足りない感じがしました。しかし、何度も聴いているうちに、そうではなくなりました。シノーポリは、第5楽章の合唱において感性より理性に強く訴える指揮をしているように思います。それはすなわちこの合唱において表現より内容を重んじたかのようです。またシノーポリは、結果(第5楽章の合唱)より、それに至るプロセス(第1-4楽章、第5楽章の合唱の前まで)を大事にしたといえるかも知れません。そもそも、私をしてそのようなことを感じさせてくれたのは、この演奏が、本当に何回も聴きたくなる演奏であるからでした。シノーポリの《復活》は、86分もある演奏なのに、全曲聴いても、またもう一度第1楽章を聴き直したり、途中から最後まで聴き直したりしても疲れません。この演奏はそういうことをリスナーに許す演奏であり、それに耐える演奏です。私は、前の記事で、シノーポリの第1番も「何度でも聴きたくなる魅力がある」と書きましたが、やっぱり第1番の方は何度も聴くと辛いものがありました。そしてその結果、結局その他の演奏を聴きたくなって、第1番は数種類、CDを注文してしましました。

この作品を純粋に音楽的に聴く場合、各楽章の主題または動機がどのように結びついているかは重要ですが、そのことについては解説本などに載ってますし、そのことを書くと長くなりますので省略します。というより、その点については私には難しく、もとより書くのは不可能ですので書きません。ただ、一つだけ、その点について後で触れたいと思いますが、その前にまず、この作品の理解を深めるため、テキストを訳してみました。以下です。






IV
 
URLICHT
 
O Röschen roth!
Der Mensch liegt in größter Noth!
Der Mensch liegt in größter Pein!
Je lieber möcht' ich im Himmel sein!
 
Da kam ich auf einen breiten Weg:
Da kam ein Engelein und wollt' mich abweisen.
Ach nein! Ich ließ mich nicht abweisen!
 
Ich bin von Gott und will wieder zu Gott!
Der liebe Gott wird mir ein Lichtchen geben,
Wird leuchten mir bis in das ewig selig Leben!
(Des Knaben Wunderhorn)
 
V
 
Aufersteh'n, ja Aufersteh'n wirst du,
Mein Staub, nach kurzer Ruh!
Unsterblich Leben! Unsterblich Leben
Wird, der dich rief, dir geben!
 
Wieder aufzublüh'n wirst du gesät!
Der Herr der Ernte geht
Und sammelt Garben
Uns ein, die starben!

O glaube, mein Herz, o glaube:
Es geht dir nichts verloren!
Dein ist, dein, ja dein, was du gesehnt!
Dein, was du geliebt, was du gestritten!
O glaube: du warst nicht umsonst geboren!
Hast nicht umsonst gelebt, gelitten!
 
Was entstanden ist, das muß vergehen!
Was vergangen, auferstehen!
Hör' auf zu beben!
Bereite dich, zu leben!
 
O Schmerz! Du Alldurchdringer!
Dir bin ich entrungen!
O Tod! Du Allbezwinger!
Nun bist du bezwungen!
 
Mit Flügeln, die ich mir errungen,
In heißem Liebesstreben
Werd' ich entschweben
Zum Licht, zu dem kein Aug' gedrungen!
Sterben werd' ich, um zu leben!
 
Aufersteh'n, ja aufersteh'n wirst du,
Mein Herz, in einem Nu!
Was du geschlagen,
Zu Gott wird es dich tragen!
(Klopstock / Mahler)


第4楽章
 
原光
 
おお 赤い小さなバラよ!
人間は非常に大きな苦しみの中にある!
人間は非常に大きな痛みの中にある!
私はいっそ天国にいたい!
 
私はある広い道に来た
すると一人の小さな天使が現れ 私を退けようとした。
ああ 否! 私は私を退けさせなかった!
 
私は神から生まれたのだから再び神のもとに行きたい!
愛する神は私に小さな光を与えるだろう
私に光を当てるだろう 永遠の至福の生を与えるまで!
(少年の魔法の角笛)
 
第5楽章
 
復活する そう お前は復活するだろう
私の塵よ 短い休息の後に!
不死なる命! 不死なる命を
お前を呼んだ者がお前に与えるだろう!
 
再び花開くために お前は蒔かれる!
収穫の主が行きて
穀物の束を収穫する
私たち死んだ者たちを!
 
おお 信じよ 私の心よ おお 信じよ
お前から失われるものは何もない!
お前が憧れたものはお前のものだ!
お前が愛し 得るために闘ったものはお前のものだ!
おお 信じよ お前は無駄に生まれたのではない!
無駄に生き 苦しんだのではない!
 
生まれたものは消え去らねばならない!
消え去ったものは復活しなければならない!
震えるのはやめなさい!
生きるために備えなさい!
 
おお 苦痛よ! すべてを貫くものよ!
お前から 私はもぎ取られた!
おお 死よ! すべてを征服するものよ!
いまや お前は征服された!
 
私が私のために闘い取った翼をもって
熱い愛に努めながら
私は漂うだろう
眼が見(まみ)えたことない光へと!
私は死ぬだろう 生きるために!
 
復活する そう お前は復活するだろう
私の心よ たちまちのうちに!
お前が打ち負かしたものが
神のもとへとお前を運ぶだろう!
(クロップシュトック/マーラー)

口語で直訳してみました。この詩で、ちょっと引っかかったのは、第5楽章のクロップシュトック(Friedrich Gottlieb Klopstock 1724-1803)とマーラーによる詩における下記のことです。すなわち、

いったいこの詩の語り手は誰なんでしょう。

小説の場合は、一般的に、一人称小説は「私」によって語られ、三人称小説は、作者がいわゆる「全能の語り手」になって小説を語ります。詩の場合も、おおよそそういうことになると思います。上記の詩の場合、

「復活する そう お前は復活するだろう」

で始まりますが、これは、語り手が「お前」に向かって語ってます。しかし、二行目では

「私の塵よ 短い休息の後に!」

で"mein Staub(私の塵よ)"と呼びかけ、一人称の「私」が登場しますので、理論的には、語り手は「私」であることになりますね。終わりの方で「私は死ぬだろう 生きるために!」とあるわけですから、この詩に統一した語り手があるとすれば、それはやはり「私」になると思います。それではこの「私」とは誰かというと、それはこの「私」が呼びかける「お前」です。つまり「私」と「お前」は同一人物。この詩は私が自分に向かって語っていると考えるのが適当に思われます。

ただ、詩や韻文というものはそういうことを厳密に考えず、ぼかした方がいい場合があります。この詩の場合はどうでしょう。私の印象では、最初この作品を聴いたとき「この詩は、神様が、お前に呼びかけている」と解釈しました。キリスト教では塵や土というのは人間を指します。創世記で「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。こうして人は生き物になった」とあるのがその由来です。またドイツ語の辞書で"Staub"を引くと意味は「ちり、ほこり」とあり、用例で「Erde zu Erde, Staub zu Staub! 土は土に、ちりはちりに!(埋葬の時のお題目)」とあります。人を葬るときに、土に帰れという意味でこの言葉を使うんでしょうね。したがって、クロップシュトックの詩においても"Staub(塵)"は人間であり、"mein Staub(私の塵よ)"は人間を塵から作りたもうた神様が人間に呼びかけていると私は解釈したのです。ところが、上述のように後の方では「私は死ぬだろう 生きるために!」とあるので、この「私」は神様ではないことに気づきました。最後の節で

復活する そう お前は復活するだろう
私の心よ たちまちのうちに!

とあります。この"mein Herz(私の心よ)"は「私」が「私の心」に呼びかけてます。この部分はマーラーが補作した部分だと思いますが、これはクロップシュトックが書いた第1節の替え歌ですね。第5楽章の詩において、クロップシュトックが書いた部分とマーラーが書いた部分があるわけですが、その不統一性が、存在するとは考えない方がいいと思います。すなわち冒頭の「私の塵よ」はもともと「私の心よ」と同じ呼びかけと読むべきだと思います。したがって、この詩を読みやすくするために、またぼかすために、冒頭の節を文語調に訳してみました

蘇らん げに汝(なれ)蘇らん
我が塵よ つかの間の安逸ののちに!
不死なる生! 不死なる生をば
汝を呼びし者が汝に与えん!

意味は同じですが、なんとなく、雰囲気はこちらの方がいいような気がします。もともと、このクロップシュトックとマーラーによる詩は雅語がいくつか使われてます。また、この復活の詩は文章が文語的に思われますから文語訳の方がいいかも知れません。

本来、詩の解釈は、読者の自由です、しかし、音楽との結びつきを考えなければならないマーラーの歌詞の場合、ちょっとこだわってみるのはいいことでしょうね。そこでお遊びで以下のような訳をしてみました。これは、かなりのおふざけですが、たんなるおふざけではなくて、この《復活》という交響曲を、より理解するためのものですので、お許し下さい。

第4楽章

原光

おお 赤い小さなバラよ!
この世はイヤなことだらけ
この世はつらいことだらけ
オラ いっそのこと天国に行きたいよ

オラ 首でもくくろうと思って広い道にやってきただ
そうしたら 天使のやつが現れてオラの邪魔しやがっただ
天使さんよ やめておくんなまし
オラ 邪魔されたくねぇよ

オラ 神様から生まれたんだから 神様の所へ行くだべさ
愛する神様は この世の暗闇を照らし 小さな光を下さるだろうよ
オラ あの世に行って 永遠に幸せになるだべさ

第5楽章

オラ 生き返るべ 
オラ チリだけど生き返るべ ちょっくらくだばったあとに
オラ 一度死んだけど もう一度 一からやり直すべ
誰かが そうするようにオラを呼んでくれただべ

オラ 結婚して 子どもさ作るべ
オラ 子孫を繁栄させるべ
神様は オラの子孫を繁栄させてくれるべ
オラ 一度死んだけど もう一度 一からやり直すべ
(中略)
オラ 生き返るべ 
オラは スグに生き返るべ
オラ 死神に一撃を食らわしたべ
その一撃がオラを神様のもとに連れて行くべ

かなり、くだけ過ぎた意訳になりましたが、こういう風に訳すとこの詩は身近になると思います。私の考えでは、この詩は、肉体的死とその復活ではなく、精神的死とその復活を歌っていると思います。例えば、死の淵をさまような大病を患った人が回復した場合とか、破産など社会的に死んだ人が立ち直る場合とか、世間によくある「立ち直り」の歌だと思います。

ドイツ語の"auferstehen"はキリスト教の教義用語の「復活する」という言葉です。その過去分詞を形容詞にして更に名詞化した"der Auferstandene"は「復活した主キリスト」という意で、これは完全なキリスト教用語ですね。"auferstehen"の名詞化が"Auferstehung"(復活)で、この交響曲の題名です。

"auferstehen"は分離動詞です。すなわち"auf"+"erstehen"です。"auf"は「上に」の意味ですね。そして"erstehen"の接頭語"er"もまた「中から外へ」あるいは「下から上に」という意味を有し、動詞にくっつくことによってそういうニュアンスを与えます。"erstehen"を辞書で引くと相良守峯の大独和辞典では、まず最初に「立ち上がる」と書いてあります。

接頭語"er"は、動詞に「目的の到達・獲得」の意味を与えることもあります。したがって"erstehen"は「立ってしまった」というニュアンスもあるかも知れません。以上からして分離動詞"auferstehen"はもともと「立ち上がる」「立ってしまった」というニュアンスの動詞であり、それが転じてキリスト教用語「復活する」になったという感じがします。英語の"resurrection"も語源をたどれば同じかも知れません。

思うに、この交響曲は、そのテーマとして、キリスト教的復活を想定するより、一般的に人間が苦境から立ち直ることをテーマにするものとして聴いた方が聴きやすいでしょうし、またその方がいいかも知れません。

《復活》全曲の音楽のコンテクストもおよそそのようなイメージになっていると思います。それについて詳しくは述べませんが、ひとついえば第5楽章のイメージはそのように受け取ることができるように感じます。私の考えではこの作品のテーマは、本ブログの4月12日付の「千の風になって -- キリストは死の縄目につながれたり -- ガーディナーのバッハ」と同様「生と死が戦い生が死に勝利すること」または「人間が死を克服すること」を歌っているのだと思います。バッハのカンタータのほうは、キリスト教の祝日復活祭のための宗教音楽ですが、マーラーの交響曲《復活》は、それをより一般的な、または、身近なものにしたというのが私のこの作品に対する解釈です。

シノーポリの指揮について

4月29日に放送されたアバド/ルツェルンの《復活》の第2楽章は、シノーポリの第2楽章よりテンポが速かったのですが、私はこのシノーポリの遅めのテンポの方が適切だと思います。マーラーはこの作品の上演において、第1楽章のが終わったのちに、すくなくとも5分間の休みを置くように指示しているとのことですが、これはつまり、第1楽章を、いきなり全力投球で演奏しても良いということと、第2楽章は気を取り直して、第1楽章とは連続しない楽章として演奏しなさいという指示だと思います。

マーラーは中間楽章を「インテルメッツォ」または「インタールーディウム」と呼んでいます。また、この第2楽章に次のようなプログラム(標題)をつけてます。「彼(巨人)のすぎ去った人生の幸福な瞬間。青春と失われた純粋さへの悲しげな回想」この標題からしても、シノーポリのテンポは適切だと思います。シノーポリはこういう楽章(つまり第2,3楽章)を緩やかに心地よく演奏して、しかも、全曲を弛緩させないところは、冒頭に述べたように、彼の作品に対する見通しの良さから来るものだと思います。私はこの第2楽章の最初のテーマはなんとなくグルックの歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」の中の「妖精の踊り」に雰囲気というかメロディも似てるような気がするんですが、そういう間奏曲的雰囲気と役割をこの第2楽章は持っていると思います。

第3楽章の役割は、第2楽章より重要ですね。第3楽章は第5楽章との関連性が大きいと思います。実際、終わり近くの部分は第5楽章で再現されますね。あるいは逆に第3楽章のその部分は第5楽章の伏線といったほうが良いでしょうか..。

指摘するまでもないことですが、第5楽章のテーマが第1,2,3楽章で表れているようですね。この交響曲は全曲を聴いたあと、また最初から聴きなおすと、つまりもう一度第1,2,3楽章を聴きなおすと「あれ! これは第5楽章で聞いた音楽だ、これは第5楽章で使われる音楽と同じじゃないかな」と思わせるものが第1,2,3楽章に(そして多分第4楽章にも)存在しますね。しかし残念ながら私には、最初に書きましたとおり、各楽章の音楽的動機的関連性を正確に指摘できません。

ただ、私が上の方で「一つだけ、その点について後で触れたい」と書いてたことを書きます。それは下記譜例1と2です。

Auferstehung_1_1


Auferstehung_2_1

譜例1は第1楽章にも少し顔を出しますが、第5楽章の復活の主題を導く主題です。その後、行進曲でも出てくるものです。譜例2は第5楽章

O glaube, mein Herz, o glaube:
Es geht dir nichts verloren!
おお 信じよ 私の心よ おお 信じよ
お前から失われるものは何もない!

の歌詞で歌われる主題です。私はこの二つは、調性、メロディは違いますが似てると思うのです。どうでしょうか。もし似てなければ、つまりこの二つの主題がまったく関係ないのなら、私が以下に書くことは意味を持ちません。

譜例1のテーマは復活の主題へ導く行進曲の主題ですから、いってみれば「死から生への主題」といっていいでしょう。譜例2は生によぎる不安の主題といっていいでしょうか。つまり、譜例1とは逆の「生から死への主題」だと思います。もしこの二つが似てるとすれば、これら二つの主題、すなわち「死から生への主題」と「生から死への主題」は、一人の人間の中に共存する背反する本能。すなわちフロイトのいうところのエロス(生への欲動)とタナトス(死への欲動)の両面性を表すと私は考えました。第5楽章の合唱前の前半部分で、テーマが大方提示された後の展開部に相当するものすごい音楽は、この両者の壮絶な闘いを表していると思います。この部分のシノーポリの演奏は凄まじいですね。遅めのテンポでかなりタフな演奏してます。こういう演奏を聴いたからこそ私は上記のことを思いついたのでしょう。

さて、そろそろまとめなければなりませんが、まとめの言葉が見つかりません。とにかくカッコいいシノーポリの《復活》のカッコよさは「聴けばわかる」といってしまったらお終いでしょうが、そのカッコよさについて、思いついたことがあれば後日改めて書きます。今日はここまで。

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