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2007年3月23日 (金)

《マタイ受難曲》はお気軽に(3)

《マタイ受難曲》はイタリアオペラ感覚で聴いていい

ガーディナーは「《ヨハネ受難曲》の演奏と録音にあたって」という文章の中で次のように述べてます。

「《ヨハネ受難曲》の中ではバッハは受難の物語を、同時に継続する公共的かつ私的なできごと、として構想している。20世紀の演奏家にとっては、このことが《ヨハネ受難曲》の魅力であり挑戦なのである。レチタティーヴォや群衆の合唱において、激しくも劇的に語られる歴史的なできごとを追い、多くの場合アリアや冒頭と最後に置かれた合唱において、そのできごとの神学的な意味を反省し、そしてコラールという形式によって受難の物語に会衆が反応に参加するように、とバッハは私たちに要求している。この最後の問題は最大の挑戦である。」

ガーディナーは《ヨハネ受難曲》については、上記のように明快な定義を示していますが《マタイ受難曲》については下記のように、若干言葉を濁しています。

「《マタイ受難曲》の全体の構成は、ふたつの部分を、それぞれ12と15の「場面」に分割して考え、それぞれの場面を先行する朗唱への共同体としての応答(コラール)、ないしは個人としての応答(アリア)のどちらかにそれぞれの頂点が形成されるとみなすならば、より明確となる」

いずれにしても《ヨハネ受難曲》《マタイ受難曲》ともに、そのテキストなり構想なりに、独特な性格なり特徴があるということは研究するに値することだと思います。

《マタイ受難曲》は、マタイによる福音書のテキスト、レチタティーヴォ、アリア、コラールで主に構成されています。それ以外の合唱も存在します。たとえば、第1曲の合唱は「それ以外の合唱」に属するわけですが、極めて重要な曲です。しかし、大まかに言って、地の文(マタイによる福音書のテキスト)、レチタティーヴォ、アリア、コラールという流れが、全曲を支配していると思います。地の文は福音史家、イエス、その他の登場人物の独唱、さらに合唱で歌われます。地の文が合唱で歌われる最も重要な箇所は、第63曲の

Wahrlich, dieser ist Gottes Sohn gewesen
(げにこの人は、神の子なりき)

でしょうね。特に、リヒター旧盤では、この合唱が「ppではじまり、クレッシェンドして、またpに戻る」で歌われ感動的だと吉田秀和氏が指摘しています。

マタイ受難曲のテキストについては、私の理解では、レチタティーヴォは神学的解釈という意味を持ち、会衆を考えさせ、アリアは、その感情的表現で、コラールは会衆の参加できる応答であると考えられます。もっと詳しく書けば、アリアへと導くレスタティーヴォは、福音書に記述された「キリスト受難」への解釈・説明・補足であり、聴衆の、感情ではなく知性に訴える内容。アリアは、怒り、苦しみ、悲しみ、喜びという感情の発露であり、こちらは感情に訴える内容。歌詞は、概ねレスタティーヴォのが難しいのに比して、アリアのは平易です(例外もあり)。もっと別な性格付けをすれば、レスタティーヴォの歌詞は牧師さんの説教を思わせるのに対し、アリアとコラールの歌詞は、信者の祈りといってもいいでしょう。

たとえば、

・第59曲のレチタティーヴォ
Ach Golgatha, unselges Golgatha!
(ああ ゴルゴタよ、不幸なゴルゴタよ!)
Der Herr der Herrlichkeit muß schimpflich hier verderben,
(栄光ある主がここでは辱めを受けて滅びなければなりません)
Der Segen und das Heil der Welt
(この世の祝福と救いが)
Wird als ein Fluch ans Kreuz gestellt.
(罰として十字架にかけられました)
Der Schöpfer Himmels und der Erden
(天と地の創造主が)
Soll Erd' und Luft entzogen werden.
(大地と大気を奪い去られようとしています)
Die Unschuld muss hier schuldig sterben,
(罪無き方がここでは罪人として死ななければならず)
Das gehet meiner Seele nah;
(それがわたしの魂を悲しませるのです)
Ach Golgatha, unselges Golgatha!"
(ああ ゴルゴタよ、不幸なゴルゴタよ!)

上を読んだら「うわっ、難しい!」と思われるでしょう。あるいは日本語訳は難しくないにしても、内容が大げさで、表現が堅いと思われるでしょう。しかし、続く第60曲の「アルト・アリアと合唱」の歌詞は平易です。

Sehet, Jesus hat die Hand,
(見なさい、イエスはその手を)
Uns zu fassen ausgespannt,
(わたしたちを抱こうと広げました)
 Kommt! — Wohin? — In Jesu Armen.
 (来なさい! — どこへ? — イエスの腕の中に)
sucht Erlösung, nehmt Erbarmen,
(救いを求めて、憐れみを受けるのです)
 Suchet! — Wo? — In Jesu Armen.
 (求めなさい! — どこに? — イエスの腕の中に)
Lebet, sterbet ruhet hier,
(ここで生き、死に、安らぎなさい)
Ihr verlaßnen Küchlein ihr,
(見捨てられた雛達よ)
 Bleibet! — Wo? — In Jesu Armen.
 (留まりなさい! — どこに? — イエスの腕の中に)

すなわち"sehen 見る", "kommen 来る", "suchen 求める", "leben 生きる", "sterben 死ぬ", "ruhen 安らぐ", "bleiben 留まる"などという動詞のほか、"wohin どこへ", "wo どこに"という平易な疑問符が使われています。意味も平易です。すなわち、第59番は、呪われたゴルゴタの光景が大げさに歌われているのに対し、第60番は「十字架につけられたキリストの手が広げられているのは、わたしたちを抱こうとするためだ」とやさしいですね。こういう、パターンは、イタリアオペラのレチタティーヴォとアリアのパターンと同じです。したがって《マタイ》のレチタティーヴォとアリアに関しては、イタリアオペラ感覚で聴いていいと私は思います。

コラールの歌詞について
コラールについては、ほとんどは、原詩が歌われていると思いますので、あまり難しい解釈をしなくてもいいと思います(なかには、ピカンダーが作詞したコラールが歌われているかも知れませんが)。私は、最初から、コラールの歌詞については、それほど注意を払ってきませんでしたが、この作品を聴き込むにつれ、詞の意味が自然と頭に入ってきました。なお、ガーディナーも述べているとおり、コラールは、朗唱(地の文、レチタティーヴォとアリア)への共同体(会衆)の応答と位置づけることができます。あるいは、バッハによって、この作品が演奏された当時、聴衆(会衆)は、配布された歌詞を見ながら、コラールをこころの中でともに歌ったかも知れませんね。


そして、私が大いに強調したいことがあります。それは、ピカンダーの歌詞が、非常によく書かれているということです。ピカンダー(本名クリスティアン・フリードリッヒ・ヘンリーツィ Christian Friedrich Henrici 1700-1764)を「多才なしかし二流の詩人」と形容している人がいますが、この作品を聴く限り、それは当たりません。彼の存在なくしては《マタイ受難曲》は存在し得なかったでしょう。
[つづく]

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