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2007年3月23日 (金)

《マタイ受難曲》はお気軽に(1)

2007年は4月8日が復活祭なので、季節的には、いまが、バッハの《マタイ受難曲》を聴く時期です。私は、この作品を聴くのが好きなので、聴き比べをするうちに、所蔵する盤が17種類に増えました(下記)。

メンゲルベルク(39年、ライヴ録音)
フルトヴェングラー/VPO(54年、ライヴ録音)
リヒター(58年)
リヒター(79年)
クレンペラー(61年)
アーノンクール(70年)
アーノンクール(00年)
カラヤン/BPO(73年、スタジオ録音)
シュライアー(84年)
ガーディナー(88年)
レオンハルト(89年)
コープマン(92年)
コープマン(05年、ライヴ録音)
リリング(94年)
ヘレヴェッヘ(98年)
鈴木雅明(99年)
マクリーシュ(02年)

この作品は、たしかに取っつきにくいです。私もリヒター/アナログ盤に付いていた杉山好訳で、この作品を聴いていましたが、杉山好訳は、訳が難しすぎて、音楽を聴きながらでは文章を追いかけることができず、その結果、長いこと、この作品を理解できませんでした。その後、ネット上で、J.S.バッハ声楽曲対訳集を発見し、(大きな声では言えませんが)このサイトから《マタイ》のページのソースをコピーして保存、分からない単語をページに書き込むという作業によって、やっと私は《マタイ》テキストの理解を得、《マタイ》に親しむことができました。

この作品が取っつきにくいもう一つの理由は、やはり演奏時間の長さでしょうね。クレンペラー盤で約223分、短いものではトン・コープマン(05年、ライヴ録音)で約154分、マクリーシュのが約161分です。最近の録音では、演奏時間が短いものもありますが、それでも、この作品は、全曲を一気に聴かなければ、その良さが伝わりにくいので、忙しい人間には敬遠されるでしょう。

そこで、この作品を聴くポイントを、思い切って、簡単化して書きます

1.山場は、二つだけ
  一つは第1部《ゲッセマネの祈り》もう一つは第2部《ピラトの尋問》

《ゲッセマネの祈り》では、マタイによる福音書、第26章第36節から第46節の短い場面のなかで、音楽三つが挿入されます。

まず、地の文(福音書の文章)第18番

「それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、『わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。』」マタイ 26:36-38(新共同訳)

この「悲しみもだえ始められた」は、ドイツ語では"fing an(始めた) zu trauern(悲しむ) und zu zagen(怖れる)"です。動詞"zagen"には「決心がつかない,ためらう」という意味もあります。ここでイエスは、死を怖れるとともに、死を前にして「決心がつかない,ためらう」という心理状態にあると解せます。ところが、その直後に歌われるテノール・レツィタティーフとコラール(第19番)の歌詞は

Der Richter führt ihn vor Gericht.
(裁判官は彼を裁判の席に付かせる)
Da ist kein Trost, kein Helfer nicht.
(そこには憐れみも助けの手も無い)

とあり「イエスの裁判」に触れています。私は、この歌詞を見ると、第2部「裁判の場面」を先取りしているかのように思います。つまり、福音書の描写(第18番)では、イエスが、まだ「生か死か」「自分は捕らえられ死の裁きを受けなければならないのか」とためらい、もだえ苦しんでいるのに、第19番の歌詞は、すでに、イエスへの裁きと、その裁きにおいて耐えなければならないイエスの苦痛を神学的に拡大解釈しているように思えます。

さらに、第20番テノール・アリアの中間部

Meinen Tod büßet seine Seelen Not;
(わたしの死を彼の魂の苦しみがあがなった)

は、イエスの死(または受難)をも、先取りして歌っているかのように思えます。これも第2部の先取りであり、ピカンダーの聖書に対する積極的解釈だと私は感じます。

次に、地の文第21番

「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。』」マタイ 26:39

第21番では、イエスは、平たく言うと「できたら、死にたくない」と祈ってます。それに対して、ピカンダーの詞(バス・レツィタティーフとアリア 第22番)は

Der Heiland fällt vor seinem Vater nieder;
(救い主は自分の父の前にひれ伏し)
Dadurch erhebt er mich und alle
(それによって彼はわたしとあらゆる人々を)
Von unsern Falle
(その堕落から)
Hinauf zu Gottes Gnade wieder.
(神の恵みへと再び救い上げた。)
Er ist bereit,
(彼は備えている)
Den Kelch, des Todes Bitterkeit zu trinken,
(死の苦き杯を飲もうと)
In welchen Sünden dieser Welt
(その内に世の罪が)
Gegossen sind und häßlich stinken,
(注がれ、悪臭を放っている杯を。)
Weil es dem lieben Got gefällt.
(それが愛する神の意に適う事であるからと。)

ここも、かなり積極的解釈だと思います。第21番でイエスは「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」といってるのに対し、ピカンダーの詞「彼は死の苦き杯を飲もうと備えている」は、ある意味、イエスの言葉とは反対のことを表現しています。それは、まるで、イエスに、死の決意を促しているかのようでもあります。

3つ目は、地の文第24番

「それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。『あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。』更に、二度目に向こうへ行って祈られた。『父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。』」マタイ 26:40-42

この後に配置されてるコラール(第25番)は、

Was mein Gott will, das g'scheh allzeit,
(わたしの神が望んだ事、それは常に行われます)
Sein Will, der ist der beste,
(神の望み、それは最良のものなのです)

で始まる有名なコラールです。これはカンタータにもよく出てきます。すなわち、第24番でイエスは「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」と、やっと、死を受け入れる決意をしました。それを受けて、第25番のコラールでは(これはピカンダーの詞ではありません)、イエスの死は、神が望んだこと以外のなにものでもないと歌われます。この歌詞は、バッハの時代、ライプチヒの聴衆なら、誰でもよく知っていた歌詞、また歌ったことがあろうところの有名な歌詞です。

ピカンダーはゲッセマネの場面をうまく盛り上げていると思います。このイエスの苦悩の場面で、イエスの受難は「神が望んだ運命だ」と聴衆に訴え、イエスの苦悩と運命の両者を対峙させ、この作品にドラマチックな効果を与えています。繰り返して言えば、ピカンダーは、ゲッセマネの場面、すなわちイエスの苦悩の場面を、第2部の受難への伏線にしています。これは、この作品の流れに、適切な緊張感を与え、物語の展開を、退屈させずに引き締める効果としてはバッチリだと私は思います。このあたりのピカンダーとバッハの盛り上げ方はうまいですね。以上、私が《ゲッセマネの祈り》を第一のクライマックスであると思う根拠です。[つづく]

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